第3話 七日間
一日目。
当然ながら江口からの連絡はない。
昨日の今日だ。すぐに連絡は来ないだろうし、期待もしていない。むしろ、あの男のことだから他のバイヤーに話しを持ちかけてるかもしれない。いや、間違いなくしているだろう。
遠藤は江口を一から十まで信用していない。半信半疑すら持ち合わせていない。警戒心しかない。
遠藤は情報を隈なくチェックして、江口の動向を探るが、いまだ動きはないようだ。
どんなに江口が息を殺して動いたとしても、「女王」の張り巡らされた情報網から逃れることはできない。この蜘蛛の巣はどんな小さな虫でも絡め獲る。江口から見えなくても、「女王」からは丸見えだ。動いたら最後、徹底的に捕食する。
その最後が早く来ないかと、心のどこかで強く願っている遠藤がいた。
泣いて赦しを乞うあの男の姿が見たくてウズウズしていた。一度しか会ってないのだが、ここで会ったが百年目。親の仇のように憎くて、憎くて仕方がない。きっと前世でも憎かったのだろう。
しかし「女王」は、遠藤に何度も連絡の有無を聞いて来る。断るごとに聞いて来る。
そんな「女王」に遠藤は戸惑いを覚えていた。
そこまで絵に執着する「女王」を見たことがなかった。
「女王」は絵に対し、感情も愛情も熱意も一切、持ち合わせていない。なのに、その「女王」が見せた一片の焦り。
一体、あの薄気味悪い絵にどんな魅力があるというのか?
絵の知識がない遠藤には到底、「女王」の気持ちを理解することは難しい。難しいが、どうしてもクラウドの絵を欲しがっている「女王」の気持ちが痛いほどわかるので、蜘蛛の巣のように張り巡らされた情報網から江口が逃げ出さないように、引き続き細心の注意を払いながら監視を続けた。
二日目。
やはり、まだ連絡は来ない。
動いた様子もない。
江口の存在が幻だったのではないかと思ってしまうほど、蜘蛛の巣に動きはなく静かで、江口に関する情報がまったく入って来なかった。探してもその影すら見当たらない。
もちろん、無名の画家なのだから情報が少なくて当然なのだが、ここまで情報がなく、息を潜めている江口に対し、遠藤は強い違和感を感じていた。
“なぜ、すぐに売りに来ないのか?”
「女王」が、無名の画家の絵に400万という破格の値段を付けたのだから、飛んで売りに戻って来てもおかしくはない。
江口に損はなく、またとない好条件な商談。
それに、無名の画家の絵に400万という値段が付いたら、もっと高値で買ってくれるところがあるのではないかと欲を出し、動いてもいいはず。
ましてや、「女王」のお墨付きなのだから交渉の材料にもしやすい。今までの経験上、一時間も経たないうちに行動に移し、そして、すぐにバレる。
全員がそうだ。例外はない。なのに、そんな情報すら入って来ない。何をしているのか? どこにいるのか?
静かだ。静か過ぎる。
遠藤の経験則の中に、江口は納まらず、いつも例外という外にいる。
会っていないのに、江口は遠藤をイライラさせる。
居たら居たで消えて欲しいと思うし、居ないなら居ないで目障りな男。
江口は遠藤を怒らせる天才なのかもしれない。
三日目。
何の情報も入って来ない。
依然、江口は静かなままだった。
そんなにクラウドという画家に手間取っているのだろうか? 手間取っているとしたら、何が問題なのか?
値段? 取り分? 納得のいく絵が描けない? 考えられる予想としては、おおよそこんなところだが、あの男が経験則に当てはまらないことは、この三日で遠藤も学習した。
それに、江口のことなんてほっとけばいい。絵を持って来ようが、どこかに売ろうが知ったことではない。江口が動いた時、考えればいいこと。それが一番いい方法で、遠藤のストレスも溜まらなくて健康的だ。
江口の行動・思考パターンを考えるだけで、時間の無駄というもの。
しかし遠藤は、ついつい考えてしまう。
考えたところで、遠藤には皆目見当もつかないのだが、気が付くと考えている。それが何だが腹が立つ。
遠藤のイライラが火山灰のように降り積もる。
今日も「女王」は断るごとに連絡の有無を聞いて来る。
朝、出社して、まず聞いて来る。
商談をしている最中でも聞いて来る。
会食をしていても聞いて来る。
一日の仕事が終わり、帰る間際にも聞いて来る。
三日目にして、もはや「女王」の日課となってしまった。
そんなどうでもいいことを「女王」の日課にさせた江口が、ますます嫌いになり、遠藤のイライラが溶岩となって、今にでも爆発しそうだった。
四日目。
音沙汰なし。
あり得ない。ここまで待っても連絡がない。それどころか、動きすらない。これは、忽然と姿を消えたとしか思えない。
遠藤としては、二度と現れないでくれるのならば、消えたままでいいのだが、「女王」の話しとなると、そうも言ってられない。探さなくてはならない。
しかし、探したくても探しようがない。所在がまったく掴めない。
まるで雲を掴むような話。
「だから“cloud”なのか。」ふと、漏れる遠藤の独り言。
「何ですか?」
正面の机に座っている田中が、仕事の手を止めて遠藤に尋ねた。
その言葉で、遠藤はハッとして、我に返る。
「いや、何でもない。」
遠藤はとっさに作り笑いをして誤魔化す。
田中は止めていた手を再び動かし、仕事を始めた。
遠藤は無意識のうちにまた、江口のことを考えてしまった自分が恥ずかしく、なんだか江口に負けたような気がして悔しかった。
遠藤は心底、江口が嫌いなようだ。
五日目。
まだ連絡がない。当然、動きもない。
変わったことと言えば、「女王」がパタリと江口の連絡の有無を聞かなくなったことだ。
諦めたのか。飽きたのか。突然、聞かなくなった。
「女王」はいつも気まぐれで、気分もコロコロ変わる。
遠藤はいつものことだと思い、「女王」が聞いて来ないのだから、遠藤から報告することもなく、精神衛生的にも良く、わざわざ泣く子を起こす必要などなかった。
六日目。
今日は一流ホテルのホールを貸し切って、「女王」のセミナーが行われている。
「これからの女性が歩む道。」と、いかにも退屈そうなタイトルが付けられたセミナーで、毎年恒例の催しものなのだが、もちろん、「女王」が好き好んで開催しているのではなく、遠藤が積極的に初めたこと。
“女性の憧れとなり、女性の支持層を広げる。”と、説得させられ始めたのだが、「女王」にとって“女性の支持”など何の意味もなく、ティッシュ一枚の軽さもない。
遠藤は秘書としてはとても優秀で、頼りになるのだが、どうにも真面目で、窮屈。
地味なことを好まない「女王」には、遠藤の考えには物足りなさを感じていた。
しかし、「女王」の気持ちとは裏腹に、会場は満員で千人ちかい女性たちが集まっている。
「女王」が降臨するのを待ちわび、落ち着きがない。
やがて、会場が暗くなり、荘厳な音楽と共に女性司会者が仰々しく、「女王」を招き入れる。
突然、照明が消え、会場が一瞬にして暗くなる。
ざわつく女性たち。
すると、壇上中央の天井から、一筋の光が降り注ぐ。それはまるで、雲の隙間から日の光が顔を出したような光景だった。
そして、その光の中から「女王」の姿がゆっくりと現れた。
「女王」の神秘的な降臨と同時に割れんばかりの拍手と歓声が会場中、いや、ホテル中に響き渡る。
セミナーというより
「女王」というより教祖。
「女王」が話し出すと会場は水を打ったように静まり返り、会場に集まった信者たちは、「女王」の有難い御言葉をひとつも聞き逃してはならないと、メモを取っては「女王」を見て、「女王」を見てはメモを取り。そればかりを繰り返す。
この瞬間が「女王」には堪らない。ゾクゾクが止まらない。
人の視線が嫌いじゃない「女王」にとって、、この時ばかりは生き生きと水を得た鮫のように優雅に会場を泳ぎ回る。
遠藤も嬉しそうに、会場の端から優雅に泳ぐ「女王」を見ていた。
その時、遠藤のスマホが震えた。
見ると田中からのメール。
“先ほど、江口様から連絡があり、明日、午後一時に来られるとのこと。現金を用意して欲しいという要望がありました。”
やっと来た。
待たせるだけ待たせて、ちゃっかり現金を用意しろとは、どこまでも失礼で、デリカシーのない男ではあったが、どうにかこうにか売却まで辿り着いた。
明日、現金を払って終わり。江口ともこれでお別れ、もう二度と会わなくて済むのだと思うと、この一週間モヤモヤと曇っていた遠藤の心にも、やっと晴れ間が見え、日差しが降り注いで来た。
弥撒というセミナーが終わる。
名残惜しい気持ちが入り混じった信者の拍手で見送られながら、「女王」が壇上を降りて来る。すぐさま遠藤が「女王」のところに駆け寄り、遠藤は晴れやかな笑顔で、「江口様から連絡がありました。」と告げる。
「女王」はひとつ溜め息をつき、「いつ?」と聞いてきた。
「明日の午後一時です。」
「わかった。」
数日前が嘘だったかのように、今は冷淡に素っ気なく、いつもの「女王」に戻り、答えている。
「あっ、それと、現金で欲しいとのことです。」
「じゃ、用意しといて。」
それだけを言い残し、鳴りやまない拍手の中、楽屋へと帰って行く。
その背中を確認してから遠藤が電話をかける。
「田中さん。例の件。お願い。」
ようやく、明日、午後一時。すべてが終わる。
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