第25話 「彼女」4

一年後、「彼女」は東京の工場で働いていた。


たくさんの従業員が整然と並んで机に座り、精密部品を組み立ている。

「彼女」もその中に混じり、黙々と作業をしていた。


昼休み、みんなが食堂へ向かう中、「彼女」は一人、工場近くの公園のベンチに座り、安い菓子パンを食べながら、美術の本を貪るように読んでいる。


「彼女」にとって、この時間が何よりも幸せな時間。

誰にも邪魔されずに、大好きな絵に没頭できる。

あの町に居る頃には出来なかった時間。取り上げられていた幸せ。


そのために「彼女」は東京に来た。


「彼女」はその時間を取り返すかのように、夢中で絵と向き合っていた。




忙しくなければ、夜七時前には終わり、帰宅できる。

「彼女」はどこにも寄り道することもなく、真っ直ぐ部屋に帰り、絵を描き始める。


部屋は住み込みの安アパート。六畳一間の何もない一階の部屋。

窓を開けても、見えるものはブロック塀と伸びすぎた雑草だけで、日が当たらず、いつもジメジメとして暗い場所。

トイレ、台所は共同で、風呂は歩いて十分のところに銭湯がある。仕事が忙しければ銭湯は閉まってしまうし、お金のない「彼女」にとって、毎日入れるものではなかった。

若い娘が住むような環境ではなかったが、そんなこと「彼女」はどうでもよかった。

ただ、絵が描ければそれでよかった。


時間を好きに使えるのが嬉しかった。


今日も「彼女」は帰ってくるなり、描きかけのスケッチブックを取り出し、一心不乱に描き始める。

安い菓子パンを頬張りながら、「彼女」独特の抽象的絵画を作り上がて行く。


この時間さえあれば、他はなにもいらない。「彼女」は、そう思っていた。




半年後、工場は繁忙期に入り、忙しい毎日を「彼女」は送っていた。

早朝から出勤し、夜遅くまで残業をする。

本当は断りたいのだが、「彼女」にそんな選択肢はない。住まいをあてがわれている身としては、ただ上司の言うことを機械的に聞き、盲目的に仕事をしなければならなかった。


もちろん、給料は増える。それが目的の者もいるが、「彼女」は絵が描きたかった。

好きな絵を何も考えず、描きたかった。

しかし、社会の仕組みがそうさせてくれない。

「彼女」の置かれている立場では、そうはいなかない。


お金はあるが、時間がない。

お金があっても、ここから逃げて行けるほど、あるわけではない。


「彼女」の中で、ジレンマが摩擦を起こし、気持ちがジリジリと焦り出す。


“このままでは、取り残される”


そう思いながら、今日も「彼女」は夜遅くまで働き、錆びた体で部屋に帰り、敷きっぱなしの布団の上に倒れ込み、そのまま眠る。

遅い時間では銭湯も開いていない。お腹が空いたが、食べる物もないし、お店も開いていない。


すべてが面倒くさくて、億劫だ。


睡魔が「彼女」の動きを鈍くする。

空腹よりも、睡魔が「彼女」の体を支配する。




三カ月後、「彼女」は苦しんでいた。


気が付けば、部屋と工場の往復をシーソーのように無機質に繰り返している毎日。

そのうち段々と、「彼女」の体力と絵を描く気力がそがれていき、徐々に「彼女」の心に変化が出始める。


ある日の休日。「彼女」は画材道具を買うため東京の街を歩いた。


「彼女」は東京に来て、いくつかわかったことがある。

あの町にないものが、東京ここにはすべてあると言うこと。


人やモノが、常に街の中に溢れ返り、生まれて初めて見るもの、食べるもの、まるで違う惑星に来たかのような、そんな錯覚に陥り、衝撃を受けた。


そして、もう一つわかったことは、東京ここでは、強い風が吹かないと言うことだ。

あまりにも静か過ぎて、夜、寝るのに苦労したほどだ。


まだまだ恐怖心が拭えないそんな東京の街で、田舎者と見破れないように精一杯、胸を張り歩いていると、最近、同世代の女の子に視線が行く。


かわいい服を着て、彼氏や友達を連れ、楽しそうに歩いている。

まだ、みんな遊んでいる年頃。青春を謳歌している。

大袈裟ではなく、「彼女」には、そんな同世代の女の子たちが、キラキラと輝いて見えた。店のガラスに映る自分の姿を見て、何だか急に「彼女」は恥ずかしくなった。


“なぜ、私は彼女たちと違うのだろうか?”

“私の歩く道は、本当にこれで、あっているのだろうか?”


みすぼらしい「彼女」の姿を見て、みんなが指を指し、笑っているような気がしてならなかった。



今日も疲れ、錆びついた体を汚れた布団の上に身を預け、「彼女」は考える。

天井を見つめ、ぼんやりと疲労で動かなくなった頭で考える。


“一体、何のために、私は東京に来たのだろう”

“気が付けば、あの町に居た頃と同じ生活をしている”


天井がグニャグニャと揺れ、瞼が次第に重くなる。


”それが嫌で、飛び出して来たというのに…”


静かな夜の音が、ずっと遠くで聴こえる。


“貧しい暮らしは、もう絶対に嫌だ!”


水に溶け込むように、「彼女」の意識が薄れて行く。


“もっと楽しく暮らしたい!”

“苦労せずに生きて行きたい!”


「彼女」の意識が睡魔の中に流れ、消えて行く。


心身ともに、「彼女」の疲れは限界を超えていた。




一年後、「彼女」は赤羽のスナックで働いていた。


名前は“京子”。


「彼女」はまだ未成年だったが、二十一と嘘をつき、雇ってもらったが、そこのママもいい加減な人で、二十五にして店に出した。


しかし、それだけサバを読んでもわからないほど、「彼女」の顔は大人びていた。


住まいは、スナックの二階。間借りをして暮らしていた。

部屋は狭いが、一人で暮らして行くには十分な広さで、文句はなかった。


そして、この時、「彼女」はようやく、自分の姿に気付く。


「彼女」が働きはじめてから、お客の数が急激に増えた。

「彼女」の美しさが、あれよあれよと広がって行き、「彼女」の美しさを、一目見ようと、たくさんの男たちが、蜜に群がる蟻のように、「彼女」の店にやって来る。


当然、「彼女」に貢物《プレゼント》が、山のように贈られる。それも毎日だ。

そうなると、これも当然のことだが、「彼女」の給料が増える。

寝る間も惜しんで働いていたあの時期の給料一ヶ月分を、一日で軽く超えるようになった。


「彼女」は最短コースで、暮らしていける道を見つけた。


まさか、自分の顔に、それだけの力があったとは「彼女」自身、夢にも思わなかった。

遅過ぎる気付きではあったが、「彼女」はその力を大いに利用するようになる。


「彼女」の歩く道に、貧しく、惨めな障害物は、もう存在しない。

それと同時に、画家になるという夢も、もはや、存在していない。


夢を見るよりも、「彼女」は現実を生きることにした。

道が変われば、歩みも変わる。そして、「彼女」の心も変わっていった。




三年後、「彼女」は新宿のクラブで働いていた。


名前は“ユリ”


もちろん、「彼女」は店でナンバーワンの人気を誇っていた。

「彼女」の顔も、ようやく年齢と合うようになり、ホステス姿も板につき、東京の夜を独り占めしていた。

お金にも困らなくなり、新宿のド真ん中に建つ高級マンションに住み、見下されていた東京の街を、今はベランダから見下ろしている。


このマンションも自分で買ったものではなく、お客が買ってくれたもの。

「彼女」が隣に座るだけで、お客が献身的に、不自由のない暮らしを提供してくれる。そして、その提供されたものを、「彼女」は黙って受け取り、微笑めば、それで話が済む。

何も言わなくても、お客が忠実な従者となって、「彼女」に尽くしてくれる。



この時期に「彼女」は、一人の男と出会う。


田川 純一 二十七歳。 アパレル会社を経営する社長。


業界では期待の有望株と言われ、マスコミでは“時代の寵児”と呼ばれ、一目置かれている人物。

飛ぶ鳥を落とす勢いとは、田川のためにある言葉。

そんな田川も、「彼女」の甘い魅力に誘われて、フラフラと寄って来たお客の一人。


「今日は帰らなくていいの?」


田川の横で、眠たそうな目をして、「彼女」が尋ねる。


「今日は泊まりって言ってあるから大丈夫だよ。」


ベットの上で、田川はタバコをくゆらせ、「彼女」の透き通るような大きなを見ながら答えた。


「バレなきゃいいけど。」


イジワルな言葉を言いながら、「彼女」は田川のタバコを取り、大きく吸い込むと、

真っ赤な火種が、薄暗い部屋で小さく灯り、二人の顔がぼんやりと浮かぶ。


「今度、旅行に行こう。」


田川が、イジワルな言葉をはぐらかすように話題を変える。


「どこへ?」


「どこでもいいよ。」


「いつ?」


「いつでも。」


「奥さんには何て言うの?」


「彼女」は、またもイジワルな質問を田川にする。


「適当に言うさ。なっ、頼むから、シラケるようなこと言わないでくれよ。」


意図的にムードを壊す「彼女」に、田川は少し、苛立った声を出した。


「私は、ややこしいことがイヤなだけ。」


そういうと、火種がまたも真っ赤に灯り、「彼女」はタバコを田川に返した。


「大丈夫。何も問題はない。だから、旅行、考えといてよ。」


「そうね…わかった。考えとくわ。」



「彼女」は、人生を謳歌していた。




四年後、「彼女」は銀座のクラブで働いていた。


名前は“華穂”。


この頃になると、「彼女」の顔に微かに見えたあどけなさも消え去り、立派な女性へと成長していた。

美しさに磨きがかかり、眩い光りを放ち、男たちを虜にする。

男たちは、「彼女」を独り占めしようと毎日、店に足繁く通い、大金を落としては、貢物プレゼントをする。

餓鬼の群れが、毎晩、「彼女」の前で列を作り、待っている。

いつしか「彼女」に会いに行くことを“華穂詣で”と言うようになり、「彼女」はその若さで、伝説を作るまでの存在に昇りつめ、銀座で知らぬ者などいなかった。



そして、ここで二人の男と出会う。


一人は、荒川 真一 51歳。


長身ですらりと伸びた足。

引き締まった体。

甘いマスク。

笑うとできる目尻のしわ

ロマンスグレーがよく似合う。


世の女性が放ってはおかないタイプだ。


しかし、そんな荒川も「彼女」の魅力には勝てず、“華穂詣で”をしている男の一人。

「彼女」にとっても、荒川はな一人。手放せないの一人。


もちろん、田川とも繋がっている。

田川もまた、「彼女」にとって、な一人。手放せないの一人。


「今日は、どんなお仕事してきたの?」


グラスにブランデーを注ぎながら「彼女」は、荒川に尋ねる。


「何、いつものツマラナイ会合さ。」


そう言うと、荒川は、「彼女」が注いでくれたブランデーを、グイっと飲み干す。


「病院の理事長さんも大変ね。」


空いたグラスにブランデーを注ぎながら、「彼女」は会話を続けた。


「大変って言ったって、俺は親父の後を継いだだけで、経営は親父の代からの古株連中がやってくれてるし、ただ座っているだけだ。お飾りみたいなもんさ。」


寂しそうな顔して荒川は、「彼女」を見る。


「それでも、体が心配。」


「彼女」は荒川の心を癒すように、そっと優しく太腿に手を置いた。


「倒れたって、病院は三つある。どこでも倒れても大丈夫だよ。」


荒川は自分で自分を嘲笑し、一気にブランデーを飲み干す。


「今晩、行くよ。」


太腿に置いた「彼女」の手に、指輪をした荒川の左手が重なる。




もう一人の男は、沼池 正三郎 60歳。


還暦と言っても、枯れる気配がなく、肌がギラギラと輝き、恰幅のいい体とそれに見合った大きくて下品な声が特徴的な男。


今日も上品な店内に、下品な声が響き渡っている。


「あら、先生。お久しぶりですね。」


「おう。華穂じゃないか。こっち座りなさい。」


沼池の相手をしていた若い二人のホステスは、潮が引くようにテーブルを離れ、消えて行く。

沼池の空いた横の席に「彼女」が静かに座り、お酒を作りはじめた。


「先生。予算委員会は終わったんですか?」


「あぁ、やっとね。たくっ、野党のヤツがゴネるから、思ったより時間がかかったよ。」


沼池は煙草の煙を下品に吐きながら、答えた。


「さすが、国対委員長。次の総裁選、確実ですね?」


「いやいや、そう上手く行かないのが、永田町と言うところ。権謀術数、手練手管の海千山千を相手にするのは、とても至難の業でね。私じゃ務まらんよ。」


まんざらでもない顔をして、沼池は、「彼女」の作ったお酒を上手そうに飲んだ。


「それじゃ、私たちの関係も終わりにしないと。」


「彼女」の言葉を聞いて、沼池は飲んだお酒を吐き出しそうになる。


「何を言っているんだ。それはそれ。これはこれだろ。」


ギラギラとした両手で、「彼女」のか細く白い手を沼池は強く握った。


「でも、総理になるには、私はジャマでしょ?」


「彼女」は思わせぶりな態度を見せ、沼池の反応を確かめた。


「バカ言っているんじゃないよ。もし、私が、総理になっても変わらんよ。」


握っていた手をさらにギュッと握り、沼池は答えた。


「彼女」にとって、沼池は、上玉な客だ。

もしかしたら、この国のトップになるかもしれない人間。そんな人間を「彼女」のテリトリーに置いておくことは、またとないチャンスであり、アパレルの寵児や病院経営者とは格が違う。

どんな手を使ってでも、「彼女」の側に従者として囲っておく必要があった。


今の反応を見ても、ことはわかり、まだまだ利用できる関係だと、「彼女」は確信した。


「わかりました。先生のそのお言葉、信じます。」


「そうか。良かったよ。」


ギラギラした顔で、沼池は下品に笑う。


「彼女」は虜になった男たちを、上手く手懐け、飼い慣らす。


力と金を持った男たちの後ろには、おこぼれにあやかろうと、無数の餓鬼が存在している。

それもまた、「彼女」にとっては大事な部品。いつどう利用できるかわからない。どの部品も「彼女」のコマとして動いてもらわなければ困る。

そのためにも、付き合う男たちは、慎重に選ばなければならない。「彼女」の美貌や、野望に見合った男でないと意味がない。


せっかく、容姿端麗で生まれてきたのだから、この使わない手はない。


惨めで、貧しい生き方は、もうしたくない。


「彼女」が東京で覚えたこと。

「彼女」が生きるために、東京で身に付けたすべ


絵を描く気持ちは、東京の隅に捨てきた。

















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