第15話 遠藤の消息
遠藤 海外視察 三日目
午後三時十六分
「女王」は暇を持て余していた。
田中一人でも、十分にこなせるだけの仕事量しか遠藤は入れておらず、そのため、いつもよりも時間が空く。
時間に厳しい遠藤が不在ということは、自由になれる時間があると思っていた「女王」だったが、こんなに時間が空くとは思っておらず、時間があまり過ぎて、何もすることがなく、ただボーっと、貴婦人の机から海のように広がる空を眺めるしか時間の使い道がなかった。
生ぬるく、ゆっくりとした時間の中で、貴婦人の机の上のインターホンが鳴る。
無気力な「女王」の右手が、インターホンのボタンを押すと、田中の声が聞こえてきた。
「社長。今、よろしいですか?」
「いいわよ。」
インターホンを見ることも、遠藤の声に耳を傾けることもなく、「女王」はどこまでも続く、大海原を見ながら、どうでもいいような口ぶりで返事をする。
「では、そちらに向かいます。」
すぐに秘書室のドアが開き、田中が現れた。
もちろん「女王」が振り向くことなどない。暇すぎて、椅子を九十度変えるのも面倒だ。
そんな真夏のアイスクリームのように溶けた「女王」に田中は近づき、貴婦人の机の前で止まる。
田中の顔は深刻なほど曇っていた。
「社長。室長と連絡が取れません。」
その声は顔以上に曇り、重たい。
「そう。」
きれいな青空を眺めながら「女王」は答えた。
「ホテルに電話してもつながりません。居るとは思うのですが…。」
田中の表情は、今にでも泣き出しそう雨雲のように暗く、不安気だった。
「そのうち、連絡があるでしょ。」
隣で、遠藤が雨雲のような表情をしていても、「女王」には見えていない。隣り街で雨が降っても気にする者がいないのと同じように、田中の心配は「女王」にとって、大した話でもなく、遠藤のことを気にすることもなかった。
「でも…もしかしたら、何か、あったのでは…。」
田中の不安は誰もが思うこと。急に連絡が取れなくなれば、誰だって、そう思う。最悪の事態を考え、不測の事態のために準備をしようとするだろう。
田中の言っていることは何も間違ってはいない。ごく自然な当たり前の行動なのだが、「女王」の前に立つと、それは違った話になる。
「大丈夫よ。子供じゃないんだから。何かあれば、あっちから連絡して来るでしょ。」
長閑な時間が流れる。
「女王」の眺めている空のように雄大で、おおらかな時間が城の中にも流れて込んで来る。
何だか、田中が一人、大騒ぎして、ヒステリックになっているような雰囲気だ。
「きっと、久しぶりの旅行だから、羽根を伸ばして、観光でもしているんでしょ。」
遠藤は旅行で不在なのではなく、視察で不在なのだが、「女王」にしてみれば、どちらも似たようなもの。遠藤がいないということでは一緒。差はない。
「えぇ。確かに、視察だけですから、誰かに会って商談をして来るわけではないですけれど…。連絡が取れないのは、やはり…。」
それでも田中は、やんわりと遠回しに話しをするが、田中の顔を一度も見ることもなく、「女王」はボーっと空を眺めながら、無気力な右手をユラユラと軽く揺らし
「大丈夫よ。気にし過ぎ。」と取り付く島もない。
田中もしつこく聞けない。これ以上、しつこく聞いて、「女王」のご機嫌をナナメにしてはマズイ。とにかく、数日様子をみることにして、この問題を一旦、鞘に納めることにした。
「それと社長。打ち合わせ通り、明日、記者会見の発表を行います。」
「明日!」
突然、「女王」は勢いよく、イスを九十度回し、田中の顔を見て言った。
田中は面を喰らう。
一秒前まで、魂の抜けた態度をしていた「女王」が、記者会見の話になった途端、急に
「えぇ。はい。明日です。数日前にそう、お伝えしましたが…。」
「会場はどこ? いつ?」
数日前の話など覚えているわけもなく、段取りを把握してるわけもなく、ただ待ちきれない「女王」の思いが、体全身にぶつかり、田中はたじろぐ。
「も、もう少し、お持ちください。出版社も会場も近日中に、ご報告できますので。」
「…そう。」
田中のその言葉を聞いて、またもや「女王」の
「順序は逆になってしまいますが、今は早めに告知をして、マスコミの気をこちらに向けておく必要があります。今も取材の依頼が、引っ切り無しに掛かって来ていますので、鉄は熱いうちに打った方がいいかと思います。」
おそらく、この話は、数日前の打ち合わせの時に出ている話。きっと、数日後も田中は同じ話をするだろう。
「引っ切り無し掛かって来るのなら、今から取材を受ければいいじゃない?」
「女王」の
しかし、それも田中にしては厄介なこと。田中が仕事をこなせる量は決まっている。その上、「女王」にこれ以上、勝手なことをされたら、それこそ手に負えなくなり、キャパを超える。
無気力でも厄介。活力がみなぎっても厄介。田中は拗ねないように、「女王」を説得する。
「そうしたいのは山々なのですが…。やはり、記者会見のインパクトを考えますと、今、取材を受けない方が、いいと思うのですが…。」
田中は、「女王」の悦な自尊心をくすぐるように
「そうですよ。その方がいいですよ。取材は後からすればいいんですから。今は記者会見に専念するべきだと思います。」
田中は「女王」の機嫌を曇らせないため、果てしなく続く、この空のように、努めて明るく話し、太陽のように「女王」を持ち上げた。
田中は遠藤の偉大さを知る。
遠藤 海外視察 四日目
「やっぱり、大使館に電話した方がいいと思います。」
田中は左の助手席から体を半分ひねり、後部座席に座る「女王」に懇願する。
「心配ないでしょ。」
「女王」は外の流れる景色を見つめながら、ポツリと呟く。
「ですが…。」
今日の空はあいにくの鉛色。この街を覆うように厚い雲が蓋をする。蓋をされた街は、どこか息苦しくて、寂しい。
それはまるで、田中の気持ちを現わしているようだった。
浮かない顔をした街並みが車窓の中を右から左へと流れて行き、それを「女王」は、ただ無機質に眺めている。
それでも田中は言わなくてはいけないと思い、タイミングを見計らい「女王」に話しをするのだが、「女王」は素っ気なく返すばかり。
「連絡があったの?」
「はい?」
「連絡。大使館や警察から。」
あっという間に流れ、消えて行く景色を「女王」は無表情のまま静かに見つめ、田中に聞き返した。
「…ありません。」
その返事の意味するところは、遠藤は無事ということである。それを言われると田中も返す言葉がない。「女王」の方が冷静に状況を判断し、考えている。
それに付き合ってきた時間の深さが違う。
「女王」と遠藤は二十年近く共に闘い、生き抜いてきた言わば戦友。昨日今日の間柄ではなく、半年、遠藤の側にいただけの昨日今日の田中では太刀打ちできない強さがあった。
「それなら問題ないでしょ。」
その一言で、この話しは終わった。
四日も連絡が取れなくなり、消息が不明になれば、田中の行動は至って普通の常識的な行動なのだが、どうも「女王」の躰を通り抜けると別なモノに変異する。四日も消息不明の話が、特段大した出来事でないような話になり、田中が遠藤を過保護に心配しているような構図になる。
遠藤に全幅の信頼を置いているのか? それとも無関心なだけなのか?
昨日今日の間柄の視線では、判断が難しい。
「…はい。わかりました…。」
それしか、今日は言えなかった。
落胆しながら前を向いた田中は、急いでまた「女王」の方に体をひねり
「あっ、記者会見の発表、マスコミに流しておきました。」
「どうだった?」
はじめて「女王」は、田中の方を向いて話しをする。
「スゴイ反応です。皆さん、この時を待っていたようです。」
「そう。」
「女王」は確かな手応えを感じた。
クラウドブームはまだまだ続く。話題がひと段落つき始めると、また新たな話題が投下され、激しいうねりが生まれる。そして、それが、さらに大きな渦となり、人々を情け容赦なく一気に飲み込み、熱を放ち続ける。そうなれば、否が応でも「女王」に注目が行く。「女王」のすべての言動が気になる。
この手応えは本物。世界で一人だけ噛みしめることが出来る実感。「女王」の笑いが止まらない。
「わかった。あとは会場ね。早めに、お願い。」
冷静な顔をして、田中に指示するが、口元は微かに緩んでいた。
「畏まりました。只今、選定に入っておりますので、もう少し、お待ちください。」
「女王」が小さく頷くのを見て、田中は前を向くが、また体をひねり、「あっ、画集を出してくれるて出版社、決まりました。」と、一番大事な話を思い出し、「女王」に告げる。
「どこ?」
「明治出版です。」
「…あー、あそこね。」
「芸術関係の出版では老舗ですし、以前から何かとお世話になっている会社ですので、すぐにOKが出ました。」
「そう、わかったわ。それで話しを進めて。」
そういうと「女王」は再び、鬱々とした街並みに目を向けた。
「畏まりました。」
時間の経過と共に勢いよく、移ろい流れて行く景色。遠藤を置いたまま、すべてが先に進もうとしている。
この流れて行く景色を止める手立てがないように、「女王」の気持ちを変える手立てを、田中は持っていなかった。
遠藤の焦りだけが、遥か後方へと流れ去って行く。
遠藤 海外視察 五日目
未だに遠藤と連絡が取れず、消息不明。しかし、田中は心配するような素振りを「女王」の前では控えていた。
何度、「女王」に遠藤の心配を言ったところで、返ってくる言葉は同じ。堂々巡りだ。
どんなに田中が遠藤のことを思い、「女王」を説得しても、結局、最後は田中の過剰反応で片づけられてしまう。何だか、田中の心配事が絵空事のように虚しく映り、「女王」の心の芯には届かない。まったくと言っていいほど届いていない。
正論を言っている田中の方が、罪悪感を覚えてしまうほど、「女王」の対応は冷淡だ。
そのことが、ここ数日で、田中にも、ようやく理解できた。
五日も消息を絶った人間を心配することが、「女王」の前では憚れるという非常識なことが、「女王」の世界では常識だということを、田中は身に染みて覚えた。
だが、現に遠藤が事件や事故に巻き込まれたという連絡がないのも事実。
「女王」の言っていることも、決して、間違いではない。
何も起こっていないのだから心配するのもおかしいことだし、騒いだところで、どうにかなるものでもない。田中の取り越し苦労と言ってしまえば、それまでの話。
でも、どうしても、田中には「女王」の対応が冷たく感じてしまう。
「女王」と遠藤の間には、誰にもわからない強い信頼関係があり、半年やそこらの新人秘書には見えない何かがあるのかもしれない。
二十年付き合って来た二人だけにしか見えない透明な信頼関係が存在していることは確かだ。しかし、それが不透明過ぎて、田中にはまったく見えない。
落ち着いている「女王」を見れば見るほど、不安な気持ちが掻き立てられ、言わずにはいられない衝動が言葉となって、田中の口から零れ落ちそうになる。
しかし、今はグッと飲み込み、耐えている。
遠藤の身の上に何も起こらないことを祈りながら、田中は業務を淡々とこなす。
喜ぶべきか。今日も遠藤が事件・事故に巻き込まれたという連絡はない。
遠藤 海外視察 六日目
世間では「女王」の記者会見の話題で持ち切りだ。記者会見に来るマスコミも八十社を超えた。
そして、さらに憶測が憶測を呼び、今では “クラウド本人が登場するのではないか?”という根も葉もない噂話まで、尾ひれ背びれをつけ、世の中を優雅に泳いでいる。
それは海外でも同じ。海外からの取材も引っ切り無しにあり、記者会見に参加させてほしいという依頼もあった。
なのに遠藤からは連絡が来ない。
なぜ、遠藤は連絡して来ないのか?
こんな大事件が「女王」の周りで起これば、すぐに飛んで来るはずなのに一体、どこで何をしているのか? それは誰にもわからない。しかし、ひとつだけわかっていることがある。
今日も遠藤が事件・事故に巻き込まれたという連絡がないということ。それは、すなわち、遠藤が無事であるということ。
そして、未だ消息が不明であるということ。
遠藤 海外視察 七日目
「女王」は会議室で、定例の幹部会議を開いていた。
上座の「女王」が囲むように、その両側に幹部クラスがズラリと並ぶ。一番奥に座る幹部の顔は「女王」の上座からは良く見えない。田中も会う機会がなく、面識のない幹部も数名いる。仮にこの幹部の中に部外者が数人、紛れ込んでいても、田中には見分けがつかない。もちろん、「女王」もわからないだろう。
田中は心細かった。
こんな大きな会議に、一年も満たない秘書が立ち会うことはなく、これはれっきとした遠藤の仕事。
しかし、遠藤は海外視察に行く前に、すでに手を打っておいてくれた。今日の会議に田中が出席しても、困ることがないようにと、すべてお膳立てしてくれていたので、田中はただジッと座っているだけでよかったのだが、やっぱり、どうしても緊張してしまう。
田中は緊張すればするほど、遠藤の存在の大きさを痛感する。
長い会議が、ようやく終わる。
会議が終わると、幹部たちは、「女王」に一礼したあと、三々五々、出口へと向かって歩き出す。
排水溝に勢いよく流れて行く水のように、幹部たちが出口に集まり、そして、廊下へと流れ、消えて行く。
今しがたまで、緊張の糸が張りつめ、厳粛で、重々しい雰囲気が支配していた会議室。
そこにいた幹部たちがいなくなると同時に、会議室には牧歌的な空気が生まれ、祭りの後のような静寂さが、会議室全体を包む込む。
田中にとっては何もかもが目新しく、新鮮な経験だった。
その中、ポツンと「女王」だけが残り、会議で使った資料に目を通している。その何気ない横顔、見とれてしまうほど美しい。
田中は何も言わず、ただ黙って、「女王」の横に立ち、資料から目を離すのを待っていた。
「まだ、心配しているの?」
資料からチラリと「女王」は目を離し、田中を見る。
「あっ…、その…。」
田中は顔に出すまいと必死で平然さを装い、上手く騙せていると思っていたのだが、「女王」にさえバレるほど、心配な顔をしていたらしく、不意を突かれた田中は返す言葉もなく、激しく、動揺する。
その動揺する姿を見て、田中を可愛く思い、思わず「女王」の顔から笑みが零れる。
「何も心配しなくて大丈夫よ。」
「女王」はスクッと立ち上がり、窓へと向かう。
いつもよりビル群が近くに見えた。
「遠藤が裏切ったと思っているの?」
「いいえ。そんなこと思ってはいません。」
「女王」の質問を掻き消すように、田中が答える。
「ただ…行方がわからないのが、心配なだけで…。」
遠藤を心配する田中の気持ちが、か細い声となって現れた。
ガラス窓に映る田中の表情を見て、「女王」はクスリと笑い
「大丈夫。彼女に何かあれば連絡が来るから。だから、私はまったく心配してないの。彼女を信じているから。あなたは、どうなの?」
ガラス越しの田中に「女王」は語り掛けた。
「私も、室長を信じています!」
田中は強い言葉で答える。
「なら、この話はこれでお終い。いい?」
田中は少し、戸惑いを見せたが、「わかりました。もう、この話は致しません。」
田中の
「そうですよね。室長の心配より、今は、あの記者の対応をどうするかですよね。室長が帰って来るまでに、何とかしないと。報告できませんから。」
「そうね。」
田中は少しだけ、成長したようだ。
いつまでも遠藤に頼っていては、立派な秘書にはなれない。ましてや、あの「女王」の秘書となれば、それなりの経験と覚悟がなければ務まらない。
今回はかなり特殊なケースではあるが、ここを乗り切れることができれば、田中の秘書としての経験も格段に上がり、一人前の秘書として、周りからも認識されるだろう。
それは遠藤も喜ぶことだし、「女王」も喜ぶ。
「女王」と田中は気が合う。
「女王」としても、遠藤と比べれば、田中と組んでいる方が、何かと刺激を受ける。
そして、何より田中は「女王」に従順だ。遠藤のように口やかましく反論することがなく、その上、盲目的に「女王」に付き従う。
「女王」が、田中を一番気に入っている理由だ。
「数日中に会場を必ず、押さえます!」
田中の
数分前の人間とは思えないほど、立派に映る。それはガラス越しに見ていた「女王」でもわかった。
「女王」はクルリと向きを変え、田中の方を見て、「お願いね。期待してるから。」と、ニコッと笑い、田中にエールを送る。
「はい!」
田中は、「女王」に認められたような嬉しを感じ、「女王」よりも大きい笑顔を見せ、力強く返事をする。
新人秘書を半人前の秘書に育てるのも、「女王」の務め。
盲目的な
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