第22話 「彼女」2

「ご迷惑をおかけしました。」


隣の家の玄関先で、「彼女」は佐々木夫婦に向かって頭を下げ、深く謝った。

“発見が遅ければ、火が燃え移っていたかもしれない” 

「彼女」の頭に罪悪感が重くのしかかる。


「いいのよ。美樹ちゃん。美樹ちゃんが謝ることじゃないんだから。頭上げて。」


体を小さくして頭を下げている「彼女」を、佐々木のおばちゃんが優しく気遣う。


「そうだぞ。美樹ちゃんが謝ることなんてねぇんだから。それに、佐伯のばあさんも無事だったんだから、それでいいじゃねぇか。ほら、顔を上げな。」


漁師らしく、ぶっきらぼうではあるが、佐々木のおじちゃんも、「彼女」を労わり、慰めた。


それでも顔を上げるのが、「彼女」は心苦しかった。

「彼女」の家の秘密がバレてしまった恥ずかしさと小火を出してしまった負い目が、「彼女」の頭をもたげさせる。

佐々木夫婦のを見るのが恐かった。


「ほら、大丈夫だから。佐々木さんもそう言っているんだから。ね。顔を上げて。」


付き添ってくれた久美子の母も、「彼女」のことを思いやり、助けてくれた。


「彼女」にはそれが辛かった。

迷惑をかけたのは祖母の方だというのに、みんなが笑顔で優しく接してくれる。

それが一番心苦しく、胸が痛い。

しかし、優しくしてくれる大人たちの言葉に甘えること以外、無力な「彼女」にできることはなく、どうしたらいいのかわからないまま、「彼女」は気まずそうに頭を上げた。


優しい顔で、大人たちが「彼女」を見ている。


佐々木のおばさんが、「彼女」に笑顔で話しかける。


「大丈夫だよ。久美子ちゃんのお母さんが、すぐ来てくれて、病院まで連れて行ってくれたから、おばあちゃんも大事にならなかったし、そんな気にすることはないわよ。」


「そうよ。小火で済んだんだから。」


佐々木のおばちゃんの話に久美子の母も加わり、大人たちが懸命に「彼女」を支えようとしていた。


「佐伯のばあさんも家も無事なんだから、それでいいんだよ。」


不器用な言い方で、佐々木のおじさんも「彼女」を気遣う。


ここに居るすべての大人が、「彼女」の気持ちを理解し、罪の意識を持たないように必死で「彼女」を守ろうとしている。

「彼女」もまたそんな大人の気持ちが痛いほど分かっていた。


大人の優しさが、「彼女」の心を締め付ける。


「美樹ちゃん。泊まる準備して来てくれる。おばちゃん、ここで待ってるから。片付けは、明日おばちゃんたちがするから、荷物だけ取って来てちょうだい。」


久美子の母が、居場所のない「彼女」の見て、助け舟を出す。


「…はい。」


か細い声で返事をした後、佐々木夫婦にもう一度、深々と頭を下げ、大人たちの前から逃げるように家へと戻って行った。


「どうするんだい?」


佐々木のおばさんが、ポツリと久美子の母に聞く。


「二、三日、学校休ませようかと思って。」


久美子の母も、佐々木のおばさんにポツリと返す。


「それがいいね。久美子ちゃんがいて、ホント良かったよ。」


「えぇ。」


「彼女」に対する二人の思いが行き場をなくし、玄関先で虚しく漂う。


「婆さんも、爺さんが生きてた頃は、ハキハキとした明るい人だったんだけどな。爺さんが死んでから、めっきり老け込んじまって。まさか、ボケてたとはね。」


やりきれない気持ちをぶっきらぼうな言葉で包みながら、佐々木のおじさんは煙草に火を点け、溜め息に似た煙を口から吐いた。


「不憫だね…。」


佐々木のおばさんの嘆いたその言葉が、煙草の煙と重なり、大人たちの目頭をツンとさせた。




いつものように「彼女」が傾いた戸を開ける。

家は死んだように静かだ。

見ず知らずの他人の家に黙って入るようなそんな不思議な感覚が「彼女」を襲う。

ぽっかりと空いた廊下の暗闇。

いつも見慣れた風景なのに、今日は何だか気持ちが悪い。どこか違う場所へ引きずり込まれてしまうような恐怖が、「彼女」の足に絡みつく。


家に入るのを躊躇していた。


久美子の母が待っている。入らないわけにはいかない。

「彼女」は恐る恐る気配を消しながら、見つからないようにそろそろと家の中に入って行く。


ぽっかりと空いた暗闇の先に「彼女」の部屋がある。

廊下を歩くとギーギーと廊下が魔物ような音をたて泣き叫ぶ。

恐怖のせいか、軋む廊下の音がやけにうるさい。

部屋に向かう途中に台所がある。

祖母が小火を出した場所。「彼女」の秘密が露見してしまった場所。

「彼女」は左側にゆっくりと目線を動かし、台所を見る。

おぞましものでも見るように、見てはいけないものでも見るように、ゆっくりと目線を左側に向ける。


コンロの壁が黒く焼け焦げ、炎の跡が這い上がる手のように天井まで伸びて広がり、すべてが燃えて影になっていた。

消火器の白い粉が部屋中に飛び散り、テーブルは端に追いやられ、床は一面、水浸し。いくつもの靴跡があちこちに散乱し、慌てていたことが手に取るように分かり、その時の惨状がハッキリと「彼女」の耳に聴こえてきた。


そこには今朝まで見ていたいつもの風景はどこにもなく、すえた臭いさえも燃えていた。


恐くなり目を伏せて立ち去ろうとした時、ふと、床に転がっている鍋に目が行く。

真っ黒な姿となり、見るも無残に変わり果て、床にゴロンと転がる鍋。

よく見ると、水浸しの床の上に煮物らしきものの残骸が散らばっていることに「彼女」は気付く。


その瞬間、「彼女」の体の中を虫唾が這い回る。


“こんな汚いものを毎日、食べていたのか”と思った瞬間、「彼女」の胃から嫌悪感が込み上げて来た。


「彼女」は慌てて口を押さえ、部屋に逃げ込んだ。


こんな汚い所に、一分一秒居たくなかった。

こんな汚い所の空気を吸いたくなかった。


急いで、バックに服を詰め、「彼女」は逃げ去るように家を出た。




その日の夜。「彼女」は久美子の家で食事をしていた。


居間のテーブルの上には、たくさんの皿が並び、色とりどりの料理が盛り付けられ、「彼女」の目の前に置かれている。

「彼女」が知っている久美子の家のテーブルは絵を描く時に使うテーブル。

せいぜい置いてあってもお菓子の容器ぐらいなもので、それぐらいは「彼女」の家にも存在していたが、今夜見ているテーブルの顔は初めて見る顔だった。


「彼女」は少し、戸惑っていた。


この顔は「彼女」が帰ったあとに見せる顔で、当然、そんな顔があることを「彼女」が知るワケもなく、想像すらしたことがなかった。


「彼女」の家のテーブルには存在しない顔。

テレビでしか見たことがないテーブルの顔。


こんな近い場所で存在していたことに、「彼女」は、ただただ驚いていた。


どうしたって「彼女」の家のテーブルの顔と比較してしまう。


そして、もっと「彼女」を驚かせたのが、賑やかな会話だ。

久美子の母が笑うと、「彼女」の横で久美子も一緒になって笑う。たわいもない話で盛り上がっている。


“こんなに食事中は、うるさいものなのか?”


「彼女」には分からなかった。すべてが未知の経験で、なのか、さっぱり分からなかった。


「彼女」の前で久美子の弟・稔が美味しそうに料理を食べ、上座で久美子の父が晩酌をしている。


“これが家族というものなのか?”


「彼女」は“一家団欒”というものが理解できずに困惑していた。


そうしたって「彼女」の家族と比較してしまう。


「どうしたの?」


久美子は戸惑っている「彼女」を横から心配そうに窺う。


「ん?何でもないよ。」


「キライなものあった?」


久美子の母も心配そうに話しかける。


「大丈夫です。」


「彼女」は居候の身。久美子の家族に迷惑をかけてはいけないと思い、この場にあった笑顔を作り、みんなを安心させる。


「まだ慣れてないだけだろ。」


久美子の父がコップにビールを注ぎながら、ボソリと呟く。


「美樹ちゃん遠慮しなくていいのよ。」


久美子の母は「彼女」のことを気遣い、優しい言葉をかけてくれるが、それが却って「彼女」には重荷になり、余計、迷惑をかけないように気丈に振舞う。


「はい。大丈夫です!有難うございます。」


精一杯の笑顔を久美子の家族に見せ、「彼女」は平然を装う。


「こんな家に気を遣うことないのに。」


稔はムシャムシャと食べながら「彼女」に話しかける。

隣りに座っていた久美子の母が、無言で稔の頭をペッシっと叩く。


「痛って!」




久美子の家族を目の前にして、「彼女」は何とも言えない“ズレ”を感じていた。


“独り”という“ズレ”


死ぬほど憧れ夢見たごく普通の、ごくありふれた日常の中に「彼女」の居場所が見当たらなかった。


明るく楽しい家族を遠巻きに見ている感覚。


食卓を囲むという些細なことですらイメージできない「彼女」。

幸せの味わい方を知らない「彼女」。


布団に入っても、「彼女」はそのことを考えていた。

天井を見つめながら、“ズレ”の正体を探していた。


“なぜ、久美子と違うのか?”

“なぜ、私だけ違うのか?”

“なぜ、私にだけ幸せが来ないのか?”


グルグルと幼い頭を巡らせて、「彼女」は答えを見つけ出そうとする。

その横で久美子がお喋りをする。修学旅行の時にように布団をくっつけて、少し、興奮気味にお喋りをしている。「彼女」とたくさんお喋りをしたいのだろう。

しかし、「彼女」は空返事。久美子の話は右から左に消えて行く。


夜も深くなった頃、久美子の寝息を聞きながら、「彼女」は“この世に神様がいないことを知った”




次の朝、「彼女」と久美子は学校へ向かい歩いていた。

たくさんの生徒たちがワイワイと話をしながら、学校へと続く道を歩いている。

久美子は「彼女」の横で、少しうつ向き、不安気な表情で歩いている。


「美樹ちゃん。本当に休まなくていいの?」


「うん。大丈夫。」


「彼女」は明るく、笑顔で久美子に答える。


その明るく答える「彼女」が、とても久美子は気になり、どうしても、しつこく聞いてしまう。


「でも、お母さんも休んだ方がいいって言っていたし…。」


「大丈夫。平気だから。」


久美子の母が言った意味を、久美子も理解し、「彼女」も久美子の言った意味を理解している。


こんな小さな町で、小火があっただけでも重大なニュースだ。そんなが起これば、この町を吹き抜ける風のように、あっという間に話が広まり、人々の耳に入って行く。

その事件を知るということは、「彼女」のも、この町を駆け抜け、人々の耳に入るということ。

久美子も久美子の母もそれを心配していた。できれば数日、「彼女」に学校を休んで欲しかった。

この町を吹き抜ける風のように、「彼女」の秘密がどこかへ消え去ってしまうまで、「彼女」を非難させたかった。

久美子は「彼女」が傷つくところを見たくなかった。

それでも「彼女」は笑顔で「大丈夫」と答えるだけ。

それが「彼女」の精一杯の強がりだと言うことは、久美子も分かっている。痛いほど分かっている。


「彼女」の笑顔を直視できず、久美子はうつ向き歩いていたが、これ以上、「彼女」を笑顔にさせてはダメだと久美子は思い


「美樹ちゃん。今日の一時間目、テストだね。」


普段の二人に戻ろうと久美子は明るく話しかけ、話題を逸らした。


「うん。そうだね。」


「彼女」もそれを分かっていながら、分かってないフリをして答える。


「私、無理かも。」


「私も。」


他愛もない話で二人は笑う。いつもの朝を、二人は歩く。相手を思いやりながら、傷口に触れないように会話する二人。


強い風が雲を押し流し、どこまでも続く青い空。

澄んだ朝に、二人の笑い声が悲しく吸い込まれて行く。

 

どうすることもできない現実が、この青い空のように「彼女」の上にどこまでも広がり続け、終わりが見えない。


その空に、二人の声が響き合う。

抗うように笑い合う。


 



























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