第27話 誓い

 「ありがとう。凄く、幸せだった」



 「こちらこそ、めちゃくちゃ楽しかったよ」



 描いてもらった楽譜を仕舞って、鞄を手に持つ。椅子から立ち上がり握手を求めると、撫子はそれに応じてくれた。



 「そういえば、曲のタイトルは決まってるの?」



 何も考えていなかった。しかし、確かに曲のタイトルは必要だ。何にだって名前はある。俺にだってあるくらいなんだから、こいつには名前を付けてやらなければなるまい。鼻の頭を人差し指で掻く。しかし、俺にはそう言ったセンスが皆無であるらしく、何一ついいアイディアが浮かばなかった。



 腕を組んで唸っていると、撫子がおもむろに口を開いた。



 「えっと、『再生と調和のメロディ』とかどうかな?楓君の名前の花言葉をもじったの」



 「……いいな、最高だ!」



 再生と調和のメロディ。この曲に、こんなにピッタリとハマるタイトルは他にない。そう確信出来る。まるで、これまでの真っ黒の二十年と、それよりも長かったこの二ヶ月を表しているようだ。



 「気に入ってくれてよかった。ちょっと、恥ずかしかったから」



 「ありがとうな。それにしても、よく楓の花言葉なんて知ってたな」



 訊くと、撫子は「えっと」と言って目線を逸らす。



 「私も花の名前だから。花言葉は色々と調べてるの」



 声色がいつもよりも弱々しくて、何かを隠しているように聞こえた。



 「へえ、流石先生。物知りだな」



 一息ついて、グラスに残っていたお茶を飲み干す。返事のないのを不思議に思って彼女を見ると、どういう訳か唇を噛んで下を向いていた。



 カラン、と氷が鳴った。



 「……それじゃあ、俺行くよ」



 やはり、返事はなかった。手を振って、リュックを手に持ち玄関へ向かう。灯りを付けて玄関で靴紐を結ぶ。そして、扉を開けようとドアノブに手を掛けると、早い足音の後にぶつかる感触が背中にあった。後ろから伸びる腕は俺の腰を回っていて、しかし手は結べずに服を掴んでいた。



 動かないでと、そんな気持ちが伝わってくる。背中を叩く撫子の心臓の鼓動は、今にも破裂しそうな程に激しい。



 「夏休みに入ったら、もう会えなくなっちゃうね」



 「そうは言ってもよ、秋になればまた……」



 「ウソつき」



 額を当てて、何度か背中を小突かれる。



 「ウソだよ、そんなの。楓君はさ、きっと近い未来にこの街からいなくなっちゃうんだよね」



 「どうしてそう思う?」



 聞きながら、リュックを持つ手に力を込める。強く握って、決意を離さない様に。



 「顔を見れば分かるよ。だって、私は先生だもん。それに、あなたは一つの場所に留まっているような人じゃない」



 何もかもお見通しのようだ。もう少し、ポーカーフェイスを練習しておくんだったな。



 「……本当はね、楓君にノートを見せてもらった時、どんな曲かは大体分かってたんだ。だから、タイトルだって今思いついた訳じゃないの。自分でも弾いてみたりしたんだよ」



 「そうだったのか。あまりにも滑らかに楽譜を書いたモンだから、天才なのかと思ったよ」



 言いながら、撫子の演奏を聞いていない事を思い出していた。きっと、俺が弾くのとは違う良さがあるんだろうな。



 「ごめんね。こんなの、凄く気持ち悪いよね。でも、あなたの曲だから、どうしても気になっちゃったの」



 「気持ち悪くなんかねえって、気にすんなよ」



 腕に更に力が加わる。細い体は、体重以上に重たい気がした。



 「今までの人生で、何度も後悔して来たの。だから、楓君にだけは気持ちを伝えておきたかったの。……ごめんね」



 「何を謝る事があるんだ。嬉しいよ」



 しかし、気持ちに応えられない事を謝らない。謝れば、いなくなる事が罪になってしまう。そして、その罪はあがなう事は出来ない。絶対に。



 「きっと、楓君は自分で気づいていないだけで、あなたの事を好きな人はいっぱいいるんだと思う。それでね、私どうしてみんなそうなるのか、少しだけ分かるんだ」



 静かに、横に首を振る。



 「楓君は、誰のものでもなくて、絶対に手に入らないから凄くかっこいいの。でも、もしかしたら、二人きりなら私の事を見てくれるんじゃないかって、今日はそんな事をちょっとだけ期待しちゃった。……バカだよね、本当に」



 「そんな事ねえよ」



 撫子は、背中に顔を埋めたままそれを否定した。服を掴む手は震えていたが、やがてピタリと止まった。



 「……好きなの。大好きなの」



 二人で酒を飲んだ夜、寂しげな撫子に愛の告白でもすればいいのかと考えた。今ようやくわかったその答えは、否だ。そうしてしまえば、彼女はこの瞬間に囚われてしまうかもしれないから。



 何も言わないことに答えを見出したのか、撫子は手を緩めた。



 「最後にさ、一つだけお願い聞いてくれる?」



 「何でも」



 深いため息。いつの間にか、鼓動は落ち着いている。まるで、覚悟を決めたかのように。



 「短い恋だから、きっとすぐに忘れられると思うから。だから、失恋にしないで」



 その言葉の後、抱擁は解かれた。振り返ると、俺を見上げて小指をだけを向けている。



 「あぁ、誓うよ」



 差し出された小指に、自分の小指を絡ませる。優しく握って離すと、撫子の顔を目に焼き付けた。何度だって思い出せるように。この誓いを、忘れない様に。



 振り返り、扉を開けて外へ出る。西日が、俺を突き刺すように降り注ぐ。大きな雲が、ふわりと漂っている。鼻の奥がツンとするのは、きっと夏の匂いを嗅いだからだ。



 俺がこの匂いを、知らなかったからだ。



 ……。



 奏が夏休みに入り、学校に行くこともなくなって二週間。明日、俺はボストンへ旅立つ。荷物はここに来た頃よりも少しだけ増えたが、そうは言っても歯ブラシと何着かの服だけだ。相変わらず、全てボストンバッグに収まってしまう。一週間程度なら、他に買い足す物もないだろう。



 最近の奏の態度は、なんだかよそよそしい。トランシーバーのブザーは回数を減らし、いつも入り浸っていたこのピアノ室にもあまり顔を出さなくなっていた。しかし、その割にはドライブを好み、何の曲も聞かずに黙っている事が多くなった。きっと、彼女は持っていた違和感の正体を掴んだのだろう。



 「お兄ちゃん、僕も曲を書いたよ」



 同じソファに座る湊は、俺が描いたガクフモドキの次のページにト音記号と音符を書いて遊んでいる。楽しそうに説明しながら、黒く塗りつぶした丸に線を書き足してその度に俺を見る。このバラバラの音符を紡いでいけば、湊の人生が浮かび上がってくるんだろうな。



 「いい曲だ。将来は作曲家か?」



 「ううん、僕はギャングになる」



 やめとけ、マジで。



 とは言え、今はその意味も分かっていないだろうから特に否定せずにしておく。湊には話していないから、大方最近見たアニメのキャラクターにそんな奴が居たんだろう。正直、少しヒヤッとしたけどな。



 一体何に感化されたのかが気になって理由を訊いていると、ノックの後に扉が開かれて車椅子に乗った奏が入って来た。時刻は夜の9時、湊は眠る時間だ。気が付いておやすみを告げると、「また明日」と言って自分の部屋に戻って行く。もしかすると、気を使ってくれたのかもしれない。



 湊が出て行った後、何も言わずに車椅子を押してガレージへ。車に乗って外へ出ると、行く先も決めずに走り出した。今日も、音楽は無い。

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