第9話 江口と「女王」

午後十二時五十分


田中が江口を迎えに行っている間、城は静寂に包まれる。

昼下がり特有の気怠い余韻が静寂さの中に漂い時間がゆっくりと進む。


その中で「女王」はいつものように、いつもの指定席から下界を眺め、機嫌よくカタログを見ている。

そして、その背中をいつもの場所から遠藤は見ている。


いつもの風景。いつもの時間。


江口が来るまでの間、二人は何も話さず、その静寂に身を委ねる。


しかし、「女王」は内心、気もそぞろ。


カタログを見る度に“強奪したい”という衝動に駆られ、抑えるのに必死だ。

今日、上手く行けば、カタログが「女王」のモノになる。


カタログが「女王」のモノになるということはクラウドの絵が「女王」のモノになるということ。

「女王」にとって、永遠とも言える時間をじっと耐えた日々。

時間すら「女王」中心に進むというのに、その時間に飲まれ、溺れ、悶え苦しみ、何度、力を使って、このバカげた茶番劇を終わらせようと思ったことだろう。

やろうと思えば、すぐにでも終わらせることは出来た。

それはとても簡単なことで、「女王」にしてみれば、造作もない日常茶飯事。呼吸をするように人などひねり潰せるが、今後のことを考えると江口は重要な駒なので、石ころのようには扱えない。


クラウドにこれからも絵を描いてもらうためには、江口という窓口がどうしても必要になる。

江口なしでは、クラウドの絵は手に入らない。

手に入らなければ、「女王」の価値は上がらない。


生かさず殺さず、リードをされているようで支配する。


“それが、肝心。大事な鍵になる。” と、「女王」は最初から読んでいた。


だから、江口のふざけた要求にも我慢し、「女神」のような優しさで、今まで対応して来たのだ。これから先、何度、バカげた要求を言われても、「女王」は「女神」の微笑みで対応するだろう。


それぐらい、クラウドの絵に「女王」は夢中だった。クラウドの絵が欲しかった。堪らなく欲しかった。それは理屈や理由でもなく、画廊としての直観。


安っぽい言葉で言えば “運命”

衝撃的な出会い。


その運命の通り、たった三枚売っただけで、世間は大騒ぎ。その渦は軽々と海を越えた。

最近、覚えた“ネット”という味を使えば、クラウドの値はドンドン上がる。

そんな美味しい食材、誰が渡すというのか。


江口には引き続きクラウドの門番として「女王」のために働いてもらう。バカげた要求もしたければすればいい。


だが、決定権はすべて「女王」にある。


クラウドの絵を世に出すかどうかは「女王」が決める。クラウドの価値は「女王」が決める。その力は絶対に渡さない。


江口は重要な駒として、門番だけしとけばいい。

それだけは「女王」が許可する。


メニューを見るように、「女王」はカタログを見る。


あともう少しで、カタログのすべてが「女王」のモノになる。最後まで喰らい尽くす準備は出来ている。




「いやー、いつ来ても絶景ですなー。」


窓、一面に広がる模型のような街並みを眺め、江口は、いつものように調子のいいことを言って入って来た。


「女王」はの江口を確認する。


いつもの大きなカバンではなく、片手で持てる小さなカバンを持参していた。

この瞬間、「女王」は “今日、取引が成立する”と確信した。


いつもと違う行動する時は何かしらの理由があり変化するもの。あの小さなカバンは、おそらく現金を入れるカバン。ということは、今日で成立する可能性が高い。

何かまた無理難題を押し付けてくるなら、いつものカバンで来るはず。わざわざ小さなカバンで来る必要がない。


この抜け目のなさが「女王」を「女王」として君臨させ、頂点まで昇りつめることが出来た要因のひとつ。

銀座でトップを張っていた頃に身に着けた力なのか。それとも、この力があったからこそ銀座のトップになれたのか。それはわからない。わからないが、こんな時、「女王」を助ける有益な力となり、魑魅魍魎が跋扈する世間という荒波を泳いできた。


今回もその力が遺憾なく発揮される。


確信した今、「女王」はますます、気もそぞえろ。

やっと手に入るという高揚感が電流のように躰を走る。


今後、起こり得ることを考えても、その影響力は計り知れず、「女王」の有益な力を持ってしても想像ができない。


心が震えるほどの興奮。


その未知数の興奮が、「女王」をさらなる高見に押し上げることは確実。それは容易に想像でき、断言できる。誰も経験したことがない領域に、その絶頂に立てる人間は「女王」置いて他にはいない。


「女王」だけが知っている宝の地図。

そんなものを見す見す手放すわけがない。すべてが「女王」の所有物。誰にも渡す気などない。


しかし、悟られてはいけない。


卑しく、ガツガツと絵に駆け寄っては「女王」の名が廃る。

ここは冷静に、冷淡に、いつもの「女王」を見せつけなければ。


「社長。今日もお変わりなく、お綺麗で、いやー 良かった。良かった。」


「女王」の正面に座る江口に「女王」は足を組み、真っ赤なヒールを見せて威嚇する。


「社長。最近、眠れてます?私ね、最近、熟睡しちゃって、しっちゃって。この前なんか、10時間も寝ちゃいましたよ。」


嬉しそうに話す江口。威嚇は効いていないようだ。「女王」は少し、戸惑いながら「そう。」と対照的に答え、軽く聞き流すをした。


江口は気にも止めず、お構いなしに話しを続ける。


「女王」らしくない行為。 はやる心がバレぬよう思わず身構えてしまい、ちぐはぐな行動を起こしてしまった。

いずれ「女王」のモノになるのだから、ここで焦っても仕方がない。泰然自若の構えで、江口の出方を見ることにした。


「社長はお肌の色艶もいいですから、きっといい睡眠をとってらっしゃるんでしょうね。何時間ぐらい寝てるんですか?」


どうでもいい話を熱く語っている江口と明らかに話を聞いていない「女王」の間に田中がお茶を置く。


「そうだ社長。私…クラウドについて考えたんですけどね。」


突然、江口がシリアスなトーンで話し出した。


「何?」


そのトーンに釣られ、背もたれに寄りかかっていた躰を起こし、「女王」は江口の方に顔を近づけた。


しまった…。躰が反応してしまった。


あれだけ卑しい行為をしないように、喉の奥にグッと手を飲み込み我慢していたのに思わず出てしまった。

何たる失態。「女王」として決して見せてはいけない姿を遠藤に見せてしまった。


「女王」は恥じた。

我慢できず卑しい反応をしてしまった己を恥じた。


「あのー…。」


その時、遠藤が二人の間に割って入って来た。


“まさか、今の卑しい行動に対し、フォローするため入って来たのか?”


遠藤に心を見透かされ、その上、「女王」に同情し、助けに入って来たとなれば、それは「女王」の深く開いた新鮮な傷口に塩を塗る行為。


恥の上塗り。


「女王」は遠藤をギッと睨む。


「今回の件、御存知でしょうか?」


「今回の…ケン?」


江口は遠藤の顔をジーっと見る。


「はい。今回の件。」


遠藤は江口の顔をジーっと見ている。


そして「女王」は、その二人の顔を監視している。


そんなこと知ることもなく、田中は静かに立ち去る。


遠藤の話す内容を聞く限り、どうやら失態をフォローするため入って来たのではないことがわかり、「女王」は、一安心する。


一度、起こした躰を再び、背もたれに戻し、取りあえず、この場は遠藤に任せることにした。


「何のケンですか?」


「ですから、今、マスコミで取り上げられているクラウド様の絵の件です。」


「あー、アレですか。」


「…御存知だったのですね。今回の件は?」


「はい。ずっと、テレビでやってますからね。そりゃ、気付きますよ。」


「そうですか…。御存知で…。」


「はい。」


「…御存知ですか…。」


「えぇ。はい。」


「クラウド様は何と仰ってるんですか?…このを。」


「アイツはテレビとか観ないので、今回の件は知りません。」


一体、さっきから何の話をしているのか、「女王」にはまったくわからなかった。


静観して、二人を食い入るように見ていたのだが、さっぱり要件が掴めない。

まるで宇宙人の会話を聞いているような途方もない退屈が「女王」を襲う。だからといって下手に動けば、今度こそバレてしまうかもしれない。これ以上、失態を見せるわけにもかず、とにかく「女王」は黙って、成り行きを監視することにした。


「そ、そうでした。お金をお渡しするのを忘れていました。今、ご用意致します。」


遠藤が話した意味は理解できた。どうやら、ようやく本題に入ったようだ。

本題に入れば、「女王」のテリトリー。手のひらの上。


美味しそうにお茶を飲み、ニコリと初夏のような涼やかな笑顔を「女王」に見せる江口に対し、よくわからないが、とりあえず「女王」もニコリと品のいい笑顔で返した。



紫サテンの生地を被せたトレイが、二人の前に置かれる。


江口は、1750万の束の山を上から下から斜めからキョロキョロと世話しなく見ている。


この滑稽な姿が見たくて、1750万くれてやるのだ。


「…確か、折半じゃなかったですか?」


折半なんてセコイことなど言わない。1750万を惜しがる「女王」ではない。クラウドの絵の価値は、確実にこれから天井知らずに昇って行く。

クラウドの絵の価値は「女王」の価値。

1750万のはした金など、どうでもいい。欲しければくれてやる。


それに、全額気前よくポンとくれてやることで、「女王」の存在を意識のド真ん中に焼き付けられて、二度と消せない刻印が残る。

これから「女王」を見る度に畏怖の念が痛み、恐れずにはいられなくなる。


「女王」は手を抜かない。

最後の最後まで「女王」を見せつける。


「…いいんですか?」


江口は「女王」に、お伺いを立てる。


「女王」は静かにゆっくり頷く。


「1750万…全額…。」


「女王」はゆっくりと頷くだけで、江口の意識に刻印が押される。何度も何度も「女王」に対する畏怖の念が強く押される。


「それでは…お言葉に甘えて…。すいません…。」


予想通り、江口の持って来たカバンは自分の取り分しか入らないカバンだった。入るわけのない小さなカバンに無理やり、ギュウギュウに押し込んでいる。あまりにも不格好。逆に目立つ。


だが、この城に入って来た時から「女王」は予測はしていた。正確に言えばもっと前から予測はしていた。

江口は全額、貰えるとは思っていない。

1750万円の大金がカバンに入りきれなくなった場合に備え、別のカバンを用意しておいたのだ。

江口が城に入って来た時、それは確信へと変わり、この状況になることは「女王」には見えていた。絵を三枚、選んだ時から、こうなることは決まっていた。


「女王」は現実になることしか予測はしない。

現実にならない予測など無意味。人生の無駄遣い。

「女王」が予測する時、それはつまり、成功を意味する。


予測可能な出来事。

「女王」に見えない予測などない。


「もし、宜しければ、我が社のカバンをお使いください。」


貴婦人の机に置いてあったカバンを江口の前に移動させた。


そのカバンは一目で高級品とわかる代物で、黒革の鞣した艶がキラリと光り、重厚感を演出する。


「このカバンは自社ブランドで、今、大変人気のあるカバンなんです。良かったら差し上げますので、どうぞお使い下さい。」


「いいんですか?こんな立派なカバン、頂いて。」


「どうぞ。」


「女王」も軽く頷き、また、江口の意識に刻印が押された。



江口は、咳払いをひとつしてから話し出す。


「クラウドも社長の力を見て、ようやく納得したようです。これ以上、文句を言うこともないでしょう。というか、私が言わせません。なので、社長。大変お待たせ致しましたが、そのカタログは今日から社長のモノです。どうぞ、お受け取り下さい。」


「女王」の目の前に置いてあったカタログを軽く前に差し出す。


「どうか、クラウドを社長の手でドンドン世に広めて下さい。そして、クラウドを一流の画家に。お願いします。」


江口が深々と頭を下げる。


クラウドの譲渡式。

クラウドの所有者が正式に変わった瞬間。


そこに頭を下げた男が背景と同化する。


今日ほど気持ちのいい同化はない。

すべてが手に入り、すべてが「女王」の予想通りに進んだ。


頭を下げたこの瞬間をもって、江口は用済みとなった。


絵が「女王」のモノになれば用はない。今や江口は石ころよりも価値がなく、門番としても使えない。ただのボロ雑巾。使い終われば、あとは捨てるだけ。


だけど「女王」は、そんな憐れな江口に、少しばかりの同情を感じていた。


自らボロ雑巾となるため「女王」の前に現れた愚かな男。

もう少し、絵画についての知性と教養があれば、もっといい交渉も出来ただろうに、無学とは何と罪深いものなのだろうか。たかだが1750万の少額で、この絵を投げ売りしてしまうとは。これを無知と言わず何と言えばいいのか。「女王」は無教養な江口を心から憂い、軽蔑した。


「女王」の前にクラウドの絵を見せた時から、こうなることは決まっていた。


「女王」は現実になることしか想像しない。

現実にならない想像など無意味。人生の無駄遣い。

「女王」は想像する時、それはつまり、成功を意味する。


その想像通り、クラウドの絵が「女王」の所有物となった。


そして、「女王」はまたも想像する。


この絵を味わい尽くし、その味を他者に施したら、きっと皆が「女王」に手を差し伸べ、餓鬼の群れの如く、乞うて来るだろう。

我先にと手を伸ばす餓鬼の群れは、頭を下げ、背景と同化している江口と同じぐらい、何度、見ても気持ちがいい。

躰の芯からゾクゾクした感覚が地を這うように、「女王」の悪趣味な快感を強く刺激する。


何度、味わっても堪らない。

何度、味わってもめられない。


その餓鬼の群れを早く見たいと思えば思うほど、「女王」の舌は下品なほど疼く。


クラウドの味はどんな味がするのか?

たった三枚で、これだけ堪能できるのだから、すべてとなれば…。

それを想像するだけで、躰に悦が走る。


隠すことができない甘美な衝動が、「女王」の口元に、静かな笑みとなって現れ、「女王」は、ただ頷くだけだった。




「そこで社長。私、考えたんですけど。“個展”なんてどうですか?世の中の人に知ってもらうためには、ここでひとつドーンと大きく出ませんか?」


遠藤が途中で入って来たことにより話しが中断してしまったが、江口が提案したかった話しが“個展”のことだった。


「女王」は、とても損をした気分だった。


新しい作品が完成したとか、いいアイディアが浮かんだとか、てっきり刺激的な話を持ち掛けて来たのかと思い、反射的に身を乗り出してしまったが、“個展”ごときで釣られてしまうとは。

何だか、つまらない映画を一本観たような、そんなヒドイ、落胆が「女王」に覆いかぶさる。

江口と言う男を少し、買い被っていたようだ。もうちょっと「女王」を楽しませてくれるかと思ったが期待外れ。やっぱり、ボロ雑巾。捨てるしか価値はないようだ。


“個展”など、それぐらいのことは、とっくに手筈は整ってある。

凡人の素人が考えることなど、すでに考えている。

「女王」はその道のプロだ。

今までも数え切らないほどの画家を発掘し、育ててきた。もうすでに道は見えている。あとはその道を通るだけ。


「女王」は江口の何十歩先も見ている。

むしろ、現実の早さが遅すぎて、もどかしいぐらいだ。

この苦悩、凡人にはわかるまい。


「女王」は遠藤の方を見る。


「それでしたら、私共の方で進めております。」


「“個展”をですか?」


「はい。そうでございます。」


「さすが社長ですね。私が提案するまでもなかったですね。アハハハ。」


江口は照れながら頭を掻く。


もし、今回、交渉が上手くいかなかったとしても、いずれ個展は開くと「女王」は考えていたので、個展の場所をすでに抑えてあった。

その個展の場所とはもちろん、「女王」が所有するビルのことである。すべての手筈は江口のあずかり知らぬところですでに整っていた。


江口は知らず知らずのうちに「女王」の張り巡らされた蜘蛛の巣の中に入り、気付かぬうちに、捕食する側と捕食される側に別れていた。


「それで場所はどこなんですか?」


「銀座です。」


「ギンザ!」


またまた遠藤はシャッターチャンスを逃してしまった。


「…ギンザって、銀座ですか?」


「はい。すぐ近くにある銀座で御座います。」


目を丸くして、口をポカーンと開けている江口の顔を指さし、腹を抱えて大笑いをしたいところだが、それはあとのお楽しみにするとして、遠藤は話しを続ける。


「銀座に我が社が経営する展示用のビルが御座いますので、そちらを御用意しております。」


「展示用のビル?銀座に?」


「はい、そうです。一般展示する前に関係者やマスコミの方々を招待しますので、準備と宣伝を兼ねて、三週間ほどあれば、個展を開くことが可能と考えております。」


「関係者…マスコミ…三週間…。」


江口は現実味のない話しを無理やり口に入れられている気分で、遠藤が与えた言葉をただ繰り返しているだけで、正直、何が何だかわかっていない。


それは江口のを見ればわかり、遠藤もそれに気付いていた。

いつもは押されてばかりの遠藤は、ここぞとばかりに押した。グイグイと江口の口に押し込んだ。


「銀座で、個展。…大丈夫ですかね。」


江口は「女王」に救いを求めた。


完全に捕食され糸でグルグル巻きになっているというのに、ナゼ、絵のことを心配しているのか「女王」には理解できなかったが、とりあえず、軽く頷いて見せた。


絵の所有者は「女王」だ。捕食者のモノだ。

捕食される者が自分の心配をせず、手放したエサのことを気にして、一体、何になるといのか。

この用なしになったボロ雑巾を間近で見ていることが不快に思え、一刻も早く、この神聖なる城から追放した気分に駆られる。それは嫌悪を通り越し、怒りにも似た衝動。

悪臭漂う、みすぼらしい男がナゼ、「女王」の前にいるのか?立場をわきまえない江口の存在に「女王」は強い怒りを覚えていた。


「それで、いつ頃、絵をお持ちすればいいんですかね?」


今度は遠藤の方を向き、救いを求めた。


遠藤は出会った日から、江口に強い怒りを覚えている。

「女王」のように露骨に感情を出せないだけで、この部屋から叩き出したいという衝動は遠藤も一緒である。

しかし、秘書とし接するしかなく、今も常識のある態度で非常識な江口に対応している。


「それには江口様のご予定をまず最初にお聞きしなければなりません。どれぐらい、かかりそうですか?」


秘書としての仮面を外さず、遠藤は江口に尋ねる。


「そうですね…。二十一枚ありますからねー。」


江口は腕を組み、考えはじめ、ブツブツと独り言を呟く。


「この前、梱包した時、丸一日かかったから、今度は…。」


呆れた男だ。今度も自分で梱包、運搬するつもりだ。


もう個人で出来る数ではない。準備に費やせる時間は三週間しかない。

本来ならば、もっと時間をかけて準備するものだが、「女王」の命令が出されたので、急遽、準備をしなくてはいけない。時間がない。ボロ雑巾の相手などしていられない。


「もし、宜しければ、私共がお手伝い致しますが。」


優しさではなく、焦りから遠藤は救いの手を出す。


「そうしたいんですけどねー。アイツが、クラウドが嫌がりますから。もし、へそ曲げて、今回の契約がパーになってしまったら大変です。ここまで頑張ってきたことがすべて水の泡になってしまいます。」


「そうですね…。」


切り札を出されては、遠藤だけでなく、「女王」すら何も言えないし、何もできない。

すべてを奪い、身ぐるみ剥がされたというのに、捕食者の思い通りにいかない。


立場が強いボロ雑巾。


「そのお気遣いだけで結構です。ありがとうございます。」


江口は、もう一度、深々と頭を下げる。

丁寧で、丁重だが、どうにも主導権が掴めない。ここまで事が進んでも、最後の大事な部分を江口は絶対に手放さない。

決定権は「女王」が持っているはずなのに、最後の鍵が邪魔をして、すべてを奪えず、江口は捕食されても、生き延びている。


しぶといボロ雑巾。


どちらにしろ、江口の言う通りにしなければ、展示まではこぎつけられない。ここは江口の意見に従うしかなかった。


「それでは一週間下さい。一週間あれば梱包できると思いますので。社長もそれでいいでしょうか?」


「女王」にお伺いを立てるが、それはお伺いと言うより、同意をお求めているようなもの。

「女王」に拒否する選択肢はなく、江口の意見に頷く他なかった。

たとえ「女王」と言えども、クラウドに嫌われたら一巻の終わり。ここまで耐えて時間が無駄になる。

「女王」とクラウドを結ぶ唯一の存在が江口。この糸だけは切れない。「女王」の蜘蛛の巣にあって、「女王」も触れられない禁断の糸。

こればかりはまだ、「女王」の所有物ではない。

江口が門番として機能している。「女王」すら入れない。


最後の糸がほどけないボロ雑巾。


「有難う御座います。社長。」


江口は三度、頭を下げた。


「女王」が許可した以上、遠藤には何もできない。


「それでは一週間後ということで、宜しいですか?」


「はい。梱包が出来次第、連絡しますので、それでは、私はこれで失礼します。」


そういうと江口はスッと立ち、1750万のカバンに重みを感じながら、ドアへと歩き出す。


「社長。個展、楽しみにしてますから。ドーンと派手にお願いしますよ。社長!いやー、今から楽しみだ。私、帰って早速、梱包はじめます。これは寝不足になりますよー。熟睡している場合じゃない。」


いつものように胡散臭い激臭を垂れ流しながら、ドアノブの手をかけ


「あと、遠藤さん。今度は契約書にサインしますから。」


品のあるカバンを下品に叩きながら

「これだけ頂いたらサインしないといけませんからね。あっ、今度からちゃんと折半しましょう。そう契約書に書いといて下さい。」


「わ、わかりました。ご用意しときま、」


「それでは一週間後に。」


遠藤の返答もロクに聞かず、江口は風のように城から出て行った。


そしてまた、「女王」の城に、静寂が溶けはじめた。


クラウドの絵はすべてめでたく、「女王」の所有物となり、「女王」の思い描いた通りの未来がやって来た。

やって来たのだが、「女王」も遠藤も、どうにも釈然としない。気が付けば、今回も江口のペースで話しが進み、そして、あっという間に二人の前から消え去った。何だか騙されたような、化かされたような、何とも言えない気分だけが、二人の心の中に残った。







































  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る