第4話 カタログ
七日目。 午後十二時五十分
ようやくだ。やっとこの日が来た。「女王」にとって、この七日間は、ただ待つ身だけの七日間だった。欲しい物が目の前にあるというのに、金なら腐るほどあるというのに欲しい物に手が届かない。それも無名の画家の絵が、たった一枚、手に入らない苦痛だけの七日間。永遠に来ないのではないのかと思うほどゆっくりとした時間の中で、「女王」はジッと耐えなければいけなかった。
ポタポタと蛇口から落ちる水滴で50mのプールが満杯になるのを待つような、そんな拷問に近い時間を「女王」は身悶えしながら待った。
最初の三日間は「女王」にはめずらしく、焦り、遠藤に何度となく連絡を有無をしつこく聞いてしまった。
「女王」としては、死ぬほど恥ずかしい失態。
いくら二十年来の腹心の右腕だからと言って、見せてはいけない姿だった。
四日目以降は、何も気にしていない表情を見せ、精一杯、忘れているフリをしていたが、本当は血眼になってクラウドの絵を探したかった。誰かに取られたくも、見られたくもなかった。クラウドの名が世に出る時、絵の側に立っている所有者は「女王」でなくてはいけない。
「女王」以外、考えられない。なぜなら、それが一番絵なるからだ。「女王」はそれを知っている。
「女王」が頭で描いたことは、必ず現実する。
夢や理想など無意味。実現してこそ意味がある。
今回もそうならなければいけない現実なのに。それが何故だかうまくいかない。
だから、「女王」は身悶えしている。遠藤にも隠し、身悶えしている。
「女王」は独り拷問に耐えていた。
「女王」の城で、「女王」が拷問にあっているのだ。そんな馬鹿な話が、今、ここで起こっている。誰にも知られず起こっている。
そして、ようやく、あと数分で拷問が終わる。
秘書室から田中が現れ、「女王」と遠藤に江口が来たことを知らせ、玄関まで迎えに行くため部屋を出る。
いつもの指定席で、どこまでも続く青い空を見ている「女王」の背中に遠藤はふと、抱いていた疑問を投げかけた。
「社長。」
「何?」
相変わらず「女王」は振り向くこともなく答える。
「ひとつ疑問に思っていたことがあるのですが?」
「疑問?」
「はい。ナゼ、あの絵に400万もの高値を付けたのですか? 今まで、たくさんの絵を側で見て来ましたが、正直、私はあの絵が苦手です。」
突然、「女王」が勢いよく振り向き遠藤を見る。
「⁉」
あまりにも急な行動に遠藤は言葉が出ない。
そんな遠藤を気遣うこともなく、「女王」は話し出す。。
「そうなのよ。あの絵にはテーマらしきものがないのよね。」
「テーマがない?」
「そう。まったく見当たらないの。あるのは憎悪と恨み。」
「憎悪と恨み?」
「あれは漠然とした憎悪ではなく、誰かに向けられた憎悪ね。何て言うんだろ。念にも似た強い感情を感じるのよね。あの絵からは。だから、あたなが言ったことは決して間違っていないの。あの絵を見たらほとんどの人が顔を背けるわ。でも、闇雲に描いて不快にしているわけじゃない。キャンバスの中にちゃんと絵画として落とし込んでいるのがスゴイのよ。あのタッチ。色使い。全体の構図。どれを取っても素晴らしい。すべてが芸術。あれは生まれ持った才能としかいいようがない絵ね。考えて描ける絵じゃないわ。」
二度目の驚きで、またも遠藤から言葉が出て来ない。
絵に対し、こんなに熱く語る「女王」を見たことがなかった。
こんなに絵に関して知識や熱意があるとは知らなかった。
「女王」の目利きは確かだ。今まで、一度も疑ったことはない。次々と次世代の画家を発掘し、国内外から評価されている。しかし、それはあくまでも「女王」にとって「損か得か」の判断基準で決めていると遠藤は思っていた。「女王」もそう言ってきた。なのに今回の「女王」は明らかに違う。
絵画を愛する画廊に見えた。
「女王」は、あの絵に言い知れぬ魅力を感じているようだった。
「…そうなんですか…。」
遠藤は、その言葉を返すのがやっとだった。
目が点になっている遠藤の顔を見て、「女王」はハッとして気付く。
“熱く語り過ぎてしまった!”と。
「女王」は反省をした。
今までずっと我慢してきたのに、遠藤の質問に思わず飛び乗ってしまい、ついつい余計なことを話してしまった。言っていることは嘘ではない。紛れもない「女王」の本心。一人の絵画を愛する者の本音。しかし、遠藤に話すことではなかった。相手を間違えた。この話しはもっと先に取っておく話しであった。
「女王」は少し、バツが悪そうに、ぎこちなく前を向き、「あの絵の良さを私が伝えれば、価値は今以上に跳ね上がるわ。安い買い物よ。」
これも偽らざる「女王」の本音。
クラウドの絵には、「女王」を夢中にさせる何かが作品と一緒に塗り込まれているようだ。美的センスとでも言うものなのだろうか。感覚的波長がクラウドの絵から放たれ、「女王」の感性と共鳴し、ついつい「女王」を本気にさせ、本音を吐き出させてしまう何かがあるようだ。
午後十二時五十五分。
ノックの音。
ドアが開き、まず最初に田中の姿が現れ、すぐ、後ろから江口が顔が見えた。
江口の顔が見えた途端、遠藤に嫌悪感が蘇る。
クラウドの絵よりも、遠藤にとっては江口の方が、何十倍も気持ちが悪い。
一一週間前、一度、会っただけなのに慣れない。
だから、一週間ぶりに見ても、慣れなるワケがない。
手にはこの前のカバンがあった。
どうやら、絵の交渉はうまくいったのだろう。遠藤はそう確信した。
「いやー、いつ来ても爽快ですねー。」
入って来るなり、江口は能天気な声で勝手に話し出した。
「女王」の」城で、この城の主の許可なく話し出すとは、どこまでも無礼な男。
一週間前の憎悪が、徐々に遠藤の中で目を覚ます。
しかし、そんな顔を見せては、「女王」の秘書としては失格なので、努めて冷静な顔で対応しようと心掛けるが、江口のお喋りは止まらない。
「社長と景色。これは合いますねー。」
親指と人差し指をL字型にして枠を作り、あろうことか「女王」を景色の一部にしてしまった。
景色と「女王」を同化させるなどあってはならない行為。
それを江口は平然とやってのけ、しかも挨拶をすることもなく、いきなりしてきた。これで絵の交渉がうまくいかなかったなんてことになれば、ただでは済まない。済ませない。いや、済むワケがない。
遠藤は、ますます江口のことが嫌いになった。
それでも努めて笑顔で
「江口様。どうぞお座りになって下さい。」と、前回と同じ場所に江口を促す。
「あっ、スイマセン。いやー、今日も社長はお美しいですな。この前、お会いした時よりもお若くなってませんか?」
「そう。ありがとう。」
少し、微笑みながら、「女王」が返す。
「いや、いや。これはお世辞じゃありませんよ。本心です。えー、私の偽らざる本心ですよ。」
そう言いながら、江口はソファーに座る。
この無意味な、無神経な会話に「女王」が巻き込まれていると思うと、遠藤は不愉快極まりない気分になり、江口のニヤついた横面を引っぱたいたやりたかった。
しかし、遠藤は努めて穏やかな顔で対応する。
「ただいま、お茶をお持ち致しますので。」
そういうと遠藤は田中に目配せをする。
それを理解した田中は阿吽の呼吸で、江口に一礼をしてから、お茶を汲みに秘書室へと帰って行った。
「お茶と言えば社長。ここのお茶は実に美味しいですね~。こんな美味しいお茶、私、生まれて初めて飲みましたよ。」
「そう。」
「ホントに美味しいんですよ。お世辞じゃありませんよ。ホントに。遠藤さん。あのお茶はいいお茶なんでしょ?」
「えっ?…えぇ…。はい。」
この無意味で無神経な会話に、江口は遠藤を巻き込んだ。
「やっぱり!そうじゃないかなって思ったんですよ。」
得意満面な顔で江口は遠藤を見ているが、「女王」には、さっぱりわからなかった。
ナゼ、今、お茶の話をしているのか?
いつから、お茶の話になったのか?
「女王」には、さっぱりわからない。
話の意図がわからない。
そんなことよりも、絵が欲しくて堪らなかった。あの鮮烈な色彩をもう一度、見たくて堪らなかった。
拷問に耐えた一週間。
クラウドの絵はすぐ目の前。手を伸ばせば届く距離だというのに、肝心な話がまったく前に進んでない。
しかし、遠藤と話をしているということは、このお茶の話は、きっと重要な話なのだろう。ここで二人の会話に割って入り、絵の話をするのは、ヒドク無粋で、卑しく思われると考えた「女王」は、とりあえず、焦っていないところを見せるため、静かに微笑んで、江口の不毛な話を聞いていた。
「このお茶は、その辺の代物はじゃありませんよ。ピンと来ましてね私。こういうのは鼻が効くんですよ。味なのに鼻が効くってのも変な話ですけどね。アハハハ。」
“何故、「女王」は黙って江口の話しを聞いているのか?”
遠藤には、さっぱりわからなかった。
何故、今、お茶の話で盛り上がっているのか?
いつまで、お茶の話を続ける気なのか?
遠藤には、さっぱりわからない。
「女王」の意図がわからない。
そんなことよりも、そのカバンの中に入っている絵のことを話すべきじゃないのか?
一週間も待ったというのに、どうして「女王」は何も言わないのか?手の伸ばせば届くところにあるというのに、何故、お茶の話をしているのか? それとも、絵に興味がなくなってしまったのだろうか?
とにかく、わからない。わからないけど、「女王」が楽しそうに聞いているのだから、きっと、重要な話なのだろう。
とりあえず、タイミングのいいところで本題に入ろうと考え、江口の不毛な話を遠藤は黙って聞いていた。
秘書室のドアが開き、田中がお茶を運んで来た。
どこかで見た光景。二人の視線が田中に向く。
その瞬間、すかさず遠藤が話し出す。
「江口様。絵の方は。」
「…?。 あー、そうでした。そうでした。すっかり忘れてました。」
田中が、「女王」と江口の間にお茶を置く。
「それでは、この絵は社長にお譲りします。」
江口はカバンの中から無造作に絵を取り出すと、一週間ぶりにあの独特の色合いの絵が現れ、「女王」と目が合う。
「女王」の躰の中の血が沸騰する。
震えるほどの官能が、「女王」の躰を駆け巡る。
何度見ても、何度触れても、新鮮な刺激をもたらしてくれる最高の絵。それが、ようやく、本来あるべき、所有者の元へと辿り着いた。
「女王」が手を差し出したその時、江口の手が止まると、それに釣られるように「女王」の動きも止まった。
動きが止まった「女王」をジッと見つめる江口。
そのジッと見つめている江口をジッと見つめる「女王」。
そんな二人をジッと見つめる遠藤。
そんな三人に気付くことなく、田中は秘書室へと戻って行った。
「その前に、お金、いいですか?」
ニコリと微笑み、江口は、お金を要求して来た。
遠藤は頭の血が沸騰する。
震えるほどの憎悪が遠藤の体を駆け巡る。
無礼千万! 礼儀を欠くにもほどがある!
目の前にいらっしゃる御方を一体、誰だと思っているのか!
どこの馬の骨ともわからない人間に、わざわざ「女王」が貴重な時間を割いてまで会ってやっているというのに、この男。図に乗るな!
と、言いたいところだが、遠藤は努めて上品に
「私としたことが気づきませんで、申し訳御座いません。」
「こちらこそ、催促したみたいでスイマセン。」
「女王」の頭の上で、白々しい会話が繰り広げられる。
頭の上でどんな会話が繰り広げられようと、「女王」には最早どうでもよかった。
ここまで来て、待たされていることに身悶えしていた。
もう、絵は見えている。見えているだけに身悶える苦痛が、さらに激しくなる。
しかし、それを見せては「女王」の負け。
負けていないところを江口と遠藤に見せるため、「女王」は、遠藤の到着を静かに待った。
到着と言っても、左奥にある金庫に現金が置いてあるだけなのだが、その距離さえ、その時間さえ「女王」は待てないでいた。
苦痛が増す。
金庫を開け、中から紫のサテンの生地が掛かったトレイを出し、遠藤が静々とやって来た。
「こちらをお納め下さい。」
そう言って、サテンを取ると四つの札束が姿を現した。
四つの札束に驚くこともなく、江口は話し出す。
「どうしてもアイツが、クラウドが証拠を見せろって言って聞かないんですよ。これだから困っちゃいますよねー、芸術家は。常識が通じない。えー、ホント困ります。」
取引が成立したというのに、江口は一向に絵を「女王」に渡そうとしない。
「女王」も遠藤も気付いてはいるが、“渡せ”とは言えない。黙って江口のどうでもいい話を聞くしかなかった。
いつまで続くのか?この無駄な時間。
「ということで、一枚、写真撮ってアイツに送りたいんですけどいいですか?証拠写真。」
「女王」は、焦りをグッと飲み込み、余裕の顔して頷く。
「スイマセン。すぐ終わりますから…。絵も一緒に入れたいので…。あっ、社長。絵、持ってくれます。」
遠藤はヒョイと簡単に絵を「女王」に渡した。
信じられないことに「女王」を立て代わりにしようとして、渡したのだ。
あり得ない。天下の「女王」が、クラウドのために脇役になるなんて。
400万もの大金を出したのは「女王」だ。なぜ、大金を出した方が無名の画家より下の扱いを受けなければいけないのか。
「わた、わたしが持ちます!」
とっさに遠藤が割って入る。
「そうですか。じゃあ、お願いします。」
遠藤に絵を渡し、400万のトレイを前に置き、スマホでベストショットを探しているようで、右に動いたり、上に微調整したりと世話しなく動く。
「女王」より先に秘書の遠藤が絵を持っている。
絵を買ったのは「女王」で、絵を高く評価しているのも「女王」だ。なのにどうして遠藤が持っているのか?この絵が苦手だと言っていた遠藤が、ナゼ持っているのか?
まったく理解できていないが、とりあえず、この二人のやり取りを「女王」は静観するしかなかった。
「女王」の城で、城の主の「女王」が、
遠藤もそれには気付いている。
気付いてはいるが、どうにもならない。この男のペースを崩すのは難しい。
「それでは、いきますよー。ハイ、チーズ、と。」
この男だけ、状況がわかっていない。
「そのうちアイツから返事が来ると思うので、あっ、社長。絵をどうぞ。」
あっさりだ。
スマホを操作しながら、あっさり渡した。
遠藤は江口のことが、いよいよ嫌いになって行く。
しかし、そんなことは、今の「女王」には関係ない。やっと手に入った。やっとプールが満杯になった。そのことで「女王」の頭は一杯だった。
プレゼントを貰った子供のように、クラウドの絵をマジマジと穴が開くほど「女王」は眺めている。
「それでは、こちらは頂きますね。社長。」
トレイに置いてある400万を持って来たカバンにしまうが、そんなこと「女王」が聞いているわけもなく、絵に夢中。
「アイツはね。根はいいヤツなんですよ。社長。」
「…そうね。」
「アイツと社長、気が合うと思うんですよ。きっと。」
「…そう。」
「女王」に話しかけてはいるが、江口も「女王」を気にしてるわけでもなく、噛み合ってそうで、噛み合ってない会話が、二人の間を虚しく通り過ぎ、後ろにいる遠藤にダラダラと流れて来る。
遠藤は、400万の商談が決まったとは思えないほど、生ぬるいこの空間を元に戻すべく、軌道修正を測る。
「それでは江口様。こちらの契約書にサインを頂けますでしょうか?」
遠藤が契約書とペンを江口に差し出す。
「何ですかコレ?」
はじめて見るような顔で、江口は契約書を覗く。
イヤな気がした。
「契約書で御座います。これは《立派》》な商談で御座いますので、双方、あとで間違いがないようにするため、書面をお読み頂いた上で、サインを頂ければ、それで成立となります。」
わかったような、わかっていないような表情で江口は契約書とペンを受け取る。
やっぱり、イヤな気がする。
その予感は的中する。
江口は契約書を受け取ると、内容を読むこともなくサインをしたのだ。
「じゃあ、これで。」
契約書とペンを普通に返して来たが、遠藤は、その契約書を見るのが恐かった。
ちゃんと説明したのにもかかわらず、内容も読まず、サインをする人間の契約書など恐ろしくて見れるわけがない。契約書は現代社会に基礎である。呼吸をすると同じように当たり前のことである。それすら出来てない人間を現代人と言っていいわけがない。
恐る恐る遠藤は契約書を見る。
遠藤の予感がまたも的中する。
サインの欄に“江口”と書いてあるだけで、名前すら書いてない。
名前どころか、住所も連絡先も何も書いていない。
これを契約書と呼ぶには、あまりにもホラーだ。
「あのー、江口様。これでは契約が成立できません。」
「え?」
わかっていないのが、またホラーだった。
「お名前やご住所、連絡先も書いて頂かないと。」
「そんなのいいですよ。水くさい。私と社長の仲ですよ。」
話しを聞いていたのか?
遠藤は遠慮しているわけでも、気を使っているわけでもない。はっきりと“契約が成立できない”と告げたのだ。それがどうして、江口の耳に入ると、そうなってしまうのか。
基本的会話すら困難な状態が続く。
振り返ってみれば、江口とは、ずっと話しができていない。出会った時からずっとだ。「女王」より酷い。どうしたら、この男とまともな会話ができるのか? 動物と意思疎通を取るよりも難しい。
「いや、そうではなくてですね江口様。江口様は良くても、こちらが困ります。」
当然だ。誰でも遠藤にように食い下がる。
「大丈夫ですよね。社長。私たちの間に契約書なんていらないですよね?」
「えっ?…んー、そうね…。」
「女王」はクラウドの絵の中から出て来れず、空返事をするだけだった。
忘れていた。江口ほどではないが、ここにも話しが通じない人間がいたのを遠藤はすっかり忘れていた。
数的不利な状況であることに今、気付く。
「ほら、ねっ。社長もそう言ってますから。心配し過ぎですよ。遠藤さんは。」
たとえ空返事であろうと、「女王」の許可が下りれば、さすがの遠藤もそれより前には進めない。
そんな遠藤をよそに江口は「女王」に話しかける。
「そこで社長。私、いい物、作ってきたんですよ。」
反応があるわけでもなく、かと言って、反応を待っているわけでもなく、またもダラダラと、二人の虚しい会話が遠藤に流れて行く。
江口は、お構いなしに持って来たカバンから黒いファイルを取り出し
「ジャーン!見て下さい社長!クラウドの全作品をカタログにして来ました!」
「えっ⁉ カタログ‼」
さすがの「女王」であっても、クラウドの作品をすべて収めたカタログが目の前にあれば飛びつく。
はしたないところを遠藤に見せてはいけないと必死に我慢して来たことが水の泡になるほどの速さでカタログを受け取った。
江口が持参したカタログは手作りのようで、クラウドの作品が写真になって印刷され、構図や大きさなど、作品の特徴がわかりやすく、見やすい。
素人が作ったにしては随分、立派なカタログだった。
「女王」は、さらに夢中になり、心奪われ、虜になっていく。
カタログのページをめくる度、「女王」の感性が刺激される。乱暴なまでに描かれたグロテスクな表現と下品なほど甘美な色使い。喉の渇きにも似た興奮が、クラウドの絵を欲し、名声と言う潤いを躰、全身で求めている。
カタログだけでは物足りない。実物を直接、見て、触れ、感じ、すべて「女王」の所有物にしなければいけないという欲求が、強い衝動となって溢れ出る。
「女王」は確信する。
やはり、この作品の横に立ち、絵になるのは「女王」しかあり得ないと。
「女王」が頭に描いたことは、必ず実現する。
現実にできないものなど描かない。時間の無駄でしかない。
しかし、実現するとわかれば、いくら時間を使っても構わない。いくら金を使っても構わない。金や時間を惜しまない。
「女王」は手を抜かない。
最後の最後まで「女王」を見せつける。
この絵をモノにするまで終わらない。容赦はしない。もちろん、手加減などする気もない。
それが「女王」。それでこそ「女王」。
クラウドの作品すべてを手にするその時まで、徹底的に喰らい付く。
そして、その準備はもう出来ている。
「どうです社長。いい作品ばかりでしょう。」
そんなことも知らずに江口は「女王」に笑顔を見せる。
「えぇ。ホント、いいわ。」
捕食する蛇のような
近い将来、確実に捕食されるカエルと近い将来、確実に捕食する蛇のほんのひと時の共存共栄。哀しき食物連鎖。
遠藤はまた、取り残された。
また一人、後ろで溺れている。クラウドに夢中で誰も助けてはくれない。
いつも江口のペースに乱される。
“このままではマズい”
そう危機感を持った遠藤は、この江口のペースで進むの阻止しようと
「クラウド様との交渉はいかがでしたか?」
「…交渉?…ですか?」
江口はキョトンとして顔で遠藤を見る。
繰り返される、イヤな予感。
遠藤は割って入った手前、会話を止めるわけには行かず、その先を続けるしかなかった。
「はい。一週間もありましたから、さぞかし、クラウド様を説得するのが大変だったのではないかと思いまして。」
「いえ。三日で説得できました。」
あっさりと江口は答えた。
繰り返される予感的中。
それと同時に遠藤の頭の中にある言葉が浮かぶ。
“それじゃ、あと四日、お前は何してた?” と言う言葉だ。
その言葉を江口のキョトン顔に思いっきり吐き出してやりたかったが、遠藤はそれをグッと飲み込み、努めて理性的に
「それでは、あとの四日間はどうされていたんでしょうか?」と、話しのわかる顔を作り、尋ねた。
「カタログ作ってました。」
またもあっさりと答えた。
江口の顔のどこにも罪悪感が見当たらない。皆無だ。
遠藤は込み上げる怒りを吐き出さないように、またもグッと飲み込み、「カタログですか?」と、二度も話しのわかる顔を作り、尋ねた。
「はい。」
江口は満面の笑顔を遠藤に見せる。
遠藤の込み上げて来る怒りが、今、殺意に変わった。
「いやー、写真って、ホント、奥が深いですよねー。どうやったら社長にアイツの絵の良さを伝えられるか。いやー、苦心しました。」
逆撫でするとは、このことだろう。
産まれた殺意に気付きこともなく、江口は得意げに話す。
「遠藤さん。知ってました。写真って、光が命なんですよ。」
“この男は、さっきから何を話しているのか?”
写真の撮り方や映し方なんてどうでもいい。三日で説得できたのなら、すぐにでも連絡をして来るのが常識だ。そっちは売る側で、こっちは買う側。どう見てみも、立場はこちらが上。わかっているのか? 取引相手は「女王」だ。そこら辺の画廊を相手にしているわけではない。完全に「女王」をバカにしている。
しかし、だからといって怒鳴るわけにもいかない。非常識な男と同じ目線で戦っては「女王」の名前に泥を塗ってしまう。
遠藤は泣く泣く、産まれたばかりの殺意をあやしながら、努めて良識のある大人として対応する。
「そうですか。それでは、こちらのカタログに載っている作品を、いつ頃、お渡し頂けますでしょうか? もし、何でしたら、弊社の方で準備致しますが。」
「…それが…無理…なんですよ…。」
カタログを見ていた「女王」の視線が、グっと、江口に移る。
“…まただ。”
どうして、この男は、すんなりと事が運ぶように努力しないのだろうか? 何故、毎回もったいぶるようなことをするのか?
「女王」の逆鱗に触れれば元も子もなくなってしまうというのに。「女王」に絵を売りたいのか?売りたくないのか?さっぱりわからない。考えていることが、まったくわからない。
そう考えるだけで、「女王」よりも早く、沸々とした怒りのマグマが遠藤の心の底から吹き出しそうになる。
眠った殺意を起こさぬように、遠藤は努めて温和に聞き返す。
「無理というのは、どういうことでしょうか?」
「いやね。アイツが、クラウドが、本当に作品を売ってくれるのか?って不信がっているんですよ。」
江口は失礼この上ない言葉を「女王」の前で平然と撒き散らかした。
“誰に向かって言っている”
江口も「女王」だとわかって話しを持って来たのではないのか?
天下の「女王」と知って、鑑定を頼みに来たのではないのか?
現に今、こうして、400万という大金が動いた。それを今更、不信がっていると言われたところで、こちらの責任ではないし、それを説得するのが代理人としての仕事ではないのか?
いっそのこと、眠っている殺意を叩き起こしてしまおうかとも考えたが、「女王」の手前、そうもいかず、それに「女王」本人も理由がわからず、ただずっと江口を睨んでいるだけで、言葉すら出て来ない。
ここは、状況を判断するため、遠藤だけでも常識をもってあたるしかない。
「不信と言われましても、それは江口様が説得して頂かないと、私共としましても困ります。」
遠藤は、江口に向かって、初めて正論が言えた。
しかし、その正論を手で防ぐように、江口が右の手のひらを遠藤に見せ
「わかります。そのお気持ち。痛いほどわかります。でもね。早とちりしちゃいけません。これには続きがあるんです。」
「続き?」
「えー。私も言ったんですよ。アイツに。誰にもの言ってるんだ!って、社長はスゴイ御方なんだぞーって。それでもアイツが頑として縦に首を振らない。何て言うんですか。芸術家肌っていうんですかね。本当に頑固。こっちも折れる気はないですよ。だけど、ここのままじゃ、埒が明かない。そう思って私、言ってやったんです。アイツに。じゃあ、わかった!三枚だけお譲りして、売ってもらおうじゃないか。その三枚を社長が一週間のうちに売ってくれれば文句はないだろ!って、それが出来たら信用するんだな!って、そしたら、アイツも納得して、ようやく、ホント、ようやく、首を縦に振らせることができたんですよ。」
またも得意満面で、江口は遠藤を見ている。
“この男。バカなのか?”
長々と喋って、言った内容が、全部ではなく、三枚だけ「女王」に預け、しかも、その三枚の絵に勝手な条件を付け、一週間で売れと「女王」に命令しているのだ。
あの泣く子も黙り、黙る子も泣く、あの「女王」に命令をしているのだ。
これをバカと言わずして、何と言えばいいのか。
さすがの遠藤も堪忍袋が破裂して、中から産まれたての殺意が顔を出している。
ここで起こさずして、どこで起こせばいいというのか!
沸々と積りに積もった怒りのマグマを遠藤は勢いよく、江口に向かって、ぶつけようとしたその瞬間、江口が予想もつかない行動に出た。
ソファーからするりと落ち、真っ赤な絨毯に額を擦り付け土下座をしたのだ。
意表を突かれ、遠藤は言葉をなくす。
「お願いです社長!どうか、私の願いを聞いて下さい!」
顔を上げ、「女王」を見る江口のその
その江口らしき男が指を三本立て
「三枚だけでいいんです。三枚だけ売って頂けないでしょうか。売って頂ければ、アイツには金輪際、何も言わせません!本当です!お約束します!私は、社長にすべての作品をお譲りしたいのです。ですから、絵を一週間のうちに売って頂けないでしょうか。そうすれば、アイツを黙らせることができます。社長!どうか、お力をお貸しください!お願いします!」
必死に江口は「女王」に懇願している。
真っ赤な絨毯に埋もれた額を見れば、その本気度がわかる。
それを見て、今度は「女王」が三本の指を立て
「三時間で売って見せるわ。」と言い、江口の切なる願いを聞き入れた。
「ありがとうございます!社長!」
神に祈りが通じた子羊のように、もう一度、真っ赤な絨毯に額を埋もれさせた。
「では、社長。これなんてどうでしょうかね?」
次の瞬間、パッと切り替わり、いつもの江口が現れ、あっという間に「女王」の横に行き、どの作品にするか相談している。
遠藤は完全に溺れた。
気が付けば、二人仲良くカタログを見ている。
何故?
どうして?
これは夢なのか?
十秒前と今の光景があまりにも違い過ぎ酔いそうだ。
同じ現実とは思えなかった。
その時、江口のスマホが鳴る。
スマホを見て江口が、「社長!アイツから返事がありました!喜んでますよ。この調子であと、三枚売れば完璧です!よかったですね!社長!頑張りましょう!」
今日一番の笑顔で、江口は「女王」を励ました。
何故、売る側が買う側を励ましているのか?
何故、「女王」が頑張らなくてはいけないのか?
あの「女王」に、あの男は何を言っているのか?
わからない。何ひとつわからない。何ひとつ理解ができない。
こうして遠藤は、二人の仲睦まじい姿を見ながら、誰にも気づかれることなく、誰にも助けてもらうこともなく、深い海底へと一人静かに溺れ、無事、沈んで行った。
「それでは社長。宜しくお願い致します。」
江口は深々と頭を下げる。
それを見て、「女王」は軽く頷く。
頭を下げた人間と背景の同化は何度見ても美しい。おまけに欲しい絵も手に入り、「女王」の機嫌は、この上なくいい。
それを知ってか知らずか、江口は「女王」を持ち上げる。
「そのカタログ差し上げます。もう、あと僅かで、その絵すべて社長のモノですから。私が持ってても、ただの宝の持ち腐れになってしまいます。こういうのはね、ちゃんと価値のわかる人に持っててもらって、はじめて意味がありますからね。えー、どうぞ。どうぞ。お持ちください。いやー、社長とお似合いですねー。そのカタログ。うん。ピッタシし。」
江口の言葉から胡散臭さが漂い出し、部屋中に広がる。
思い出したくもない記憶。一週間前に嗅いだ臭い。
「それでは私はこれで失礼します。選んで頂いた大切な三枚の絵は明後日までに、こちらに届けます。そして、必ず、一週間以内にご連絡致します。その間に社長。売却の方、宜しくお願い致します。」
改めて江口は、深々と頭を下げる。
再び、「女王」は軽く頷く。
江口がソファーから立ち上がると、「今、下までお見送りさせますので。ちょっとお持ちください。田中さーん。江口様がお帰りになります。」
奥にある秘書室に向かって遠藤は田中を呼ぶ。
一週間前と同じく、江口は遠藤に右の手のひらを見せ
「お見送りは結構です。」と断るが、遠藤が食い下がる。
「そうはいきません。先週もできなかったのですから今回は。」
秘書室から出て来た田中に。
「江口様をお見送りして。」
「畏まりました。」
下まで先導しようとする田中に遠藤と同じく、江口は右の手のひらを見せ
「いや、本当にここで結構です。帰れますから。」
「そうですか。そこまで江口様が仰るのなら。」
食い下がる遠藤が、今度は急に引き下がった。
「すいません。気を使わせてしまって。」
「とんでもない。いつも、お気遣い有難うございます。遠藤さん。」
「いえいえ。こちらこそ、ありがとうございます。江口様。」
再び、白々しい会話が「女王」の背中で繰り広げられていたが、カタログの世界から出て来れない「女王」には、関係のない話。
「いやー、それにしても一週間後が楽しみですな。これは忙しくなりますよ社長!私、張り切って頑張りますから。あっ、社長もお肌大切にして下さいね。忙しくなるとお肌に出るっていいますから。キレイなお肌が台無しになったら私、遠藤さんに殺されちゃいますから。」
本当は、今すぐにでも殺したい。
何度殺しても、殺し足りないほど殺したい。
「私は、これで失礼致します。それでは皆さん!さようなら!」
今回も胡散臭い激臭だけが「女王」の城に残った。
遠藤は江口の残り香に殺意を感じている暇もなく、田中に目線を向けると、田中は小さく頷き、大急ぎで秘書室に戻り、パソコンからメールを送る。
遠藤の逆襲が始まろうとしていた。
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