第24話 奏、飛ぶ
……。
午後。少しだけ目を閉じて、多少肌の色が回復した気になると、俺は洗濯と買い出しを手伝ってからピアノ室へ向かった。奏を迎えに行くまで、もう一時間程ある。
改めてノートを見てみると、これが思ったよりも酷かった。今朝の俺には、人が生きていくのに必要最低限の知能があったのかも疑わしい程の落書きだ。
「どんなんだったかな」
何とか読み取れる部分を弾いてみる。口でスネアの音を発してテンポを調べ、それっぽさだけで曲を組み立てていく。この部屋に置いてあるメトロノームは、針が動かないからな。
それにしても、音楽だけはたくさん聞いておいてよかった。少なくとも、好きな曲と嫌いな曲の違いくらいは分かるから。無論、それが流行りかどうかは分からないけど。
どうやら、コード進行にはある程度のルールが存在しているようで、それを外れると不協和音となってしまうようだ。これを逆手にとって、不気味さを演出してるホラー映画なんかもあったりするらしい。ならば、逆の事をすれば耳障りのいい音楽が生まれるのは自明の理だ。
……時間は、あっと言う間に来てしまった。アラームが鳴り響き、高まっていた集中力に水を差してくれる。改めてノートを見てみると、そこそこ形になった
本棚に今朝のノートを仕舞う。こっちの方は、見せたい奴がいるから持っておこう。それじゃ、お嬢様を迎えに行きましょうかね。
車に乗って星稜高校へ。しかし、その途中で奏から電話があった。俺のケータイはハンズフリーに対応していないから、一度車を停めてかけ直す必要がある。
「今日は、迎えに来る場所と時間を変えて欲しいです」
……おっ?
「友達と遊びに行くことになりました。なので、私がいない間に昼寝でもしてたらいいと思います」
「そうか!助かるわ!楽しんで来いよな!」
電話越しにも、どこか浮ついているのが分かった。ちょうどいい理由を作ってやれてよかったぜ。
帰る時間と場所を聞いて電話を切る。しかし、そうとなれば別の事をしてしまうのが俺だ。このノート、持って来ておいてよかった。さて、この時間彼女は顔を合わせる時間があるだろうか。
「よっす。元気か?」
全然あった。奏について聞きたい事があると事務員に伝えると、彼は放送室を通して音楽室から撫子を呼んでくれたのだ。職員室で多少事情を聞いたのか、その手には奏の名前が入ったいくつかの書類を抱えている。この前よりも真剣な表情をしているのは、教師としてのプロ意識ってヤツを持っているからなんだろう。
「元気だよ。それで、東条さんの事って何?」
「あぁ、それ嘘。撫子に会いたくってよ。適当な事言っちまった」
聞くと、ソファに軽く掛けていた腰を深く落として書類を置いた。
「……ほんと、悪い人だね」
だが笑っている。とりあえず怒られるような事は無いみたいだ。
「でも、用事はあるんだ。こいつを見てくれ」
テーブルの上にノートを広げ、それを撫子の方へ向ける。それを見て一瞬だけ目を丸くすると、撫子は黙ってそれを眺めた。
「楽譜。ひょっとして、楓君の曲なの?」
頷くと、「へぇー」と感嘆の声を上げてページを捲った。ところどころ詰まって読み進まないのは、正しい書き方を知っている彼女にとってまるで意味不明な箇所が見受けられるからだろう。
「それを完成させたいんだ。手伝ってくれないか?」
「えっと、手伝ってって言っても、これだけじゃわからないよ。少なくとも、一回は流して聞かせてくれないと」
流石に無理だった。しかし、それならどこかで機会を設けなければなるまい。いくら俺でも、学校で弾くことが無理な話くらい分かっている。
「それじゃあ、週末にでも撫子の家行ってもいいか?」
「えっ?だって、この前は」
「酔っぱらってたからだろ。それに、今日は目的も違う」
すると、撫子は自分の腕を抱いた。薄い半袖シャツを着ているから、二の腕が艶めかしく潰れるのが見えて思わず目を奪われてしまった。こいつ、もしかしたら男子生徒の隠れファンとか結構多いのかもしれない。
「えっち。あの時だってそんな目的は無かったもん」
珍しく厳しい表情をしている。しかし、恥ずかしさに外気の熱も加担して頬が紅くなってしまっている。それにしても、「もん」って。
「頼むよ、お前の力が必要なんだ」
深く頭を下げる。生活保護を貰う事もプライドが許さなかったのに、なんだかこの前からペコペコと頭を下げてしまっている。多分、奏の天邪鬼な姿を見ていたからだろうな。「人の振り見て我が振り直せ」とはよく言ったものだ。
「もう、そんな風に言われたら断れないよ」
「サンキュな。マジに嬉しい」
という訳で、俺は撫子との約束を取り付けた。今週末の午後、彼女の最寄り駅での待ち合わせとなった。ようやく、この前買ったロンティーとデニムが役に立ちそうだ。
「それじゃ俺はこれで。時間取らせて悪かったな」
「本当だよ、もう。……ところで、東条さんの事は聞かなくてもいいの?」
立ち上がって、ノートを手に持つ。
「心配してないからな。もう、俺の出る幕じゃねえよ」
きっと、学校には学校の悩みがたくさんあるだろう。この先、苦しんで藻掻く様な出来事だってあると思う。しかし、それを打ち明ける相手は共に戦う友達や先を歩く教師たちだ。決して、俺が裏から手を回していいような話ではない。もちろん、虐めとかだったらそいつを叩きのめして家を燃やしてやるけどな。
「そっか、わかった。それじゃあ、私は音楽室に戻らなきゃ。またね」
短く返事をして、校舎を後にする。そう言えば、一応爺さんには連絡をしておかなきゃいけないな。
「何!?もしかして男か!?」
電話で事情を離すと、爺さんは大声でそう言った。そんなに興奮したら寿命縮まるぞ。
「うるせえ、うるせえよ。何人かで遊びに行ったみたいだから、男もいるかもしれないな」
ぐぬぬ、と呻いている。流石に無茶だったか?確かに、ついこの間まで引きこもっていた娘がいきなり男と遊ぶとなったら、心配するのは親心としてとうぜ……。
「今日は飲むぞ!奏のアルバムを全部見せるから、楓の好きな酒を買ってきなさい!」
やったぜ。
「了解!そんじゃ、楽しみにしてっから、仕事頑張ってな!」
そう言っても、返事がない。しばらくの間耳に電話を当てて待っていると、俺が車に辿り着いた頃にようやく声が聞こえてきた。
「仕事は切り上げた。今から帰る!」
確か、今日は関西に行くと言っていた筈だ。そこまで親バカだと、今度は別の意味で嫌われてしまいそうだ。
「気をつけてな」
電話を切る。賑やかな声を聞いたせいか、車に乗り込んでも嬉しい気持ちが込み上げてしまう。さて、奏は今頃何をしているんだろう。演は、少しは距離を縮められただろうか。
鍵を閉めて、リクライニングシートを限界まで倒す。エンジンをかけてエアコンを付けてから伸びをした。吉報に興奮して眠れないかもしれないと心配したのだが、俺の体は思っていたよりも限界が近かったようだ。目を一瞬だけ瞑って開けると、時間は午後六時になっていた。
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