第23話 常を識る
「……よし」
ピアノの前に座り目を閉じて、流す様に指を動かす。静かに眠る様なイントロダクションから、それを覚ますような軽快なテンポの旋律へとシフトしていく。ジャジーなイメージを頭の中で膨らませ、アドリブで曲を演奏する。俺の頭の中にあるアイデアが、ピアノ線を通して産声をあげた瞬間だった。
フィナーレを迎えて、目を開ける。置時計に目を向けると、たったの三分しか経っていなかった。自分では、もっと時間が経っているように思えたのだが。
三分。三分だ。これだけ充実した気持ちになっているのに、蓋を開けて見ればカップ麺を待つ時間と変わらない。だが、これが俺の人生の全てなんだ。俺が生きてきた証が、この三分に詰め込まれている。
本棚に寝かしてあった白紙のノートを手に取ると、地面に伏して最初のページにペンを走らせた。楽譜の書き方なんて分からない。俺にだけ分かればいい。だって、これは俺の曲なんだから。
それっぽいオタマジャクシを書いて、鍵盤を叩いて、それをひたすらに繰り返した。額にかいた汗が落ちてインクを滲ませたが、拭う時間すら勿体ない。記号に表せない音はカタカナで表記し、文字化けしたメールのような楽譜が出来上がっていく。書き連ねて最後に記したのは、最早ただの説明文だった。
「……こいつは、誰にも見せられねえな」
呟くが、しかし何度も見て反復して、これをアドリブでなくしなければならない。譜面台にノートを開いて置くと、一心不乱に引き続けた。
弾いて、弾いて、弾き続けて。ようやく俺が我に返ったのは、美智子さんに連れられてやって来た奏の声を聞いたからだ。
「知らない曲です」
ハッとして立ち上がる。トランシーバーは甲高いブザー音を放っている。それを掴んでボタンを押すと、部屋がシンと静まり返った。時間は、もう七時になってしまっている。
「その、悪かった。……じゃない、すいません」
美智子さんは少し怒っているような、奏は安心したような、そんな表情をしている。二人は俺のこの姿を見てどう思ったのかは分からないが、少しの間沈黙が訪れた。しかし、やがて。
「奏様、少し彼をお借りしてもよろしいですか?」
言うと、奏は自分で車椅子を操作して部屋の外へと出て行った。こりゃ怒られるな。
「奏様、凄く心配してたのよ。もしかしたら、何かあったんじゃないかって」
「……はい」
奏からのコールを完全に無視したのは、今回が初めてだ。それだけは無いように気を付けていたのだが、本分を疎かにしてしまった事を思うと立つ瀬がない。
「黒木君の仕事は何だっけ?」
「奏の介護です」
それを聞くと、美智子さんは腰に手を当ててため息を吐いた。表情は、何を言うべきか迷っているように見える。しかし、どこか決意めいた目をすると、少しだけ語気を強めてこう言った。
「仕事を舐めないで。君は、ここの従業員で私の部下なの」
舐めているつもりはない。そう否定する事が出来なかったのは、この家の居心地があまりにも良すぎて、優しい雰囲気に甘えていて、働いているという感覚が薄れていた事を自覚しているからだ。きっと、常識の根本的な部分で俺はズレているのだろう。
少し、分かった気がする。この人が俺の誘いに乗らない理由は、そんな些細な詰めの甘さが仕事の節々に見え隠れするからなんだ。
……ありがてえなぁ。
「すいませんでした!俺、調子に乗ってました!」
深々と頭を下げる。怒鳴られるかもしれない。引っぱたかれるかもしれない。でも、今言われなければ俺は一生そのままだったかもしれない。この件で謝る相手が奏なのは分かってる。俺が伝えたいのは、そんな誰でも知っている当たり前の事をわざわざ言わせてしまって申し訳ないと言う気持ちの方だ。
「もう、同じことしない?」
「はい、しません!」
頭を下げたまま言う。目をぎゅっと瞑って、彼女の次の行動を待つ。一歩、二歩。俺に近づいたのが分かった。
「……?」
頭を、撫でられた。それも慰める様に何度もだ。何故かと思って少し腰を戻して美智子さんを見ると、さっきまでとは打って変わって辛そうな顔をしていた。
「どう、したんですか?」
「……ごめんね」
何故そんな事言うのか俺にはさっぱり分からなかったが、美智子さんは何かを堪えている様に見えた。そう言えば、俺は前にもどこかでこんな表情を見た事がある。あれは確か、あの駄菓子屋のババアが俺をぶん殴った時だったはずだ。……もし、あのババアにもう一度同じことをされたとして、俺はなんて言うだろうか。
「……教えてくれて、ありがとうございます」
自然と口に出た言葉は、感謝の気持ちを表すモノだった。だから、再び頭を下げたのも本心から出た行動だ。すると、美智子さんは突然俺の頭を抱いて強く力を込めた。
「……どうしてそんなに素直かなぁ」
どうしてとは、俺の過去と今を照らし合わせての言葉なのだろうか。もしくは、誰にも教えられなかった事を哀れに思っているのかもしれない。ならば、憎まれ口の一つでも叩けば、この人がそんなに辛い顔をする事もなかったのだろう。怒られ方ってのは、案外難しいみたいだ。
やがて体を離すと、また腰に手を当ててため息を吐く。多分だけど、どうすれば俺が傷つかずに皆が当たり前に知っている事を学べるのかを考えているんじゃないだろうか。いや、それは少し深読みをし過ぎか。
「俺、美智子さんの事を信じてますから。だから……」
もう少しの間だけ、指導をお願いします。そう口にする事は出来なかった。変わりに「大丈夫です」と伝えると、彼女はようやくいつもの微笑みに戻ったのだった。そもそも、なんで俺が悪いのにこの人にこんなに気を使わせてんだよ。なんならハグの分無駄に得してる気がするし。
「それじゃあ説教終わり、朝ごはん食べよっか」
鍵盤蓋を閉じて、ノートを手に持つ。美智子さんが扉の方へ向かった隙に、それを本棚に一番下の段に滑り込ませると後を追って外に出る。
「今日も頑張りましょう」
それから、朝飯を最速で食べて選択室へ向かい湊のパジャマをピックアップ。乾燥機にかけたから、既にカラカラで触り心地がいい。
パジャマを湊の部屋に戻すと、今度はバスルームに向かいシャワーを浴びて体をキレイにする。鏡を見てヒゲを剃り眉を整える。……目の下にクマが出来てる。昼寝を少しした方がいいかもな。
タオルで体を拭き、左腕を見る。肩を覆うジオメトリックの黒いタトゥー。半分に引き裂かれた葉っぱが幾つも連なる中、一つだけ形の揃った赤い楓の葉がある意味深なデザインだ。楓の葉を入れて欲しいと言う注文以外にリクエストはしなかったのだが、今となってはこのデザインで良かったと思っている。
服を着て、玄関へ。下には既に奏がスタンバイしていたから、俺は後ろに立ってゆっくりと車椅子を押した。
「やっぱり、どこかおかしいです」
「昨日の朝も、同じこと言ってたな。どの辺がおかしいか分かるか?」
訊くと、奏は首を後ろに倒して俺の顔を見上げた。そのまま三回瞬きをして、こてっと落とすように首を傾げる。そして、「わかりません」と端的に答えると口を噤んでしまった。果たして、こいつはこんな事をする奴だっただろうか。少なくとも、俺がここに来た頃には絶対にそうじゃなかった。
「……あぁ、なるほど」
要するに、俺は変わりつつあるんだ。今はまだ、自分でもどこが変わったのかは分からないが、しかし現実に違和感として奏の前にそれは現れ始めている。気のせいだと言う奴もいるかもしれないが、俺は奏の言葉が正しい事を少しも疑わなかった。
願わくば、その変化が俺にとって善いモノだと嬉しいな。
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