第8話 江口と遠藤


午後十二時五十分


田中が江口を一階ロビーまで迎えに行っている間、城は一時の静寂に包まれる。

昼下がり特有の気怠い余韻が静寂さの中に漂い、時間がゆっくりと進む。


「女王」はいつもの指定席で、カタログを機嫌よく見ている。


そして、その「女王」の背中を、いつもの場所から遠藤が見ていた。


いつもの風景。いつもの時間。


江口が来るまでの短い間、二人は何も話さず、その静寂に身を委ねる。


しかし、遠藤は内心、気が気ではなかった。


その理由は、いつものように江口だ。

江口が一体、どんな行動をとるのかわからず、頭を抱えていた。


今回の件、知っているのか?いないのか? わかっているのか?いないのか?


こんなに世間が大騒ぎをしているというのに、江口は何ひとつ行動を起こさなかった。

今回のことだけではない、どんな時でもそうだ。

今まで絵を見せに来た人間は愚かなほどボロが出て、コントロールしやすく、目をつぶっていても先が読めた。しかし、江口はまったく読めない。読めないどころか、居場所すらわからない。どんなに探しても、江口の存在が確認できず、痕跡すらない。


時々、遠藤はこの世に存在しないものを探しているのではないかと思うことがある。

まるで、幽霊を相手にしているようだ。


“もし、気が付いているとしたら何か策を講じているのか?”

“それとも、江口を過大評価しているだけなのか?”

 

遠藤の思考の糸をグルグルと巻いたところで、大きな妙案が釣れるわけもなく、ただエサも針もない糸を巻いては垂らし、垂らしては巻くを繰り返す。

遠藤自身、何を釣りたいのか。何を釣っているのかわからない。そもそも、遠藤の考えているところに、江口の思惑が泳いでいるかさえ怪しい。


遠藤にとって、江口はぬえのような存在。

厄介な相手だ。


無駄なことだとわかってはいるが、あと数分足らずで江口がやって来る。その数分で何か出来ないかと遠藤は、一心不乱に糸を巻く。




社長室のドアが開く。


「江口様、お連れ致しました。」


田中のあとに、江口の顔がにゅるりと見えた。


不快な臭いが、遠藤の鼻の奥へと届く。

一週間ぶりの臭い。何度嗅いでも好きにはなれない。


「いやー、いつ来ても絶景ですなー。」


ガラス一面に広がる模型のような街並みを眺め、江口は、いつものように癇に障る声で、調子のいいことを言って入って来た。


臭いだけでなく、不快な音も、遠藤の耳の奥へと届く。


田中は、お茶を運ぶべく、秘書室に向かう。


「社長。今日もお変わりなくお綺麗で。いやー 良かった。良かった。」


「女王」の正面に座る江口に、「女王」は足を組み、真っ赤なヒールを見せる。


「社長。最近、眠れてます? 私ね、最近、熟睡しちゃって、しちゃって。この前なんか、10時間も寝ちゃいましたよ。」


嬉しそうに話す江口とは対照的に「女王」は「そう。」と答え、軽く聞き流すのだが、江口は気にも止めず、お構いなしに話しを続ける。


「社長は、お肌の色艶もいいですから、きっと、いい睡眠をとってらっしゃるんでしょうね。何時間ぐらい寝てるんですか?」


遠藤は我慢の限界だった。


いつもの怒りによる我慢の限界ではなく、衝動を抑えきれないという我慢の限界。


江口にどうしても聞きたいことがあった。


それはもちろん、今回の件だ。


入って来るなり真っ先に話しをてもいい話題だ。

十人いたら十人そうする。話題にしない方が難しく、ましてや、当事者の江口がそのことに触れないのは不自然だ。

遠藤は今回のことを江口はどう思っているのか聞きたい。クラウドの状況を知りたい。聞いて江口の腹の奥を探り、クラウド対策を練りたいのだが、一向に江口が話さない。

入って来るなり、生産性のない不毛な話をベラベラと喋っているだけで、何も語らない。今日も一日中、クラウドについて、マスコミのありとあらゆる媒体が情報を流し、絵画に興味にない人でさえクラウドの名前を覚えた。それほど、巷にクラウドが溢れ返り、日を追うごとに報道が過熱し、冷める気配がないというのに、それなのにどうして、この男は能天気でいられるのだろうか?遠藤はそれが不思議でならなかった。


江口が肝心なことを話してくれないもどかしさ。


“聞きたい”という江口の我慢が限界に来ていた。


どうでもいい話を熱く語っている江口と、明らかに話を聞いていない「女王」の間に田中が、お茶を置く。


「そうだ社長。私…クラウドについて、考えたんですけどね。」


突然、江口はシリアスなトーンで話し出した。


「何?」


「女王」も釣られ、背もたれに寄りかかっていた躰を起こし、江口の方に顔を近づけた。


「こて…。」


「あのー…。」


江口の言葉を遮り、遠藤が、二人の間に割って入って来た。


「女王」が、遠藤をギッと睨む。


だが、その視線に遠藤は気付いていない。


本来なら、こんな差し出がましいことなどしない。するわけがない。遠藤は誰よりも自分の立場をわきまえている。「女王」の邪魔など決してしない。

しかし、“聞きたい”という衝動がどうしても抑えきれず、つい、割って入ってしまった。

気持ち悪い話だが、今の遠藤には、江口しか見えていない。「女王」のことは頭になかった。


それを知ることもなく、田中は静かに立ち去った。

  

「今回の件、御存知でしょうか?」


ずっと我慢して来た疑問が、ポロっと口から溢れ出る。


「今回の…ケン?」


江口は、遠藤の顔をジーっと見る。

 

「はい。今回の件。」


遠藤も、江口の顔をジーっと見る。


見つめ合ったところで、二人の距離が縮まるわけもなく、“何故、言わないのか?”と“何を言っているのか?”の平行線が続くだけ。まったくと言っていいほど、何もかも噛み合わない。


一度、起こした躰を再び、背もたれに戻し、「女王」は決して交じり合わない二人の平行線を食い入るように見ている。


「何のケンですか?」


「ですから、今、マスコミで取り上げられているクラウド様の絵の件です。」


江口の勘の悪さに業を煮やし、遠藤は心の底にあった我慢を一気に、江口の顔にぶちまけた。


「あー、アレですか。」


顔にぶちまかれても、江口は表情ひとつ変えず、答える。その表情を見て、遠藤は驚く。


“知っていた…”


江口は、今回の件を知っていたのだ。知っていて話さなかったのだ。

それにも驚いたが、それではなぜ、知っているのに話をしないのか?

怒るなり、喜びなり、何かしらの反応を「女王」に見せてもおかしくはない。それなのになぜ、開口一番、睡眠の話をしたのか?

ますます、江口の言動が理解できない。理解したいと思わないが、どうしても理解できないので、遠藤はそのまま話しを進めた。


「…御存知だったのですね。今回の件は?」


「はい。ずーっと、テレビでやってますからね。そりゃ、気付きますよ。」


遠藤の気も知らず、江口は爽やかな笑顔で返した。


「…そうですか…。御存知で…。」


「はい。」


「…御存知ですか…。」


「えぇ。はい。」


遠藤に強い眩暈が襲う。今までの時間は何だったのか? 完全なる一人相撲だ。

考えてみれば相手は江口。何を考えているのか予測がつかない男だ。そんな男に常識を求めた遠藤がバカだった。「女王」で学習していると思っていたが、まだまだ修行が足りないようだ。


自分の不甲斐なさを、遠藤は深く、恥じた。


今、このわけのわからない状況を作ったのは他でもない遠藤自身だ。自分で墓穴を掘り、埋まってしまって抜け出せない。

「女王」が助けてくれるわけもなく、江口が気持ちを察してくれるわけもなく、穴があったら入りたい気分だ。


そして、遠藤は悟った。“この世に「女王」は、二人いる”と。



立場が違うだけで中身は一緒。似た者同士。遠藤よりも近い距離。


しかし、ここまで来たら聞くしかない。今更、後戻りはできない。

これからする質問で、江口からどんな答えが返って来るのか、おおよそ見当はつく。今さっき不甲斐なさを深く恥じ、薄々、気付いてはいる。気付いてはいるが、このまま最後まで行くしかない。


遠藤は意を決して、江口に質問をする。


「クラウド様は、何と仰ってるんですか?…このを…。」


「アイツはテレビとか観ないので、今回の件は知りません。」


江口にあっさりと返され、決した意は見事に粉々に砕かれた。


江口に輪をかけて、クラウドが変人だったことをすっかり忘れていた。


“この世に「女王」が、三人いた”


遠藤はこれから三人の「女王」を相手にしなくてはいけない。考えるだけでも肩の荷が重くなる。体調が悪くなる。


そのとも言える「女王」の姿を見て、遠藤は会話を止めてしまったことに気付き、再び、深く己を恥じた。


「そ、そうでした。お金をお渡しするのを忘れていました。今、ご用意致しますので。」


止めた流れをもう一度、「女王」に戻すため、遠藤は自らお金のことを言い出し、逃げるように金庫の元へと歩き出す。


「スイマセンね。」


状況をわかっていない江口は吞気なものだ。

美味しそうにお茶を飲み、ニコリと初夏のような涼やかな笑顔を「女王」に見せると、「女王」もニコリと品のいい笑顔で返した。


「お待たせ致しました。」


いつものように、紫のサテンの生地を被せたトレイが、いつものように、「女王」と江口の前に置かれた。


“ここは早く契約を済ませ、クラウドの絵を手中に収めれば、「女王」の機嫌も、きっと良くなるだろう。”


遠藤はそう考えた。


布を取ると1750万の束がキレイに積まれ、江口の前に行儀よく現れた。


「?」


江口は、1750万の束を上から下から斜めからキョロキョロと世話しなく見ている。


ふと、その時、遠藤は昔、庭先で飼っていたニワトリを思い出した。頭を小刻みに動かし、ヒョコヒョコと無駄に歩き回っていた懐かしいニワトリ。最後は食べたのか、人にあげたのか覚えていないが、江口のその仕草が、あまりにも似ていて、懐かしくなり、思わず笑いそうになる。


モヤモヤとイライラで、汚れていた遠藤の心が浄化されて行く。


「どうか、されましたか?」


遠藤はそんなこと、おくびにも出さず、ニワトリの江口に尋ねた。


「これって、全額?…ですよね?」


一枚だけでいいから写真に残したいニワトリ顔の江口。

笑いを堪え、それでも遠藤は冷静に秘書として答える。


「はい。」


「…確か、折半じゃなかったですか?」


「はい。そうだったのですが。五十嵐が、どうしても全額、江口様に、と。」


「えっ‼全額ですか⁉」


ニワトリ顔の江口に、さらに驚き顔がプラスされ、可笑しさが倍増し、笑いを堪えるのに遠藤は必死だった。


「はい。五十嵐たってのことなので、どうか全額お納め下さい。」


「…いいん…ですか…?」


江口は「女王」に、お伺いを立てる。


「女王」は、静かにゆっくりと頷く。


「1750万円…全額…。」


「女王」は、ゆっくりと頷くだけ。それだけですべて事が済む。


次に江口は、遠藤を見る。遠藤も軽く頷き、促す。


「それでは…お言葉に甘えて…。すいません…。」


珍しく江口が恐縮そうに1750万円を乗せたトレーを自分の方に引き寄せ、「写真は…いいか。」とクラウドに送る写真を遠慮がちに呟き、撮るのを止めた。さすがの江口も1750万円をポンとくれる「女王」に気後れしたのだろう、いつもの下品さはなりを潜め、借りて来た猫のよう大人しい。


遠藤は、江口に代わって写真を撮りたい気持ちだった。


江口の持って来たカバンは最初から自分の取り分しか入らないことを想定して持った来たカバンだったらしく、どうやっても全額入らない。しかし、入らないからと言ってポケットに札束を入れるわけにもいかず、カバンが悲鳴を上げそうになるほど、ギュギュに押し込み、どこから見ても不格好。逆に目立ってしまう。


遠藤は慌てている江口を見ていると心が洗われ、清々しい。


「もし、宜しければ、我が社のカバンをお使い下さい。」


「カバン?」


こんなこともあるかと思い遠藤は、「女王」の指示で大きなカバンを用意していた。


貴婦人の机の上に置いてあったカバンを江口の前に移動させた。


一目で高級品とわかるカバンで、牛革の鞣した艶がキラリと光り、重厚感を演出する。


「このカバンは自社ブランドで、今、大変人気のあるカバンなんです。良かったら差し上げますので、どうぞお使い下さい。」


「いいんですか! こんな立派なカバン、頂いて。」


江口の驚き顔は何べん見ても面白い。重ね重ね写真に納められないのが残念だ。


「どうぞ。」


悔しい気持ちを押し殺し、笑いたい気持ちを押し殺して、遠藤が答える。「女王」も軽く頷き、反応する。


「それでは、これも、お言葉に甘えて。」


「女王」と遠藤が見ている。


それが何だか恥ずかしく、入れ替えるのもバツが悪かったのだろう。江口は貰ったカバンにギュウギュウ詰めのカバンをすっぽりと入れて隠してしまう。


遠藤は心の中でニヤリとする。


本当ならば、今日こそ契約書にサインを何が何でもさせようと思っていたが、先ほど「女王」の前で失態してしまったため強く言えない。無理に詰め寄って、取引がこじれてしまったら大変だ。これ以上、傷口を広げないため、不問に付すことにした。

いいモノも見れたことだし、遠藤は少し、機嫌がいい。


江口は、バツの悪さを掻き消すかのように、咳払いをひとつしてから話し出す。


「クラウドも社長の力を見て、納得したようです。これ以上、文句を言うことはないでしょう。というか、私が言わせません。なので社長。そのカタログは今日から社長のモノです。」


「女王」の目の前に置いてあるカタログを軽く前に差し出し、「どうか、クラウドを社長の手でドンドン世に広めて下さい。そして、クラウドを一流の画家に。お願い致します。」と、いつもとは違う真剣な眼差しで江口は話し、最後に深々と頭を下げた。


クラウドの譲渡式。

クラウドの所有者が正式に変わった瞬間。


静かに笑みを浮かべながら「女王」は、ただ頷くだけ。


遠藤は「女王」の浮かべた笑みが、どんな意味なのか容易に理解できた。


何度も横で見た来た笑み。今回も結末は同じ。


やはり、遠藤は幾ばくかの同情を江口に感じてしまう。いくら憎く、相性が合わない相手でも、この笑みは残酷な未来を意味するもの。「女王」に徹底的に味わい尽くされて、ボロ雑巾のように捨てられ、哀しい結末が待っているだけの未来。


やはり、同情せずにはいられない。


そして、いよいよ、宴が始まる。「女王」が計画していた宴。クラウドと出会った時から、この日が来るのを一日千秋の思いで待っていた。長い拷問に耐えたのも、この日のため。つまらない男の条件を飲んだのも、この日のため。


「女王」が思い描くシナリオ。


その宴の始まりが、笑みとなって「女王」の口元に浮ぶ。


遠藤はすべてを理解する。


一人、何も知らない江口だけが、爽やかな笑顔を無邪気に見せていた。
















































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