第10話 嵐の前の…
六日後
銀座 午後二時ニ十分
柔らかな日差しが降り注ぎ、行き交う人々の楽し気な声を包み込みながら、今日も銀座は活気に溢れていた。
あと数時間も経てば、夜の
華やかさは、まだ眠ったまま。
代わりに賑やかな顔が午後の銀座に現れて、街並みを明るく、陽気に映す。
その銀座で、ひと際目立つ大きなビル。
上へと長く伸びたビルは、外から中が見えるように一面ガラス窓。その前で、田中が江口の到着を今か今かと待っている。
二日前、江口からすべての作品を梱包したとの連絡を受け、田中が任された。
遠藤は別件があり、銀座には来られない。
どうせ反りが合わない二人なのだから、遠藤も用事があって、好都合というもの。無駄にストレスを抱え込むこともない。
城に「女王」が居ること居るのだが、何の戦力にもならないので、田中にとって、いない方が好都合。無駄なストレスを抱え込むこともない。
「女王」は命令だけしててくれれば、それでいい。あとは遠藤が指示し、その指示通り田中が動く。
それで事足りるため、遠藤は田中一人に任せた。
はっきり言ってしまえば、絵を受け取るだけの簡単な仕事。新人の田中でもできる仕事。
おそらく今日、絵が搬入される日だということを「女王」は忘れているだろう。しかし、今回、それはさほど重要ではない。
一番重要なことは、クラウドの絵がすべて壁に飾られること。
ビル一階のフロアの壁すべてに絵が飾られれば、その景色は、外からよく見え、どうしたって歩く人の目に入る。これ見よがしに飛び込んでくる。
それは絶大な宣伝効果を生み出し、人が波のように押し寄せる。その押し寄せる波に釣られて、餓鬼たちが群れを成してやって来る。
話題が話題を呼び、波が波を呼び、餓鬼が餓鬼を呼ぶ。
それが出来れば、長かった第一段階は終了する。
その総仕上げが、今日だ。そういった意味では、田中は重要な仕事を任された。
絵を受け取るだけの新人にもできる簡単な仕事だが、相手は江口。遠藤でも手に余る。もし、何かトラブルがあり、絵が壁に飾れないとあっては一大事。田中の首がいくつあっても足りない案件になる。
柔らかな日差しの中、ソワソワと待っている田中の視界に、左折して来る車が見えた。
見覚えのある白いバン。
予想通り、田中の前で止まった。
「いやー。今日もいい天気ですねー。」
降りて来るや否や、江口はいつものように、胡散臭い言葉を銀座のど真ん中で言い放つ。江口にとって、「女王」の城だろうが、銀座であろうが、お構いなしだ。
いい加減なことを言っているにも関わらず、今日も江口はスーツをビッシと決めて、前回同様レンタカー。
適当に見えて、抜かりなく。用意周到、少しの隙もない。
しかし、今日の田中はそれどころではない。
江口の素性を探るより、クラウドの絵を確実にビルの中に運ばなければならない。
それを完遂して、はじめて絵の所有者が「女王」へと移る。
江口は余計なことを言う前に、気が変わる前に作業を始めてしまわなければならな
い。
それは遠藤にも念を押されていた。
「絵を運んでもよろしいでしょうか?」
主導権を獲られる前に、田中は江口を無視をして話しを進める。
「どうぞ。どうぞ。後ろにすべて積んでありますから。」
そう言いながら、江口は後ろのドアを開けると、そこにはキレイに梱包された大小様々なクラウドの作品が静かに横たわっていた。
まるで深い眠りについたように静かだ。
眠りについている作品を起こさないよう、慎重に運ばなければならない。傷ひとつつけてはならない。
田中はそのことで頭が一杯だった。江口に構っている暇なんてない。
「これ、梱包するのに、丸三日かかりましたよ。」
「お願いします。」
田中は完全に江口の存在を消去して、ビルの中に待機していた作業員に合図を送る。
その合図を聞いて、ビルの中から20人もの男性作業員がゾロゾロと現れ、次々と作品をビルの中へと淀みなく運んで行く。
「この人たち、さっき今した?」
さすがの江口も驚く。一体、どこに隠れていたのかと思うほどの人が、突然、ビルの中から現れ、あっという間に作品を持って行ったのだから無理もなく、滔々と流れる大河のように、クラウドの作品がビルの中へと流れ、消えて行く。
最後の一枚がビルの中へ運ばれたのを田中は食い入るように見て、確認する。
これで無事、すべての作品が「女王」の所有物となった。
もう二度と取り返すことも、触れることもできない
気付かぬうちに強奪。
これから作品たちには「女王」が、さらに輝くための道具として、より一層、身を粉にして働いてもらうことになる。
そのために「女王」は江口のような男を城に招き入れ、馬鹿げた条件も飲んで来たのだから、その分、しっかり働いてもらわなけらば困る。
クラウドの作品たちは「女王」から受けた寛大な慈悲を返していかなければならない義務がある。
強制ではなく忠誠。
共生ではなく従属。
「女王」の
遠藤は出版社の会議室で一人、あの女を待っていた。
会議室はとても狭く、陰気で息が詰まる。こんな教室のような狭い会議室で何を会議するというのか。陳腐なアイディアを出して、クリエイティブな仕事をしているというなら、記者とは何と楽な商売なのだろうか。
外の景色を眺めると、いつも見慣れた世界とは程遠く、低い場所に集まったグチャグチャのビルたちが、汚い壁をこちらに見せて並び立ち、その汚い壁に阻まれて、空さえこの会議室からは良く見えない。
すべてが淀んで、濁り、ヘドロが溜まるドブ川の底にいる気分だ。
まさに、ここは底辺。
天気もわからぬような場所で、ちょこちょこと動き回るネズミと変わらない。
そんなネズミが「女王」の足元で這いずり回っていることが、遠藤には許せなかった。分不相応なことをしているネズミに一言、忠告するため、こんな薄汚いところまで、わざわざやって来たのだ。
厳密に言えば、忠告というよりも警告。
それも最終警告だ。
“これ以上、勝手なマネはするな!”という最後通告をするためやって来た。
これは遠藤なりの記者に対する優しさだ。
一度、警告した上で、それでも足元をちょこちょこと動き回るのならば、その時は躊躇なく踏みつぶすという優しさだ。
いきなり潰したりはしない。出来るがしない。
遠藤は社会のルールに則って行動している。相手もバカじゃなければわかること。
それに記者がどう出るのか知りたかった。思惑を知りたかった。
対処はそれからでも遅くない。
息が詰まり、肺にも悪いこの小さな会議室で、込み上げて来る嫌悪な感情を必死に抑えながら遠藤はあの女を待っている。
田中の後をくっ付くように、江口が展示用のビルの中に入る。
「ほえ~」
江口はその圧倒的な重厚感と厳かな静寂に言葉を失くす。
入り口のドアを開けると、どこまで続く、真っ直ぐに伸びた空間が目に入る。30メートルはあるだろうか、その先に小さく壇上が見えた。
床は一面、大理石。真っ白な壁が周囲を上品に包み込み、落ち着いた輝きを醸し出し、訪問者を出迎える。
銀座という喧騒の欲にまみれた俗物的な音は一切、遮断され、別世界に来たような錯覚に陥ってしまう。
いかにも「女王」が好みそうな空間だ。
「女王」が、そこに居るか居ないかは関係ない。
「女王」の存在を感じさせるか、させないかの問題だ。
そこに居ずとも「女王」の存在を訪問者の無意識の奥底に焼き付けることが重要であり、そのためだけに、この空間は存在している。決して、絵画のためにある空間ではない。
絵画は「女王」の力を誇示するための演出道具でしかなく、主役になることはない。永遠の脇役。引き立て役に過ぎず、壇上がそれを物語っている。
絵画とそれを見に来た者の先に立ち、耳目を集め、先導する。
ここはまさに宗教施設。
この空間に入れば誰でもそうなる。そうなってしまう。
「女王」は手を抜かない。
最後の最後まで「女王」を見せつける。
「五十嵐の方からすべて指示が出ていますので、あとは額縁に入れて掛けるだけですね。」
田中はファイルを見ながら江口に話しかけるのだが、江口はこの空間に飲み込まれ、心ここに有らず。キョロキョロと辺りを見回し、田中の声が遠くに聴こえる。
作業員たちが、田中の指示のもと、江口の周りを世話しなく動く。
絵に問題がないかチェックする者。
決められた絵を所定の場所に運ぶ者。
丁寧に絵を額縁に入れる者。
機械仕掛けのように各々が個々の仕事を無駄なくこなし、「女王」の思い描くイメージに寸分違わず再現できるように、一ミリの誤差もないように細心の注意を払い作業する。
その姿はまさにプロフェッショナル。
そして何より江口が驚いたのは、この空間の静寂さだ。
これだけ世話しなく人々が動いているというのに静か。音がほとんどしない。
もちろん、これだけの人が世話しなく動いているのだから音はする。音はするのだが、あまりにも広い空間のため音が壁に、床に、吸収されてしまう。
この空間自体がひとつの生き物となって音を飲み込む。
言葉では現わせない何とも不思議な生き物の中に江口は今、立っている。
初めて出会う経験。
「ここの他にもあるんですか?こういう場所は?」
キョロキョロを止めず、田中を見ずに、江口は質問する。
「軽井沢に一軒と神戸に一軒、御座います。」
「二軒も…。スゴイな。二軒とも、こんな感じですか?」
「そうですうね。ここが一番小さい展示場になりますけど。」
「えっ⁉ここより広いところがあるんですか‼」
ようやく江口は田中の顔を見て話すが、その大きな声はいとも容易く空間に飲み込まれ、消えて行く。
「は、はい。」
江口の顔の勢いに少々、面を喰らいながら田中は答える。
「ほえ~。」
江口はもう、その言葉しか出ない様子だ。
しかし、江口はふと思い出す。
「あれ?遠藤さんは?」
江口は、はじめて自分の意思で周りをキョロキョロと見渡す。
空間に飲み込まれ、いつものペースが掴めず、遠藤の存在を忘れていた。
「室長は別件で来られません。」
「そう…ですか…。」
またもキョロキョロとやっぱり、江口はあっさりと、この空間に飲み込まれた。
会議室のドアが勢いよく開く。
「すいません。こんな場所でお持たせしてしまって。」
志田が両手一杯に資料を持ち、慌てるように入って来た。
「連絡を下されば、応接室をご用意したんですけど。」
「気にしないで。私も一度、アポなしっていうのやってみたかったの。」
遠藤はニコリと笑い、チクリと志田を刺す。
志田は気まずそうな顔を遠藤に見せ
「それで、今日は何の御用でしょうか?この前の取材の記事でしたら、」
「わかってるでしょ?」
遠藤は志田を睨みつけながら言葉を遮る。
志田のとぼけた話に付き合う気はないようだ。志田も逃げられないとわかり、ひとつ大きく息を吐く。
「情報源は明かせませんよ。秘匿する権利がありますから。」
志田は法律を盾に遠藤の動きを警戒する。
相手は大手企業の秘書だ。どんな力を使って来るかはわからない。
ましてや、あの「女王」を敵に回したのだから、用心するに越したことはない。
だが、そんなこと、遠藤も織り込み済み。
小さな会議室でチマチマとちょこちょこと動き回るネズミの考えることぐらい察しがつく。
「何がお望み?」
遠藤は直線的に話を進める。
「もう一度、取材させて下さい!」
志田も直線的に答え、その
「それより、こちらの提案を飲んだ方が、そちらとしてもいいと思うのだけれど。」
「…それは、ちょっと出来ない相談ですね。」
ありありと映る志田の
この先、何が起こるか志田もわかっている。わかった上で、覚悟を持って、拒んでいる。
記者としての本能か?
どうやら答えは出たようだ。
しかし、遠藤はそんな志田に滑稽さを感じていた。
何て、チープで些細な要求なのだろうか。
そんな小さな願いを叶えるために、途轍もなく大きな代償を払うことになるというのに。
その覚悟は記者としては鑑だが、「女王」の前では何の値打ちもなく、ただの愚行。
それに、そんなチープな願い聞くために、遠藤もわざわざ、ここまで来たのではない。会社として商談しに来たのだ。もっと高次元な交渉になればいいと、ほんの少し願っていたところもあったのだが、やはり相手は溝に棲むネズミ。話にならない。
「考えておきます。」
遠藤はそういうと、狭く、息苦しい溝から出るため、左手にあるもう一つのドアへと向かい、歩き出す。
「密着取材ですよ。」
何て卑しいネズミなのだろう。
もう一度、「女王」に会えるだけでもおこがましいというのに、あろうことか、密着取材させろと言ってきた。ここぞとばかりに欲を出して来るとは、なんて浅ましいネズミなのか。
遠藤は志田のことを心の底から軽蔑した。
素直に話せば、志田の小さな願いを叶えることもできたが、あくまでも「女王」と対等な目線で話をしたいというならば仕方がない。こちらも、それなりの対応するしかない。
彼女は選択を間違えた。完全に間違えた。
「それも、考えておきます。」
遠藤は最後まで表情を変えず、冷淡に話す。
志田のために、ここまでやって来たが、思った通り時間の無駄だった。
薄々、気付いてはいたが、ここまでつまらないと言葉も出ない。
軽蔑の中に、呆れにも似た馬鹿馬鹿しさが溶けはじめる。
「あっ、個展のあとでいいですから。時間、お願いします。」
志田の言葉が遠藤の顔に投げかけられる。
その瞬間、忘れていた嫌悪のマグマが激しく込み上げて来た。
軽蔑という感情さえ、いとも簡単に溶かしてしまうほどの激昂が、遠藤の心底から一気に吹き上がる。
志田は自分がこの場を、遠藤を完全に支配してると思っている。
常にリードし、思い通りに事が進んでいると喜んでいるが、それはすべて錯覚だ。思い上がりの錯覚だ。
選ばれる側が選ぶ側になることなんてない。ましてや、「女王」を意のままに操れると思ったら大間違い。
彼女は、また選択を間違えた。決定的に間違えた。
その錯覚は天に唾する行為。
自殺行為。
愚の骨頂。
そんな錯覚を投げつけられたのだから、激昂するに決まっている。
遠藤に投げつけたということは「女王」に投げつけたということ。
黙って見過ごすわけにはいかない。
「女王」に敬意を払わず、軽薄に一線を越えた志田に対し、震えるほどの激昂が遠藤の全身を瞬時に駆け巡る。
“地下に棲むネズミが図になるな!”
“一度、スクープを獲ったからと言って都会のネズミになったつもりか?”
その勘違いが腹立たしい。
都会だろうが、地下だろうが、所詮、ネズミはネズミ。その立場は変わらない。それなのに、このネズミはそれすらわからず、いい気になっている。
しかし、ここでマグマをぶちまけたら遠藤の負けになる。
ネズミと同じ感情で動く動物になってしまう。
人間として、理性を保たなければならない。「女王」の秘書としての立ち振る舞いをしなければならない。
「それも含めて、考えておきます。」
丁寧に人間らしく答え、息が詰まる会議室を後にした。
当然、取材などさせる気はない。当分の間、出版社ごと出入り禁止だ。
スクープの出所はこちらで調べればいい。志田の協力などいらない。だがしかし、錯覚を起こしているネズミには学習が必要だ。
どちらが強者で、どちらが弱者か。
そのことを、骨身に刻むほどの力で教えてあげなければならない。
それが、社会のルール。自然の摂理というものだ。
銀座に夜の帳が下り始めた頃、ビルの照明が外の街路樹にまで溢れ出て、華やかで上品な街並みの中にぽっかりと出来た洞窟のように、そこだけ眩く照らされ、その前を夜の帳の住人たちが、いそいそと足早に通り過ぎて行く。
先ほどまで、世話しなく作業をしていたのが嘘のようにビルの中は静か。
まだ数人、作業をしている者はいるが、嵐のあとの静けさみたく落ち着きを払い、そこに夜の帳が訪れたこともあり、より一層の静寂が、この空間を覆い尽くす。
江口の目の前には、立派な額に納められ、馬子にも衣裳の作品たちが、おしとやかに、慎ましやかに、壁に飾られている。
見違えるほどの別人になった絵をマジマジと見る江口には、いつもの調子のいい言葉は出て来ない。圧倒されて出て来ない。
「まだ完成ではありませんが、レセプション・パーティまでには間に合うと思います。」
マジマジと見ている江口に、田中が後ろから声をかける。
「芸術っぽいですね。」
他人事のように江口が話す。
芸術に疎い江口から見ても、格式があり、高貴に見える。
まさに芸術っぽい代物に早変わり。
っぽいというが、これは正真正銘の芸術作品。「女王」が見込んだ一級品。
それに見合ったタイトルと額をつけ、値段を決めれば、箔がつき、あっという間に大金が右に左に忙しく、羽根を生やして、矢のように行ったり来たり飛び交うことになる。
江口の知っている絵は、もうどこにもない。初めましての芸術作品を今、マジマジと見ている。
所有者が「女王」になったことにより、クラウドが持っている本来の能力を最大限、引き出した。
「女王」だから出来たこと。江口では到底なし得ることは出来なかった。
クラウドの絵をはじめて見た時から「女王」は、この日を思い描き、そうなるようことを進めて来たが、残念なことに、その「女王」の描いた世界に、江口の名前は載っておらず、赤の他人へと成り下がり、この時点をもって、江口は部外者となった。
これからは、その場所から、一般の人々と同じようにクラウドの作品を見つめることとなる。
すべては「女王」の思うがまま。
頭に思い描いた通りに事が動いている。
江口が出来ることは、もう二度と手に届くことのないクラウドの作品を末席からマジマジと眺めることだけだった。
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