第22話 大切なもの
願いを込めてつらつらと話すうち、演の興味は誘い方から家での奏の在り方に移っていった。流石に女のプライベートをベラベラと明かすような趣味は持っていない為、きっぱりと断ってやると何やら放っておけなくなる悲しそうな顔をされてしまった。
「仕方ねえだろ。それに、そんなんは直接訊かねえと意味ねえよ」
すると、演は妙に深いため息を吐いて初めて笑顔を見せた。
「楓さん、こういう風にすればワンチャン教えてくれるんじゃないかと思いまして」
これだから賢い奴は嫌なんだよ。実際、撫子の話を聞いていなかったらホイホイ喋っちまってただろうしな。ただ、自分からバラしている事からも分かるが、俺に対して持っていた恐いイメージはある程度払拭されたようだ。こういう態度を見ると、過去の自分から遠ざかっているのを実感出来て素直に嬉しい。
「バカ言ってんなよな。ほら、そろそろ帰ろうぜ」
立ち上がり、演の肩を叩く。そして、彼の帰り道を途中まで一緒に歩いた。どうやらここから20分程度の場所に住んでいるらしい。道すがら最近の流行りのポップカルチャーなんかを教わっていると、奇しくもあの高い丘のある公園に辿り着いた。この場所には、何かと縁があるみたいだ。
「そんじゃな。なんかあったら連絡しろよ」
ケータイの番号を伝えると、「ラインじゃないんですね」とからかわれてしまった。仕方ないだろ、ガラパゴスなんだから。
……。
朝だ。いつもと変わらない朝。白い空と、鳥の声が響く朝。窓を開けて大きく伸びをし、窓の縁に座ってぼーっと街を眺める。ざっざっと鳴る足音の方を見ると、少しぽっちゃりとした大学生くらいの兄ちゃんが、今日もランニングをしている。彼はこの一週間、必ずこの道を通る。息を切らして、途中で歩き、しかし立ち止まらずに先へ進んでいく。あの姿に、俺は結構勇気を貰っていたりするんだ。お願いだから、止めないでくれよな。
まだ少し残っていた缶コーヒーを空け、首をぐるぐると回す。右に四回、左に二回。金庫のダイヤルにでもなった気分でぐるぐる回っていると、この時間には珍しく部屋の扉が開いた。
「……お兄ちゃん、おはよう」
「どうした、恐い夢でも見たか?」
どこか後ろめたさを含んだ表情で現れた湊は、近寄って来るなり俺の脚に縋りついた。頭を撫でて理由を話すのを待つと、「来て」と言って俺の手を握り部屋の外へ向かう。そして、連れていかれたのは五つ隣の湊の部屋だった。
「あらら、やっちまってんなぁ」
一体何が起きたのかと心配してついてきてみれば、そこにあったのはベッドの上にやらかしたおねしょの跡だった。トイレットペーパーで拭いたらしく、濡れたカスが少し残ってしまっていて、おまけに全然処理が出来ていない。
「みっちゃんに怒られちゃう」
「そういうとこ、妙に厳しからな」
小学二年生ならセーフな気もするが、そんな教育をする人間もこの家にはあの人しかいないから当然の事だ。だが、当の本人的は相当参ってしまっているようで、今にも泣きだしそうな様子。考えてみれば、ある意味こういうのを一番恥ずかしいと思う時期なのかもしれない。
「任せろ。心配すんな」
言うと、俺はそのマットレスを持ち上げて自分の部屋に向かった。後ろからついてきた湊に扉を開けてと頼むと、音が鳴らない様に丁寧に両手で扉を開けて部屋の中でしっかり押さえた。
「そんじゃ、これを湊の部屋に持って行こう」
と言う事で、自分のマットレスを湊の部屋へ。この家の家具は基本的に統一されているから、別の部屋の物を移したところで何も違和感はない。湊には大きすぎる、俺には少し小さいサイズだ。
「でも、お兄ちゃんがおねしょしたと思われちゃう」
「その時は飲み過ぎてぶっ倒れた事にでもするさ」
言うと、再び足に抱き着く湊。そんな彼を抱きかかえると、ベッドの上に乗せてキルトケットをかける。美智子さんが出勤してくるまで、まだ一時間以上ある。二度寝するには充分な時間の筈だ。そう思って何度か頭を撫でるとすぐに瞼が落ちてくる。しかし、夢と現実の真ん中くらいでふらついていた湊が不意に口を開いた。
「……お姉ちゃんがね」
うん、と相槌を打つ。
「お兄ちゃんは、どんな髪型が好きなんだろうって言ってたよ」
「……着てたパジャマ、下持ってくな」
「うん。ありがとう」
呟くと、湊はゆっくりと目を閉じる。寝息を立て始めたのが分かると、俺はゆっくりと部屋を出た。自分の部屋へ戻ると、シーツを取って湊のパジャマと一緒に地下の洗濯室へ持って行った。次に、ぬるま湯にクエン酸を溶いた溶液でマットレスのシミを綺麗に洗い、窓を開けてからそこへ立てかけた。これで、今日の夜までには元通りになるはずだ。
溶液を入れた桶とブラシを戻してから上に戻る。キッチンではコックが料理の準備をしているらしく、鼻孔をくすぐるいい香りが漂っている。釣られて食堂へと足を踏み入れてしまった。
「おはよう」
相変わらず無口な奴だ。一瞬こっちに目を向けて手を上げると、すぐに鍋に意識を向けてしまう。じっくりと煮込んでいるあれは、恐らく奏の好きなコーンポタージュだろう。
挨拶をしたのだから、このまま立ち去ってしまうのも少し冷たいような気がして、だから俺はなんてことのない話題を振る事にした。この人、喋らないけどな。
「北方さんは、何年くらい料理人してんの?」
酒の席で聞いた話では、昔は流れの料理人をやっていたとのこと。そんなある日、この家に招かれて料理を振る舞った時、その腕にほれ込んだ爺さんが雇ったんだとか。
裏ごししたコーンと生クリームを混ぜたペーストを、ゆっくりと鍋の中へ注ぎ入れる。皿を一度だけ振って全てを移すと、俺に向けて指を三本立てた。
「三十年か。すげえな」
44歳だと言っていた筈だから、ちょうど俺がギャングをやっていた頃にはもう料理人だった事になる。
「違う。料理人になったのはここ三年だ」
「おわっ!喋れるのかよ!」
料理の準備が終わったようで、調理器具を洗いながらそう言った。やたらと低くて渋い声だ。清潔だが荒々しい風貌の見た目に、あまりにもイメージ通り過ぎる声で逆に不自然に感じる。見れば見る程、侠客にしか見えない。
「大人数でいる時と料理している時以外は喋るぞ。それに、前に料理の説明をしただろ」
そう言う事らしい。てっきり、俺は全てを腕と背中で語るタイプの人間なのかと思ってた。
「まぁいいか。それで、料理人になったのは三年ってどういう意味だよ。前からずっと作ってたんだろ?」
北方が洗った物を拭いて重ねる。あの味を知れば、水滴一つ残さないと言う気分にもなる。
「俺の料理は、必ず人を満足させられる。そう確信したのがここ三年だってことだ。それまでは、言われた物しか作れなかったからな」
渋すぎるだろ、このおっさん。
最後の一つを拭き終わって一息。気が付くと、北方はコーヒーの入ったグラスを俺の手元に置いていた。ありがたくそれを頂くと、壁に寄りかかって味を楽しんだ。北方の答えに何かを言いたくて言葉を探していたのだが、結局それは見つからなかった。何十年もの間探求し続けた彼に、俺の言葉はあまりにもチープだと感じたからだ。
「安心しろ。大切なのは時間じゃない。腕だ」
「……いい事言うな、ほんと」
きっと、最初に料理歴を聞いた時点で俺が何を言いたいのか分かっていたのだろう。もしかすると、この人は俺が往こうとしている道を歩いてきたのかもしれない。
グラスを空けて流しへ置くと、俺は深く頭を下げてからキッチンを出た。思わず階段を駆け上がったのは、一刻も早くピアノに触れたかったからだ。今なら、最高の演奏が出来る気がするんだ。
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