第21話 「彼女」2
三年が経ち、二人は中学生になった。
小学校から中学校へと場所が変わっただけで、生徒の顔ぶれは変わらない。こんな小さな町に外部からやって来る生徒などいるわけもなく、変わり映えのない死にかけた日常が、ただそこにあるだけだった。
漁港から吹く強い潮風が、死者の悲鳴のような声を出し、時が止まった町の中を吹き荒れる。
風が吹き荒れる度、町が錆び色に変わっていく。シミのように少しずつ、時間をかけてゆっくりと朽ち果てていく。
そんな変わることをやめた町で、「彼女」と久美子は何も変わらず、仲良がいい。
成長すると共に、益々「彼女」は美しくなり、大人びた横顔がとても綺麗で、中学生とは思えない雰囲気があった。
しかし、久美子は顔にまだまだ幼さ残り、「彼女」と比べれば子供。傍から見れば、姉と妹のように見える。
同じクラスで、学校に行く時も帰る時も休み時間も常に一緒。片時も離れず、お互いを感じ、お互いを支えて来た。
勉強の出来た「彼女」は、久美子に分からないところあれば教え、久美子は口下手で引っ込み思案な「彼女」のために困ったことがあれば率先して行動し、盾にも矛にもなり、「彼女」を守った。
「彼女」と久美子は一心同体。双子のような関係。
何でも話を聞いてくれる「彼女」にいつも久美子は助けられ、愛嬌いっぱいに笑う久美子の顔に、「彼女」はいつも癒されていた。
「ねぇ、美樹ちゃん。今日も部活?」
「うん。もうすぐ文化祭だし、間に合わせないと。」
夏の頃よりもほんの少し、日の暮れる時間が早くなった放課後。
生徒たちが次の目的地に向けて動き出す。
友達と帰宅する者。部活に向かう者。教室に残りお喋りする者。騒ぐ者。色とりどりの声がウルサイほど教室中に響き渡る。
「今日も一緒に帰れないのか…。」
つまらそうに久美子が呟き、「彼女」の前で拗ねる。
「当分の間はね。ゴメンね。」
教科書をカバンにしまいながら、久美子をあやすように「彼女」は答えた。
「…うん。…わかった。」
やっぱり、どうしても久美子は拗ねてしまう。
「ゴメンね。」
子供のように拗ねている久美子の顔の前で、「彼女」は両手を合わせ謝ると、久美子もこれ以上、「彼女」を困らせてはいけないと思い、いつもの明るい笑顔に戻り、
「じゃあ、頑張ってね。えーと…トックリアート?…だっけ?」
「トリックアート。」
何度言っても覚えられない久美子を見ながら「彼女」は笑った。
「そう!そう!それ!…何度聞いても忘れちゃうんだよね。」
愛嬌のある久美子の顔は、「彼女」の心を和ませる。
「じゃあ、先、帰るね。」
「うん。」
「また明日。」
「うん。また明日。」
「じゃあね、美樹ちゃん。バイバイ。」
「バイバイ。久美ちゃん。」
久美子は「彼女」に手を振りながら教室から出て行く。
「バイバイ…。」
久美子を見送ると教室が無口になる。まだ生徒も数名残り、笑い声も聴こえているというのに、教室が何だか寂しい。
久美子が帰ってしまえば、「彼女」のことを気に留めるものなど誰もいない。
生徒たちの声が響き渡る大きな校舎で、「彼女」は独り、置き去りにされた。
オレンジ色の西日が校舎の窓から消え始めると、生徒たちの声も校舎から段々と消えて行き、そして「彼女」の存在も徐々に夜の中へと消えて行く。
深い眠りにつこうとしている校舎の隅っこで、「彼女」はポツンと一人、絵を描いている。
誰もいない美術室。陸の孤島に明かり一つ。
暗くなった夜の世界に必死で抵抗するかのようにポツンと明かりが点いている。
ここは「彼女」の非難場所。
直すところない完成したトリックアートに筆を入れ、ここに居る理由を見つけ出す。静まり返った校舎で存在を消しながら「彼女」は黙々と筆を動かす。
家に居るより、ここに居る方が楽だった。
家に帰りたくなかった。
すえた臭いがする家。
祖母が待つ家。
祖母は以前よりも動きが鈍くなり、皮膚は枯れ、顔に生気がなくなり、そして、ゆっくりと壊れはじめた。
古い壁のようにボロボロと祖母の記憶が剥がれ落ち、祖母が祖母でなくなっていく。
時間が逆流する日もあれば、同じことを何度も何度も繰り返す日もあり、そうかと思うと突然、いつもの祖母に戻る日がある。
ネコの目のように祖母の気分はコロコロ変わり、サイコロの目のように祖母の人格がコロコロ変わる。
毎日、少しずつ壊れて行く祖母に恐怖を感じながらも、「彼女」は気付かないフリをして、この惨たらしい現実から背を向け暮らしている。
この現実を「彼女」の歳で受け入れろという方が無理な話だ。大人でも頭を抱えてしまう問題を中学生の少女に背負わせるには、あまりにも重く、あまりにも残酷な現実だった。
「彼女」に対処できる術はなく、誰かに相談してよいのかもわからない。今の「彼女」に出来ることと言えば、この辛い現実から目を背けることだけ。
非情過ぎる現実が「彼女」の両肩に重くのしかかる。
何もできず、助けも呼べず、「彼女」は心身ともに疲れていた。
“絵を描きたい” そんなありふれた些細な望みでさえ、祖母がいると叶わないもどかしさ。
久美子や他の子は普通に暮らしているというのに、いつも「彼女」だけ仲間外れにされて、泥道を歩かされる。
“私だけ、なぜ?”
“私が何をしたというの?”
“どうして、いつも…”
「彼女」の頭の中で、不条理を呪うやり切れない黒い怒りがグルグルと渦を巻く。
少し大人になった「彼女」には、世の中を客観的に見るという知恵がついた。
他の子と「彼女」を比べると明らかに違う不公平な事実。目を背けたくても追いかけて来る現実。
それは他の子にはなくて、「彼女」にだけあるもの。
その違いは決定的な違いであり、致命傷に近い傷であることを「彼女」は人と比べてはじめて気付く。
「彼女」の人生の道は、いつも土砂降り、ぬかるんだ道。
必ず祖母が立ちはだかり邪魔をする。
家があるのに帰る場所がない。学校が終われば、どこにも行くところがない。だから、「彼女」は下校時間ギリギリまで学校に籠城する。
文化祭の絵の仕上がりなんて、今の「彼女」にとっては、どうでもよかった。とにかく家に帰りたくはなかった。
ここに居る理由なんて何でもよかった。少なくとも学校に居る間は、ごく普通の生徒で居られるから。
辺りがすっかり夜になり、「彼女」は追い出されるように学校を出て行く。
そうなると「彼女」に出来ることは、ゆっくりと歩くことだけ。ゆっくりと歩いて家路に向かうことだけが、この醜い現実に抗う唯一の方法だった。
小さな町の夜は早い。信号は点滅し、店のシャッターは降ろされ、町は死んだように動かない。
その中を「彼女」はゆっくりと歩く。
遠回り、道草、石を蹴る。
空を見上げ、星を数える。
大好きな久美子と一緒に帰りたかった。
他の子と同じように、他愛もないことをおしゃべりしながら久美子と一緒に帰りたかった。
誰もいない帰り道。
誰も気付いてくれない帰り道。
小さな願いでさえ、空に浮かぶ星のように「彼女」の手には届かない。
遠い遠い願いごと。
追っても逃げる願いごと。
独り静かな帰り道。
ゆっくりと歩く帰り道。
吹き荒れる風だけが、いつまでも「彼女」のあとを追いかける。
それでも家に辿り着く。
どんなにゆっくり歩いても、行く当てのない「彼女」にとって行きつく先は祖母が待つ家以外、他になく、醜い現実から逃れることはできない。
「ただいま。」
歪んだ戸を静かに開け、祖母に気付かれないように息を殺して家に入ると、居間の襖がほんの少しだけ開いていた。
細い灯りが、暗い廊下に零れている。
その灯りに乗せられてガタゴトと何やら聞き慣れない音が聴こえ、土足で「彼女」の耳に入り込む。
「彼女」の中で何とも言えない不安が渦を巻く。
奥にある自分の部屋にそのまま逃げることも出来たが、居間を見ずに通り過ごすことは難しい。
音の正体を確認しないまま見過ごせば、そのあと「彼女」の身に災難が降りかかって来るかもしれない。
この家は「彼女」にとって禍そのもの。生きた心地も、休まることもない家。外よりも寒くて、冷たい家。
恐る恐る「彼女」は灯りが零れる襖へと歩みより、音がする居間の中を覗き込む。
「彼女」の目に入って来た光景は、祖母が何やら探しモノをしている姿だった。
それも必死になって探している。
引き出しを開け、押し入れに入っていた衣装箱をひっくり返し、ありとあらゆる場所からありとあらゆるモノを引っ張り出して、祖母は何やら探している。
まるで泥棒が入って来たかのように部屋が散乱し、足の踏み場もない。
その中を、一心不乱になって祖母が何かを探している。
「…おばあちゃん…何、やってるの?」
震える声で「彼女」は祖母に話しかけた。
「ないんだよ。確か、この部屋にあったハズなんだけどね。」
「彼女」の質問に答えはするが、「彼女」を一切見ることもないまま、何かを探している。夢中になって探している。
その光景は“異様”としか言い表すことができず、冷たい恐怖が「彼女」を襲う。
誰も助けてくれない。
誰も気付いてくれない。
「彼女」の悲鳴にも似た苦しみは、窓を強く叩く風の音に搔き消され、誰の耳にも届かない。
それでも、この異様な光景に「彼女」が対処しなくてはいけない。たった一人、幼い少女に惨たらしい現実が、容赦なく立ちふさがる。
「…何を、探しているの?」
その言葉に反応するかのように祖母がスッと「彼女」を見る。
その
「…何を…探しているのかね…。」
「彼女」はゾッとした。
家の居間に見知らぬ老婆が座っていた。
祖母の顔した見知らぬ老婆がビー玉のような空っぽの
逃れられない恐怖が「彼女」の体を悪寒となって走り抜け、思考を凍らせ、何も言葉が出て来ない。
思考も言葉も氷のように固まり、見知らぬ老婆を見つめたまま「彼女」は震えた。
絶望が「彼女」にしがみつく。
それでも「彼女」がこの場を何とかしなければ、この悪夢は終わらない。
残忍極まりない現実が、「彼女」を見逃すことはない。
「…おばちゃん。ここは私が片付けとくから…部屋に戻って休もう。」
「そうかい。すまないね。」
ゆっくりと立ち上がる祖母に「彼女」は手を差し伸べる。炭のように枯れた祖母の指は折れそうなほど細く、そして軽い。
祖母に似た他人を「彼女」は優しく労わりながら、居間の隣にある祖母の部屋へと連れて行く。
灰のように崩れてしまいそうな祖母の体を支えながら、「彼女」は散らかった居間を見る。
その惨状は祖母の頭の中、そのものであり、そして「彼女」の心、そのものであった。
半年が過ぎ、桜が咲き誇る季節となった。
「彼女」と久美子は学年が一つ上がり、上級生となった。しかし、顔ぶれはいつものまま。
新しい生徒が入って来ることも、クラス替えすることもなく、新鮮味のない新学期を迎えていた。
何もない日常が、ただそこに広がっているだけだった。
唯一、変わったことと言えば、教室が二階から三階になったことぐらいで、見慣れた景色が少し高くなり、小さな町をより一層小さな町と確認できる他には特段何もなく、間延びした時間だけが静かに漂い過ぎて行く。
「彼女」と久美子も同じクラス。いつも仲良し。この関係も変わらない。
この町に相も変わらず、強い風が吹き荒れる。
進級したばかりの教室の窓を風が強く叩き、桜の木が激しく揺れる。
真冬に耐え、やっと咲いた桜の花びらが、強い潮風に強奪され、風の向こうへと消えて行く。
春をもぎり取り、嘲笑う春の風。
新しい教室にも慣れ始めたある晴れた日の午後。
春眠暁を覚えず。
春の暖かい日差しが、教室の中に降り注ぎ、生徒たちの集中力を奪い取る。お昼の後ということもあり、お腹を満たした生徒たちに凄まじいほどの睡魔が襲う。
しかも、授業が古典。
誰もその気怠さから脱出しようとする者はおらず、教室は静まり返っていた。
先生が書くチョークの音が、小気味いいリズムを作り、生徒たちにとっては子守歌。目を開けておくのが難しい。
少し薄くなった頭を生徒に向けながら、黙々と黒板に和歌を書き続けている古典の三田先生は顔にシワが多く、歳よりも老けて見えた。
生徒からは“シワシワ”と呼ばれ、よくからかわれていた。男性にしては小柄な三田先生は、その体格同様、声も小さく、ボソボソと話すので、授業を真面目に聴こうとするものは少なく、ましてや古典という授業は生徒たちにとってまったく興味の持てない授業であり、眠りを誘う要素がふんだんに含まれたこの教室に誰が抗うと言うのだろうか。
夢うつつ。
まどろむ教室。
必死に眠気と闘う午後の春。
ーそれは突然、訪れるー
溶けたプラスチックのような教室に小さな音が聴こえて来た。
スタスタと小さな音が聴こえて来る。
最初に気付いたのは、廊下側に座っている男子生徒だった。
どうやらその音は廊下から聴こえて来るようで、男子生徒は廊下に視線を送る。
校舎全体が静かで、物音一つしない空間。
ちょっとした音でも大きく聴こえ、耳に入って来る。
その音は段々と近づいて来る。
そうなると他の生徒たちも、その音に気付きはじめ、教室が俄かに活気づく。
その音は、誰かが廊下を走る音。
慌てるように誰かが走って来る。
生徒のほとんどが廊下に意識が向く。
普段、学校で廊下を走る者はいない。そう注意されている。その注意されている廊下を走っている。しかも授業中に。
“これは、ただ事ではない”
眠りにつこうとしていた生徒たちの頭が覚醒する。
その走る音は、確実に近づいて来ている。
生徒たちの興味も徐々に上がる。
退屈な時間を終わらせてくれる何かが廊下の向こうからやって来るのだから、胸は高鳴り、期待する。
日常から非日常に変わろうとする瞬間。
生徒たちの興味は爆発寸前。
ザワザワとし始めた生徒たちに、やっと三田先生も気付き、書く手をとめ、生徒たちと同じように廊下に目線が行く。
走る音が、この教室の前で止まり、それと同時に、川上先生の姿がドア越しに見えた。
川上先生とは、このクラスの担任。体育の先生。
体育の先生ということもあり、体が大きく、声もデカい。普段は気さくで優しい先生なのだが、怒らせると怖いので、生徒たちは、川上先生の前では従順なか弱き子羊となり、行儀がいい。
その川上先生が血相を変え、教室に現れたのだから、生徒たちの興奮は最高潮に達する。
何のことかわからなくても、騒げればそれでいい。この緩んだ空気が変わるのならば、生徒たちは、どんな理由であろうと大歓迎だ。
川上先生は、チラッと窓際に目をやり、そのあと、静かに三田先生を呼んだ。
川上先生がチラっと見た先には「彼女」が座っていた。
三上先生は、「彼女」を凝視したわけではないのだが、「彼女」も三上先生と目が合い、何かを感じた。
「彼女」が感じたということは、生徒たちも感じたということ。騒ぎたくてウズウズしている生徒たちが敏感に反応する。
生徒の
その
珍しい動物を見るような
普段、クラスで目立つこともなく、物静かに窓際で本を読んでいる「彼女」。
その姿は美しく、学校でその美貌を知らない者はいない。
男子生徒からの眼差しも熱く、女子生徒からも一目置かれていて、密かに注目されていた。
他校の生徒にもその噂はすでに知れ渡っており、皆が「彼女」のことを知っていた。
マドンナのような存在。知らないのは本人ぐらいなもの。
もちろん久美子も知っていたが、そんなことを敢えて言うこともなかったので、「彼女」の耳に入ることはなかった。
目立つことを嫌い、積極的に人と関わろうとする性格ではないので、「彼女」の話し相手と言えば、久美子だけ。その消極的性格のおかげで、噂を耳にすることはなかった。
そして、何より「彼女」は、自分の容姿の美しさに気付いていない。
小さい頃からジロジロと見られる視線がイヤで、どうして見て来るのか分からず、とても恐かった。
いつの頃からか息を潜め、陰のように暮らす癖がついた。家のこともあり、出来るだけ人目につかないようにひっそりと息を殺して生きて来た。
そんな「彼女」が、今、生徒全員から見られている。
嫌いな視線を一気に集め、皆がヒソヒソとこっちを見て話している。誰にもわからない状況の中で、なぜか「彼女」が注目を浴びている。
得体の知れない恐怖が「彼女」の体を冷たく走る。
恥ずかしさのあまり、「彼女」の体が熱くなる。
思わず「彼女」は、廊下の一番後ろの席に目を向ける。
そこは久美子が座る席。
久美子も突然のことで困惑していた。
二人は激しく動揺する。
廊下で先生たちが話している。
三田先生は、三上先生の話を聞いて驚き、「彼女」を見る。
“確定だ”
この非日常の主役は「彼女」だと、誰もが確信する。そうなると生徒たちの奇異の
「彼女」もそれを感じ、体が石のように固くなり、少しも動けない。動いたら最後、どうなるのかわからない。もう誰の
「彼女」の出来るささやかな抵抗と言えば、教科書に視線を落とし、“私には関係のないこと”と知らない素振りをすることだけ。
ジロジロと嘲笑にも似た視線が、「彼女」の体に突き刺さる。
コソコソと囁きにも似た陰口が、「彼女」の耳に突き刺さる。
教科書に顔を埋めてしまうほど近づき、「彼女」は神様に祈った。
“どうか、私ではありませんように”
「佐伯、ちょっと。」
廊下から顔を出し、川上先生は「彼女」を呼んだ。
「彼女」の心臓が強い衝撃を受け、痛み出す。
生徒たちは、蜂の巣をつついたように騒ぐ。
何が起きたのかはわからなくても、何かが起きたことは間違いない。生徒たちにとって、それだけでよかった。非日常がやって来るのなら、どんなことでもよかった。
生徒たちは無責任に面白がり、お祭りのようにはしゃぐ。
「お前たち授業中だぞ!静かにしろ!」
と、川上先生が言ったところで、生徒たちが静かになるワケがなく、はしゃぐ、はしゃぐ、生徒たちはケタケタ笑い、はしゃぎ出す。
「彼女」は立ち上げるのもやっとだった。
震える体に力を入れて、何とか前に動かそうとするが頭に上手く伝わらない。手足がバラバラになり、言うことをきいてくれない。
それでも「彼女」は気丈に振舞い歩き出す。
本当は久美子の顔を見て安心したいのだが、久美子を見ると自ずと他の生徒の顔もみなくてはいけなくなる。それが恐くて振り向くことができない。久美子に助けてと言えないまま、三上先生の居る廊下を真っ直ぐに見つめて「彼女」は歩く。
クラスのみんなの視線が痛い。面白がって「彼女」を見ているのがわかる。
体が思うように動かないのに、なぜだか、そんなことは強く感じてしまう。全身が敏感になり、生徒たちの気持ちが手に取るようにわかる。
すべてがスローモーションのようにゆっくりと動いている。
廊下までの距離が長い。
いつもなら簡単に行ける道のりが、万里の長城のように長い。歩いても歩いても辿り着き気がしない。
そのもどかしさが、「彼女」に焦りを生む。
教室の床が、ぬかるんだ土のように柔らかく、「彼女」の足にまとわりつく。
足に力を入れても、なかなか前に進まない。
「彼女」は泥で出来た万里の長城を、ただひたすら歩く。
時が止まり、息苦しいほどもどかしい長い道のりを「彼女」は必死になって歩く。
“焦るな。焦るな。”と「彼女」は自分に言い聞かせ、鋭い矢のように突き刺さる視線を体全身で受け止めながら、倒れないように、つまずかないように歩く。
“助けて” その一言も言えない状況で、「彼女」は前だけ向いて、真っ直ぐ歩く。何もなかったようなフリして真っ直ぐ歩く。
ようやく廊下に辿り着く。とても長く感じた道のり。意識が朦朧とする。
「彼女」は力を尽きた顔で、先生たちの顔を見る。
三上先生は、「彼女」の顔を見て、ゆっくりと話し出す。
「いいか。佐伯、落ち着いて聴くんだぞ。」
言葉が上手く出て来ない。「彼女」は黙って小さく頷く。
「今、消防署から電話があって、佐伯の家で
「えっ⁉」
思わず言葉が口から零れた。
「お、おばあちゃんは⁉ 大丈夫なんですか⁉」
「彼女」は三上先生に近寄り、祖母の安否を確認する。
「落ち着いて、佐伯さん。」
隣りに居た三田先生が、「彼女」の左肩に手を当て、冷静に話しかける。「彼女」は我を失いかけながら、三田先生に目を向けると、三田先生は小さく頷き、「大丈夫」と声をかけた。
その声で「彼女」は、少し冷静になれた。その表情を見て、三上先生が諭すように話し出す。
「大丈夫だ。佐伯。おばあちゃんは軽い火傷をおってはいるが、大事には至ってはないようだ。今、病院で手当てしているから、すぐ、用意しなさい。先生、送って行くから。」
「はい。」
「あとのことは心配しなくていいから。」
三田先生は、シワシワな顔をさらにシワシワにさせながら、優しく「彼女」に声をかけた。
「はい。スイマセン。」
そういうと「彼女」は、二人の先生に深々と頭を下げた。
こんなに大人に優しくされたのは、生まれて初めてだった。いつも孤独に祖母と暮らしてきた「彼女」にとって、この優しさは、深い傷に痛いほど染み渡り、「彼女」の目頭を熱くする。
その涙が頬を伝うよりも早く、「彼女」は振り向き、走り出す。
その様子を見て、生徒たちはさらに騒ぎ出す。教室が嵐のように暴れ出す。
先ほどまで、まともに歩くことさえ出来なかった道のりを「彼女」は無我夢中で走り、席へと戻る。
奇異な
自分の席に戻る時、久美子と久しぶりに目が合う。
久美子も不安な顔して、「彼女」を見ている。
久美子の気持ちを感じながらも、「彼女」はカバンを手に取り、再び先生たちの元に走り出す。
机の上に開いたノートを片付けることもなく、教科書をすべて残したまま、「彼女」は賑わう教室から逃げるように出て行く。
久美子だけが喧騒とする嵐の中で、心配そうに「彼女」を見送る。
夕陽が地平線に吸い込まれ始めた頃、「彼女」は久美子の母と歩いていた。
少しひんやりとした風が、二人の背中を強く押す。
「彼女」は項垂れ、夜に消えゆく自分の影をジッと見つめ歩いている。
寄り添うように久美子の母が、「彼女」の背中にそっと手を当て、慰める。
「おばあちゃん、大した事なくてよかったね。」
久美子の母の優しい声を聴き、「彼女」は小さく頷いた。
「二週間もあれば退院できるって病院の先生も言ってたから、大丈夫だよ。」
久美子の母は、うつ向いてる「彼女」の顔を覗き込みながら優しく話しかける。
気にかけてくれている久美子の母の優しさが、「彼女」には痛かった。こんな恥ずかしいところを久美子の母には見られたくなかった。久美子に知られたくはなかった。
今まで、ずっと耐えて隠してきたのに、こんな形で久美子の家族にバレてしまったことが悔しくて、悔しくて、恥ずかしくて、泣きたい気持ちを必死で「彼女」は抑えていた。
下唇を「彼女」はギュッと強く噛んだ。
そんな気持ちを察してくれているのか、久美子の母が、「彼女」にそっと寄り添う。
支えてくれている背中の手のぬくもりが、ジンジンと沁みてくる。
「彼女」のためだけにかけられた優しい言葉が、ジワジワと心に沁みてくる。
「彼女」は必死で涙を堪えた。
今にでも零れ落ちそうな感情を久美子の母の前で流してしまえば、さらに迷惑をかけてしまう。
だから「彼女」は我慢した。
“本当は優しくして欲しい” 誰よりもそれを強く願っていながら「彼女」は耐える。“心配かけてはダメだ”と言い聞かせながら「彼女」は耐える。
「あの…色々…ご迷惑をかけてスマセン…。」
耐えていることを悟られないように、「彼女」は大人のフリして、気丈に振舞い、祖母の代わりに頭を下げた。
精一杯、大人として見てもらえるように背伸びをするが、その声はか細くて、とても小さい。
「彼女」の声は、風に流され消えて行く。
「何言ってるの。美樹ちゃんが謝る必要なんてないんだよ。美樹ちゃんは悪くないんだから。」
カバンを持つ「彼女」の両手を強く握りしめ、久美子の母は答えた。「彼女」の心に罪の意識が芽生えないように両手を優しく包み、思いを伝える。
久美子の母の手は暖かい。
ヒビが入り、壊れかけていた「彼女」の心を、母親の愛情が救ってくれた。
それは「彼女」が、ずっと求めていたもの。
「それに謝るのは、おばちゃんの方だよ。ゴメンね、今まで気付かなくて。最近、おばあちゃんの様子が変だとは思っていたけど、まさか…。」
久美子の母は項垂れ、一人で祖母の面倒を見ていた「彼女」のことを気遣った。
どれだけ心細かったことだろう。大人が背負わなくてはいけない重荷を「彼女」一人に背負わせ、悲鳴も上げず、必死に頑張っていたというのに、誰も気付いてあげられなかった。
握りしめた小さな手はまだ幼く、柔らかい。
こんな小さな手で、抱えきれないほどの苦しみを一生懸命、受け止めていたのかと思うと、久美子の母の心は張り裂けそうだった。
「もう大丈夫だから。おばあちゃんの面倒はおばちゃんが見るから。隣りの佐々木さんも手伝ってくれると言ってくれてるから、美樹ちゃんは何も心配しなくていいからね。」
「彼女」は久美子の母の顔を見たまま動けなかった。
“本当に祖母を任せてしまっていいのだろうか?”
“自分だけ楽をしているのではないか?”
「彼女」の
それを察したのか、久美子の母は「彼女」の手をギュッと強く握り
「いいの。おばちゃんたちに任せて。」
その時、「彼女」の心が、フッと軽くなる。
「ありがとうございます…。」
ずっと耐えてきた苦しみが、ようやく涙となって「彼女」の
とめどなく流れ落ちる涙。溢れ出る涙。「彼女」はその涙を止めようとはせず、久美子の母の前で静かに泣いた。
どうしょうもない暗闇から「彼女」は解放された。「彼女」の手を強く握り久美子の母が助けてくれた。
罪悪感が洗い流される。
「ゴメンね。本当にゴメンね。」
「彼女」を抱き寄せ、背中をさすり、久美子の母も泣いた。
二人の心が通じ合う。
夕陽が消えゆく小さな町の片隅で、二つの影が寄り添いひとつになる。
久美子の母に抱かれながら、「彼女」は“母親”という存在を感じていた。
はじめて感じる母の優しさ。
独り占めできる母のぬくもり。
やっと久美子から奪えた。
「さぁ、日が暮れる前に身支度しないとね。」
もっと、この優しさに触れていたかった。
しかし、現実はどこまでも冷たく非情。束の間の幸せさえも、「彼女」からあっけなく奪い取る。
「彼女」は諦めて、母親を久美子に返した。
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