第四章 君の脚になるから

第31話 それぞれの想い

 翌日、俺は隼人と共に日本へ帰国した。大きくて軽かった鞄が、今ではとても重たく感じる。それは、世界へのチケットであるアダムの名刺が入っているからに他ならない。



 札幌駅まで戻って来ると、俺と隼人は自動販売機でコーヒーを買い、大通りに置いてあるベンチに腰掛けた。シャツの下には、微かに汗をかいている。



 「いいかい?出発は一週間後。それまでには身の回りの事を済ませておくんだ」



 「あぁ、分かってる。手間かけるな」



 その日、隼人はこの場所まで迎えに来てくれると言った。



 「気にしないで。僕は、楓がどこまで行けるか知りたいだけだから」



 ライブの後、勢いづいたアダムは隼人にコンサルタントを依頼し、彼が次のコンサートのプロモートを担う事となったのだ。次の行き先は、中国だ。



 新たな目的が決まって、ついつい物思いにふけってしまう。きっと、キャラバンに合流すれば心は燃えっぱなしでしばらく落ち着く事もないだろう。だから、今ここで隼人に伝えておきたいことがあった。



 「俺さ、今でもお前と会ってなかったらどうなってただろうって考えるときがある。この考えるって言葉の意味を知らなければ、また前と同じことしてたかもしれねぇて、恐くなる夜があるんだ」



 力で支配する事が勝ちではないと知って、他にどんな方法があるかを考えて、そうしたらこうやって新しい人生が見えた。感謝しても、しきれねえよ。



 「ありがとう。これからも頼むぜ」



 言っても、照れ臭くなんてない。こいつは絶対に笑ったりしないって分かってるから。ところが、言葉を聞いた隼人は笑うどころでなく、むしろ落ち込んだ表情を浮かべた。きっと、こいつも俺と同じように色々と考えているのだろう。



 歩道の信号が点滅し、目の前を人が駆けていく。やがて赤になり、流れが止まったとき、隼人は深く息を吐いて言葉を口にした。



 「……僕はね、寂しかったんだ」



 スチール缶を握るその手に、力が込められている。



 「捕まるまではね、誰といても、何をしても、僕の心が満たされる事は無かった。だって、いくらでもかけがえがあるんだもの。恋も、愛も、お金も」



 前髪が瞼に掛かったようで、頭を振って視界を開く。



 「憎まれるとさ、僕はその人の心の中にいるって分かった。奇妙な事だけどね、殺したいくらい憎まれるほど、僕は満たされていたんだ。あの感覚が、この世界で一番の幸せなんじゃないかって思ったくらいだよ」



 自嘲気味に笑う。そして、俺の方を向いて今まで見た事もないような無邪気な笑顔を浮かべた。



 「でも、それは違うって楓に教えて貰ったんだ。だから、僕の方こそ感謝してもしきれない。ありがとう」



 言い終え、自分の首を触ってコーヒーを飲む隼人。その仕草を見たとき、一瞬だけあの日の光景が頭の中に浮かんだ。



 ――よう、テメーが俺の同房かよ。上脱いで何してやがる。



 ――殺すんだ、自分を。



 「……行こうぜ。そろそろ奏が心配する頃だ」



 「そうだね。僕、これから行かなきゃいけないところがあるんだ。ちょうど一週間くらいね。それが終わったら、今度は中国だ」



 とんでもなく忙しい奴だ。帰ってきたら、酒の一杯でも奢って労ってやらなきゃならないな。



 「あぁ、頑張れよ」



 拳をぶつけ合って、手を振った。次に会うのは、俺たちの旅立ちの日だ。



 ……。



 家に戻ると、爺さんが庭に椅子を置いて一人座っていた。タバコを吹かして、ぼーっと空を見上げている。黄昏時、空には一番星が見えている。



 「おかえり」



 「あぁ、ただいま」



 隣に腰を掛ける。ボストンに行っている間に、花壇の花はすっかりと色を変えてしまっていた。たった一週間で、こんなにも色濃く変わるものだったのか。



 俺は、爺さんが喋り出すのを待っていた。ここにいたという事は、何か伝えたい事があるんだろう。やがてそのタバコを吸い終わり、煙が消えた頃に爺さんは口を開いた。



 「……楽しかったよ。楓が来てから、この家もすっかり明るくなった」



 「俺も楽しかったぜ、知らない事ばっかだったしよ」



 「ここに着た頃よりも、随分と大人になったからね。二十年分の息子の成長を、一気に目の当たりにした気分さ」



 ここから出ていくことを、もうみんなが分かっている。しかし、それでも言葉に出して表明したい。そうしないと、仕事での関係を断ち切る事が出来ないから。



 「……喜一様」



 立ち上がって、正面に立つ。その呼び方を、爺さんは否定しなかった。



 「一週間後、私はこの仕事を辞めさせて頂きます。今まで、本当にお世話になりました」



 「……あぁ、分かった。次の仕事は決まっているのかね?」



 「はい。とある音楽隊で、ピアノを弾くことになっています」



 分かっている事を、ただ確かめる。それにこそ、意味がある。



 「そうか、頑張るんだよ」



 聞いて、深く頭を下げる。しばらくの間、俺は体勢を戻さなかった。頭の上で、鼻水をすする音が聞こえたからだ。しかし、俺は全く寂しくなんてない。だって、これでようやくこの人の息子になれたんだから。



 ようやく落ち着いたのを感じて、頭を上げる。爺さんの目は微かに赤くなっていたが、それでも努めて笑顔を作っている。だから、俺はいつもの様に話しかけた。



 「そんでよ、親父。奏は部屋にいるのか?」



 一瞬の沈黙。



 「……そうだね。きっと、楓の事を待ちわびているだろう」



 「分かった、じゃあまた後でな」



 考えたい事がたくさんあるのが分かったから、爺さんを一人にする。男には、人に邪魔されたくない時間ってのがあって、それが今だと直感したのだ。夕飯の時には、また普段通りの表情に戻ってくれるはずだ。



 自分の部屋に戻って鞄を置き、シャツとスラックスに着替え、奏の部屋に向かった。ノックをすると返事はなく、寝ているのか思い踵を返すと、向こうから扉を開けて出迎えてくれた。



 「よう、ただいま」



 「遅かったですね。もう、一人で全てやってしまいましたよ」



 誘われるままに部屋に入ると、奏の言葉の通り部屋の中は綺麗に片付いていた。ドレッサーの上にはいつも使う化粧品とケータイ、ベッドの上のキルトケットは畳んであって、洗濯物は全てしまってある。



 「お前、これ一人でやったのか?」



 「そうです。秋津を呼ぶのも、面倒だったので」



 素っ気ない言葉とは裏腹に、奏は少し息を切らしている。きっと、何度も往復して今やっとこれを成し遂げたのだろう。



 「マジかよ!お前凄すぎるぜ!」



 「そんな、誰にでも出来る事です」



 だが、褒めずにはいられない。他の事の何より、奏が自分の脚で立とうとしている事が、心の底から嬉しかった。



 「そんな事ねえよ!よくやったな、奏!」



 頭を撫でると、彼女は俯いて笑った。これは、とんでもなくデカい一歩だ。イメチェンや学校に行った事とは訳が違う。奏が一人で初めて、一人でやり遂げた事だからだ。



 「まあ、そう言う事ですから。私、あなたが居なくても一人で何とか出来るんですよ」



 言われ、長くなった髪を肩から払う。そして、ドレッサーの椅子を引くと、俺は奏の正面に座った。

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