第23話 「彼女」3
あれから二年が経ち、「彼女」と久美子は高校生になっていた。
二人とも地元の高校へ進学し、相も変わらず仲のいい。クラスが違っても、二人は毎日一緒。変わらない関係を築いていた。
「もう、終わる?」
そう言いながら、久美子は美術部に入って来た。
久美子は高校生になり、顔立ちが少しだけ成長し、女の子から女性へと変わりつつあったが、愛嬌のあるクリっとした
久美子が部室に入ると「彼女」が一人で、黙々とデッサンをしていたが、久美子の言葉で、「彼女」は我に返り、腕時計を見る。
時間は夕方、六時前。
「あっ、ゴメン!今、片付ける!」
「彼女」は、急いで片づけをはじめた。
「彼女」も大人へと成長し、その横顔は見とれてしまうほど美しく、高校生とは思えない。
憂いに満ちた
時折り見せる物憂げな表情。
静かに微笑む唇。
この学校で、「彼女」の美しさに気付いていない者などいない。「彼女」を除いて誰もが知っている周知の事実。
もちろん、久美子も気付いているし、「彼女」が気付いていないことも気付いている。
しかし、久美子はそのことについて、「彼女」に言うことは決してなかった。言ったところで、「彼女」が困るだけだし、久美子自身も興味がなかった。
「あれ?他の部員は?」
「帰った。夢中になってたからゴメンね。」
一緒に帰る約束を、すっかり忘れていた。
「いや、別にいいんだけどさ。」
そう言いながら、「彼女」の描いたデッサンを久美子はマジマジと見る。
「よくないよ。おばちゃんに悪いよ。」
「いいんだって。ウチのお母さん、人の面倒見るの好きだし。」
久美子は、前に置いてあるマルクス・アウレリウスの石膏像と、「彼女」の描いたデッサンを見比べる。
「そうはいかないよ。昼間、おばあちゃんの面倒ずっと見てもらっているワケだし、遅くなったら悪いよ。」
「…佐々木のおじちゃんとおばちゃんもいるから大丈夫でしょ。」
「そういう問題じゃないの。」
吞気なことを言っている久美子に、「彼女」は少し、呆れる。
「彼女」にとっては、祖母を人に任せておけばいいという問題ではなかった。
高校生になったとは言え、「彼女」はまだ子供。出来ることは限られているが、せめて早く帰り、久美子の母を解放させてあげなければならないと、「彼女」なりの気遣いがあった。
支えてくれている大人たちに、今、「彼女」が出来る精一杯の償い。
「って言うかさ。なんで、このオジサンが、こうなっちゃうのかな?」
「えっ?」
「彼女」の描いたマルクス・アウレリウスは、右側の顔だけ逆さに描かれていた。
「彼女」独特の美的センスは、高校生になっても健在で、腕に磨きがかかっていた。
「このオジサン。立派な顔していると思うけどな。」
久美子は、前に置いてあるマルクス・アウレリウスの石膏像へと歩き出す。
「だって、こっちの方がカッコいいもん。」
「美樹ちゃんの絵はホント、子供の時から変わってるよね。普通の絵、描いたの見たことないもん。」
久美子はマルクス・アウレリウスの石膏像をペタペタと叩きながら、話しをする。
「そう?これが私には普通なんだけどな?」
気をてらっているワケでも、誇張しているのでもなく、「彼女」にとって、“絵を描く”ということは、つまり、そういうことで、「彼女」なりの正しい表現方法でキャンバスに絵を描いているだけなので、良いとか悪いとかの話しをされても、「彼女」にはわからない。
「彼女」には、これが普通なのだから。
「美樹ちゃんは、高校出たら、どうするの?やっぱり、美術の学校行くの?」
「…どうだろ。まだ、わかんない。」
「彼女」の人生の道には、いつも祖母が行く手を阻む。それは将来という「彼女」の道にとっても例外ではない。
無視することも、誰かに任せることも出来ない障害物。
久美子の何気ない質問にさえも言葉が詰まるほど。
「じゃあ、行くとしたら、東京の学校?」
「東京?」
「そう!東京!」
「…東京…なんで?」
久美子の突拍子もない質問に、「彼女」はやっぱり言葉が詰まる。
「美樹ちゃん、東京でモデルやってみたら。」
「モデル?」
突拍子しもない質問が、次々と飛んで来て、「彼女」は久美子の考えについて行けないでいた。
「そう!モデル!」
「私が?」
「うん。美樹ちゃん綺麗だから、モデルさんになれると思うんだよね。東京に行ったら。」
その言い方で、「彼女」は久美子の魂胆を読み取った。
物心つく前からの親友。姉妹のように暮らして来た「彼女」だから、久美子の思っていることは、すぐわかる。
「クミちゃんが、東京に行きたいだけでしょ。」
「彼女」のは、すべてお見通し。図星をつかれ、久美子はギクリとする。
「ち、違うよ。美樹ちゃんには、モデルが一番似合っているなーと思ったから言ったの。別に私が東京に行きたいわけじゃないもん。」
マルクス・アウレリウスの頭をぺチぺチと叩きながら、久美子はわかりやすく動揺した。
「じゃあ、わたし一人で東京行って、モデルになろうかな。」
面白半分で、「彼女」も久美子に付き合う。
「ダメ!ダメ!ダメ!」
久美子は両手を振りながら、慌てて「彼女」の意見を却下した。
「なんで?」
「だって、…ほら、わたしがいないとダメだし…。」
「敏腕マネージャーだから。」
「そう!やっぱり、有名モデルには敏腕マネージャーがいないとダメ。東京って、そういう所だから。」
「そういう所ね…。」
「そう。そういう所。」
「彼女」は久美子の顔をジッと見る。久美子も悟られまいと平然とした顔をするが、それでもやっぱり「彼女」は、すべてお見通し。
「ヤダ、行かない。」
冗談半分で、「彼女」が答える。
「え~行こうよ~東京~。一緒に行こうよ~。」
久美子はマルクス・アウレリウスの頭をペシぺシと叩きながら、甘えるように「彼女」に懇願する。
美術室に「彼女」の明るい笑いが、響き渡る。
台所から世話しなく久美子の母が現れ、居間に座っている「彼女」の祖母に話しかける。
「佐伯さん。夕飯作っといたから美樹ちゃんと一緒に食べてね。」
「あーい。どうも。」
祖母はテレビに向かってお辞儀をする。
誰に何を言われているのわかっていない空虚な言葉が、祖母の口から零れる。
強い風が冷気を引き連れて、「彼女」と久美子の体をすり抜けて行く。
二人はマフラーで、顔を隠し、日が暮れた寂しい町を歩く。
「今朝、アルバイトだったんでしょ。」
久美子が鼻を真っ赤にして、「彼女」に聞く。
「うん。」
「彼女」は小さく頷き、答える。
「港でしょ?」
「そう。」
「力仕事?」
「それもあるけど、色々。」
「大丈夫?」
「うん。佐々木のおじちゃんがいるから大丈夫。」
「そう。…本当に、大丈夫?」
顔を覗き込み、「彼女」を心配する久美子。
「大丈夫。平気だよ。」
久美子に心配かけないように、「彼女」は明るく答える。
「登校前の少しの間だけだし、居ない間は、佐々木のおばちゃんが、おばあちゃんの面倒見てくれているし、大丈夫。元気。」
心配させまいと、「彼女」は気丈に振舞う。
「うん。…なら、いいんだけど…。」
久美子は怖かった。
これ以上、何かを言うと、「彼女」を追い詰めてしまいような気がして、次の言葉が言えないでいた。
「彼女」もまた、久美子に自分の苦しみを背負わせてしまうような気がして、それ以上、言葉が出て来ない。
どうしようもない現実が、二人の口を重くする。
吹き抜ける冷たい風が、二人の歩みを遅くする。
「ただいま帰りました。」
傾いた戸を開け、家の様子を観察する。
家は静かだ。
「彼女」は、この静けさが怖くて堪らない。
久美子の母が居るので、何も問題はないのだが、久美子の母に何か迷惑をかけてはいないかと、「彼女」は戸を開ける度、震える。
「おかえりー。」
居間の襖が開き、久美子の母が顔を出す。
その顔は笑顔で、いつもの明るい顔だった。その顔を見て、「彼女」は今日一日、何もなく無事に過ごしていたんだとわかり、胸を撫で下し、ホッとする。
「お母さーん。」
後ろから久美子が母に向かって手を振る。
「あら、久美子も一緒だったのね。」
「うん。」
母を見る久美子の笑顔。
久美子を見る母の笑顔。
「彼女」の家でありながら、なんだか仲間外れにされたような気分になった。
「ちょっと待ってね。今、帰り支度するから。」
「わかった。」
そういうと、久美子の母は一度、居間に入り、荷物を取りに行く。
「それじゃあ、佐伯さん。また明日ね。」
久美子の母が、荷物を取りながら祖母に声をかけ、居間から出て来た。
「有難う御座いました。」
「彼女」は深々と頭を下げ、久美子の母に感謝した。
「いいのよ、そんなことしなくて。おばあちゃんは近所の私たちで面倒見ればいいんだから。美樹ちゃんが頭を下げることなんてないんだから。ね。」
「…はい。」
ここまで人にや優しくされたことはなかった。いつも人の目を気にして生きてきた「彼女」にとって、はじめて、人として扱われているようなそんな暖かい気持ちが、胸の奥から込み上げて来て、涙が出るほど嬉しかった。
それと同時に、迷惑をかけているという負い目が、胸の底から激しく湧き上がり、「彼女」の感情をぐちゃぐちゃにする。
「ごはん、いつものように台所のテーブルに置いてあるから食べて。」
「はい。」
「今日は寒いからシチューにしといたから。あったまってね。」
「有難う御座います。」
久美子の母の前では、それしか言えない。
「じゃあ、ウチもシチューだね。」
久美子が嬉しそうに母に聞く。
「それより久美子、宿題は済ませたんだろうね。」
「宿題何てないよー。」
「ホントだろうね。」
「ホントだよー。それで、ウチも今日はシチュー?」
「ほら、帰るよ。じゃあね、美樹ちゃん。また明日。」
「じゃあね、美樹ちゃん。バイバーイ‼」
同じような顔をした二人が、飛び切りの笑顔を「彼女」に見せる。
日常にありふれた親子の会話。
どこにでもある他愛もない親子の会話。
この家にないもを「彼女」の目の前で見せつけられる悔しさ。寂しさ。恥ずかしさ。
「それじゃあね。佐伯さん。また明日、来るからね。」
「あーい。」
気の抜けた祖母の返事が、「彼女」の心を苛立たせる。
「美樹ちゃん、また明日、来るからね。」
苛立つ心を久美子の母の言葉が、なだめてくれる。
「はい。ありがとうございました。」
頭を下げることしか、今の「彼女」には出来ない。
「また明日ね。美樹ちゃん。」
元気に久美子が手を振る。
「またねクミちゃん。」
「彼女」も笑顔で手を振る。
戸を閉め、二人が居なくなった瞬間、この家の呼吸が止まる。
ろうそくの灯りが、ふと消えたように、家の中が無人になる。
「彼女」は、居間にいる祖母をチラリと見る。
祖母は、ただボーっとテレビを観ていた。
生きているような、死んでいるような
「彼女」もまた、生きているような、死んでいるような
どす黒い感情を抱えたまま、「彼女」は何も言わず、自分の部屋へと入って行く。
冷たい風が音を立て、「彼女」の体に突き刺さり、骨の芯まで凍らせる。
それでも「彼女」は耐えていた。凍るほどの痛みに耐えながら、必死で前に、前にと歩いている。
町は死んだように静かだ。人影は見えず、叩きつける風の音だけが、「彼女」の耳に聴こえて来る。
「彼女」は歩いた。
この通りは見覚えがある。
久美子と一緒に歩いた道だ。
この先を右に曲がれば、久美子の家に辿り着く。
「彼女」は歩いた。
震える体を引きずりながら、ようやく「彼女」は久美子の玄関に辿り着く。
ドンドンドン。
「彼女」は激しく、戸を叩く。
ドンドンドン。
声を出して呼ぼうにも、「彼女」の声は冷たい風に掻き消され、家に中には届かない。
ドンドンドン! ドンドンドン!
「彼女」は強く叩いた。
冷たい風に負けないよに、必死で久美子の名前を叫ぶが、久美子は家から出て来ない。
ドンドンドン! ドンドン! ドンドンドン!
どんなに叩いても、久美子の家族は気付かない。
ドンドンドン‼ ドンドンドン‼ ドンドンドン‼
どんなに強く叩いても、どんなに必死に叩いても、誰かが出て来る気配がない。
何度も、何度も叩いても、反応ひとつ、何もない。
「彼女」は、ふと、気付く。
どこからともなく、叩いた戸の音が、こだまのように響いて来る。
死んだように静かな町に、「彼女」の戸を叩く音が、小さく、遠く聴こえて来る。
「彼女」は、ふと、気付く。
「私は、どうしてここに居るのだろう。」
その時、「彼女」は目を覚ます。
「彼女」は飛び起き、時計を見る。
時間は深夜の二時十五分。
「彼女」は、その時、ふと、気付く。
どこかで、何か叩く音が、小さく、遠くに聴こえる。
風の音とは違う叩く音。どこかで、小さく、聴こえている。
“玄関だ!”
「彼女」は直観的にそう思い、慌てて襖を開け、祖母の部屋を見る。
祖母の部屋の襖が、ぽっかりと開いていた。
“しまった‼”
気付かなかった自分を「彼女」は恥じた。
ドンドンドン。
その時、戸を叩く音が、「彼女」の右側から聴こえて来た。
その音は、「彼女」が夢の中で聴いた音。玄関の方から聴こえて来る。
「彼女」は、すぐに玄関を見る。
玄関の外で赤いランプがグルグルと回り、その赤い影の中に、二人の姿が見えた。
「彼女」が、急いで玄関まで走り、戸を開けると、そこには祖母と警察官が立っていた。
「おばあちゃん‼」
祖母は寝間着姿で、何も羽織らず、裸足のまま立っていた。
「駅の改札口で発見してね。」
白髪交じりの優しい目をした男性警官が、「彼女」の心を落ち着かせるように静かに話し出す。
「ご迷惑をおかけしました。」
「彼女」は膝に額が就くほど体を曲げて、警察官に詫びた。
「いいんだよ。謝らなくて。おばあちゃんのことは聞いてるから。君のせいじゃないから。」
この町の誰もが、「彼女」の恥を知っている。
この町の誰もが「彼女」の重荷を知っている。
だけど、誰もそれを口にしない。
久美子も、久美子の母も、隣の佐々木さんも、警察官も口にしない。
そして「彼女」も、それを口にしない。
「彼女」には、それが苦痛で耐えられなかった。
「彼女」の恥を、「彼女」の重荷を、他人に背負わせているようで、責任を押し付けているようで、それが「彼女」には耐えれらかった。
「おばあちゃんのことは、私たちが見てるから。安心して眠りなさい。」
その優しさが、「彼女」にとって、冷たい風よりも辛かった。
「スイマセンでした!」
「彼女」は詫びることしかできない。
「それじゃあね。風邪、引かないように。」
そういうと警察官は、祖母を「彼女」の元に引き渡し、
「佐伯さんも風邪ひかないようにね。」と優しく声をかけた。
「はい。どうも。」
何もわかっていない祖母が、軽く一礼をして、警察官に挨拶をする。
祖母の体は石のように冷たく固まっていた。
「ありがとうございました。」
「彼女」は何度も何度も頭を下げ、パトカーを見送った。
「彼女」は祖母を部屋まで連れて行き、冷えた布団にゆっくりと寝かせると、祖母は何事もなかったように静かに眠りにつく。
そんな石のように固まり眠る祖母を見て、「彼女」はポツリと呟く。
「そのまま死んでくれれば、よかったのに。」
あれから三カ月。もう時期、この町に、春の息吹が訪れる。
とは言え、この町に吹く風は未だ冷たく、乱暴で、家々を切り刻むように暴れ、吹き荒れている。
春の息吹が訪れる前に、そろそろこの町に、春の通過儀礼がやって来る。
“春の前の嵐”
一年の中で、一番、風が荒れる時期。
情け容赦のない風が、町の中を這いずり、暴れ回る。そのため毎年、何かしらの被害が、町のあちこちで起こるほど。
しかし、人々はそんな嵐を “風が冬眠から目を覚ました” と言って笑ってやり過ごす。
嵐の大蛇が、冬から目を覚まし、暴れ終われば、春が来る。
人々は、春が訪れることの方が嬉しくて、嵐が来るのを指折り数えて待っている。
ちらほら人々の間で、“嵐”の会話が出始めた頃、その話を聞きつけて来たのか、冬眠から目を覚ました大蛇が、町の中を這いずり始めた。
「大丈夫?」
顔色の冴えない「彼女」を見て、心配そうに久美子は話しかける。
吹き続ける大蛇に、今にでも飲み込まれてしまいそうなほど、久美子には「彼女」が弱々しく見えた。
「うん。大丈夫。」
精一杯、「彼女」は明るく答えるが、のんびり屋の久美子でも、それが嘘だとすぐにわかる。ずっと一緒に成長してきた幼馴染みのことは、誰よりも久美子が一番わかっている。
そして、久美子には嘘が通じないと言うことも、「彼女」はわかっている。わかっているが、それでも「彼女」は、ずっと一緒に成長してきた幼馴染みにだけは、心配かけまいと、明るい顔して、精一杯の嘘をつく。
「寝てる?」
久美子は、それでも心配で、話しを続ける。
「…うん。…寝てる…。」
伏し目がちに「彼女」が答えると、その弱々しい言葉は、吹き続ける風に飛ばされ、後ろへと飛んで行く。
「…おばあちゃん?」
久美子はそっと聞こえるように、囁く。
久美子の心配は当たっていた。
「彼女」が死人のような顔をして、今日を何とか生きているのは、祖母のせい。
祖母が夜中、徘徊するようになってから、「彼女」の“寝ずの番”が始まった。
真冬に自分の部屋の襖を開け、祖母が出て行かないように見張らなければならない。
廊下の冷気が、「彼女」の部屋に入り込み、体温を奪う。
「彼女」は震えながら布団に入り、少しでも音がすれば、ハッとして目を覚まし、祖母の襖が開いてないか確認するため飛び起きる。寝込んでしまわないように細心の注意を払いながら、毎晩、眠っている。
気の抜けない夜が続き、浅い眠りが続く。
そうなれば、日常の生活が困難になる。
頭はボーっとし、常に眠気が襲って来る。その上、週3回の早朝のアルバイトが重なれば、授業どころか、大好きな絵すら描けなくなる。
「彼女」は今、祖母よりも覇気のない顔で生きている。
祖母に生気を奪われ、もぬけの殻となって、毎日、重たい体を引きずり暮らしている。
久美子が心配するのは当たり前。
「ううん。違うよ。アルバイトで疲れちゃっただけ。ほら、朝、早いし。」
それでも「彼女」は嘘をつく。
久美子にバレているとわかっていても、嘘をつく。
もう、これ以上、誰にも迷惑をかけられない。
「…そうか。でも、辛い時は言ってね。私、助けるから。」
「彼女」がついた精一杯の嘘を受け止めがら、久美子はそれでも「彼女」の体を気遣う。
幼い二人に今、出来る事は、共に支え合うことしかなく、それは無力にも等しい抗いだった。
「ありがとう。」
「彼女」は、この醜い現実に抗い、精一杯の嘘を笑顔で作り、久美子に見せる。
「ただいま帰りました。」
「彼女」が玄関の戸を開け、いつもの恐怖を感じながら、久美子の母が笑顔で出て来ることを祈った。
「お母さーん。」
「彼女」の後ろから、久美子も母を呼ぶ。
「おかえりー。」
いつもの明るい久美子の母の声を聴いて、「彼女」はホッとする。これで久美子の母を無事に解放できる。親子水入らずの時間に返すことができる。
ようやく「彼女」の一日が終わる。
居間の襖が開き、久美子の母が身支度して出て来た。
「おかえり。寒くなかった?冷えてない?」
「はい。大丈夫です。」
「部屋、あったかくしてあるから。風邪引かないようにね。」
「ありがとうございます。」
この世で、「彼女」を気にかけてくれる人は、久美子の家族の他に誰もいない。
「彼女」の存在が消えたこの家で、「彼女」のことを心配してくれる人が、二人もいる。
寂れ、傾いたこんな小さな町の片隅で、「彼女」を気遣う人がいる。
「彼女」にとって、それは途轍もない喜びであり、奇跡にも近い幸せ。
「今日はハンバーグ作っといたから食べて。」
「はい。」
「彼女」は、明るく笑顔で答えた。
「ウチの夕ご飯は?」
我慢できずに久美子が割って入る。
「それより久美子、また服、片付けてなかったでしょ。」
「えー、今、それ言うかなー」
「今、言わないと、アンタ片付けないでしょ。」
いつもの他愛もない親子の会話。
「彼女」の割って入れることが出来ない親子の会話。
黙って、眺めるしかない親子会話。
「それじゃね。嵐が来てるから、あったかくして寝てね。」
「はい。ありがとうございます。」
明るく笑顔で、精一杯、「彼女」は答える。
「佐伯さーん。また、明日ね。」
大きな声で呼んでも祖母の声は返ってこない。それがなにより「彼女」の気持ちを腹立たせる。
「じゃあね。美樹ちゃん。」
「じゃあね。また、明日!」
瓜二つの顔が、「彼女」に向かって、笑顔を送る。
「おやすみなさい。」
「彼女」も精一杯の笑顔で、二人に返す。
二人の笑顔を残し、戸が閉まる。
閉まると同時に、家の中が暗くなる。いつものように、ろうそくの灯が消える。
奇跡に近い喜びの灯りが、フッと消えると、「彼女」の笑顔もフッと消える。
疲れが「彼女」を襲う。久美子たちがいることで忘れていた鉛のような疲労が、「彼女」の体にのしかかる。
「彼女」は祖母が居る居間を見ることもなく、重い体を引きずり、自分の部屋へと向かう。
襖を開け、電気もつけず、押し入れから布団を引っ張り出し、「彼女」は重たい体を、冷たい布団に沈め、暗闇の中に浮かぶ天井を見つめた。
“今日も寝ずの番”
少しでも、体を休めておきたかった。
家の恥が動き出す前に、「彼女」の時間が欲しかった。
天井がグニャグニャと揺れ、窓を激しく叩く、風の音。
ドンドンドン。ドンドンドン。
「眠りたい。ただ、ゆっくりと眠りたい。」
ドンドンドン。ドンドンドン。
瞼が次第に重くなる。
ドンドンドン。ドンドンドン。
窓を叩く、風の音。ずっと遠くで聴こえてる。
ドンドンドン。ドンドンドン。
水に溶け出す氷のように、「彼女」の意識が薄れて行く。
ドンドンドン。ドンドンドン。
もう何も聴こえない。意識が睡魔の中に流れ、消えて行く。
「彼女」の疲れは、限界を超えていた。
物音で「彼女」は飛び起きた。
「彼女」も気付かないうちに眠り込んでしまったようだ。
部屋は暗く、今がいつなのか分からない。
「彼女」は慌てて、時計を見る。
長い針が、もう少しで、夜の七時を指そうとしていた。一時間ほど寝てしまったようだ。
「彼女」はホッとした溜め息をつく。
しかし、今の物音が気になる。
風の音とは、少し違うような気がした「彼女」は、勢いよく襖を開け、祖母の部屋を確認すると、祖母の部屋の襖は閉まっていた。
「彼女」は、またホッとした溜め息をつく。
それも束の間、また物音がした。
どうやら、台所の方から聴こえて来る。
「おばあちゃん?おばあちゃんなの?」
そう言いながら「彼女」が台所に向かうと、祖母の後ろ姿が見え、勝手口のドアを開けようとしている。
「何やってるの!」
「彼女」は飛び掛かるように祖母に抱き着く、勝手口のドアを開けないように抑え込む。
「おじいさんの船を見にいかなきゃいけないんだよ。」
祖母はうわごとの様に、ポツリと言葉を零し、勝手口のドアを必死で開けようとしていた。
「おじいちゃんは、もういないでしょ。」
「彼女」も必死に力を入れて、祖母を羽交い絞めしようとするが、祖母の体は鋼のように硬く、止められない。
一体、祖母のどこにそんな力があるというのか。祖母の力は強く、十代の「彼女」の力をもっても封じ込められない。
「…おばあちゃん…やめて…。」
もうこれ以上、「彼女」の恥を世間に見せるわけにはいかない。
もうこれ以上、久美子の母たちに、負担をかけるわけにはいかない。
「…静かにしてよ。…お願いだから!」
その言葉を聞いて、祖母がギロリと「彼女」を見る。
その
野良犬のように鋭く、人間の理性を失くした恐ろしい
「あんた!一体、誰だい!どうして、ここに居るんだい!」
「彼女」はこの時、ここに居るのは祖母ではなく、見知らぬ誰かであることを悟っ
た。
「泥棒だね!ドロボー!誰かー助けてー!ウチに泥棒がいますよー!誰かー警察呼んでー!」
気が狂った野良犬のように祖母が喚き散らす。
「やめてよ!おばあちゃん!」
必死で「彼女」が、祖母の口を押さえようとするが、祖母も負けじと抵抗し、中々口を塞げない。
春の嵐の音で、祖母の声が聴こえないとしても、「彼女」の《恥》をこの家から漏らすわけにはいかない。
「彼女」は力の限り、祖母を抑え込もうとする。
祖母も、自分の孫に罵詈雑言、野良犬のように吠えまくる。
その時だった。
揉み合っているうちに、「彼女」の
「彼女」は身を守るため無意識に体を右側に反転させ、うつ伏せになると、ビニールで出来たテーブルクロスの端が「彼女」の目に飛び込んで来た。「彼女」はとっさにそのテーブルクロスの端を右手で掴むが、抵抗虚しく、その勢いのまま、「彼女」はテーブルクロスと共に床に倒れ、テーブルクロスの上に用意されていた久美子の母の手料理も一緒に雪崩落ち、皿の割れる音が、時雨のようにけたたましく、台所に響き渡った。
一瞬、何が起きたのか「彼女」にはわからなかった。
目の前には見慣れた床が近くに見え、その床には、皿の破片が散乱し、久美子の母が作ってくれたハンバーグが見るも無残にぐちゃぐちゃになり、「彼女」の前に転がっている。
「うっ!」
「彼女」の右手に激痛が走る。
右手を見ると、
どうやら、落ちて来た皿の破片で切ったようだ。
ただ「彼女」は、右手から流れる赤い血を訳もわからず見続ける。
その時、祖母が勝手口のドアを勢いよく開けた。
春の嵐が、“待っていた”とばかりに「彼女」の家に入り込み、縦横無尽に暴れ出す。
火が点いたように、狂ったように、春の嵐が搔き乱す。
「彼女」の心に春の嵐が入り込み、縦横無尽に暴れ出す。
火が点いたように、狂ったように、春の嵐が搔き乱す。
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