第32話 初めの一歩

 「俺の曲、どうだったよ。最高だっただろ?」



 「そうですね、あなたが聞かせてくれた曲の中で、一番気に入りました」



 「そうか!そう言ってくれると、招待した甲斐があったぜ」



 上機嫌になって、メロディを口ずさみ指を指揮棒の様に振る。その姿を見た奏は、口に手を当てて笑った。



 「もう、褒めるとすぐに調子に乗るんですから」



 「いいだろ、調子に乗って海も渡っちまうんだから」



 やがて笑いが治まり、一瞬だけ静寂が訪れた。普段は聞こえない、カジの鳴き声が家に響く。



 「俺さ、この仕事辞めるよ。悪いな、彼氏作ってやれなくて」



 奏は、辛そうな顔をしなかった。



 「……いいんです。私、最初から作る気なんてありませんでしたから」



 キィ、とほんの数センチだけ奏が近づく。



 「いいですか?恋って、したりされたりするモノではないんです。落ちるモノなんですよ」



 少し手を伸ばせば届く距離に止まった。開けた窓から風が吹き込んで、髪が揺れる。



 「いい言葉だな。誰から聞いた?」



 「気が付いただけです。だから、あなたに恋人を作ってもらう事は私の幸せになりません。願い下げです」



 ムッとした表情で言う奏。こんな顔も出来たんだな。



 「嘘、ついちまったな。絶対出来るだなんてよ」



 謝って、自己嫌悪に陥る。奏がどう思っていても、嘘はつきたくなかったな。



 「いいですって。……ところで、覚えてますか?約束を破ったので、あなたは死ぬまで一生召使ですよ」



 「……そういや、そうだったな」



 しまった。考えてみればそんな約束もしてたっけ。落ちるモノって言ったって、夏休みの今はたった一週間でどうにかなるわけねえ。演に賭けるしかないのか?



 ただ、そんな事を考えた刹那、奏は冗談を言うように言葉を紡いだ。



 「でも、あの約束には期限が設けられていませんでしたね。なので、いつか出来ればそれでいい事にします」



 理屈と膏薬こうやくはどこへでもつくとは、まさにこのことだ。今の一瞬、メイプル・バンガローで演奏を始める前より緊張したぞ。



 「た、助かる。いや、マジでありがと」



 変な汗をかいてしまった。それを拭って一息つくと、奏は再び口を隠して笑った。本当にドSな奴だ。



 「焦りすぎです。全く、あんなカッコつけた事をしたりするからですよ。今度からは、もう少し落ち着いて約束をしてくださいね」



 「気を付けるよ」



 ヘナヘナと力が抜け、腰を深くして座り込む。しかし、そんな態度を良しとせず、奏は更に車椅子をこちらへ動かした。伸ばしたつま先に、コツンと車輪がぶつかった。



 「立たせてください」



 「はぁ?お前、そんな事出来るのかよ」



 喜んだり、ビビったり、たまげたり、たった数十分で何度衝撃を与えれば気が済むんだ。



 「分かりません。でも、出来るかもしれないじゃないですか」



 言うと、奏は俺の方へ両手を伸ばした。「ん」と言って、早く引っ張る様に命じる。その決心を無下にしたくなくて、だから俺は立ち上がるとその両手を掴んだ。



 「いいか?」



 「はい、お願いします」



 言われ、手をゆっくりと持ち上げる。奏の体はやはり軽くて、少し力を入れただけで上半身が跳ねる様に起きてしまった。しかし、足に力は入らないらしく、ただ抱き寄せられたようにぶら下がっている。バランスが崩れる前に腰に手を回しサポートすると、奏は俺の後ろに手を滑らせて胸に顔を埋めた。



 「……やっぱり、ダメでしたね」



 「そうか?結構惜しかったと思うぜ」



 泣きだしそうになるのを堪えて、必死に言葉を絞り出す。対照的に、奏は「ふふ」と笑っている。



 奏の介護を始めた頃、こんな記事を呼んだ事を思い出した。とある半身不随の男が、ある日突然何事も無く立ち上がった事例があると。どうしてそんな事が出来たのか周りの人が訊くと、男は宝くじの当選結果をどうしても知りたくて、昔の様に新聞を取りに行こうとしたら立ち上がれたそうだ。また、別の半身不随の男は街を車椅子で通行していた所、近くの学校から聞こえて来た徒競走の空砲の音で立ち上がり、何年も使っていなかったその足で数メートルを走ったという。彼は、元マラソンランナーだった。



 奇跡としか言いようのない事例だが、彼らには共通点があった。それは、奏と同じように頭に衝撃を受けて半身不随になってしまった患者だと言う事だ。



 感情を飲み込んで、頭を何度か横に振った。どうにも、俺は頑張る奴に弱い。



 「リハビリ、やってみようか。そうすれば、絶対立てる様になるぜ」



 「また絶対とか言う。さっき注意したばかりじゃないですか」



 しかし、言葉を否定する事をしない。当たり前だ、奏の中で決まっている事を、俺がただ代弁しているだけなんだから。



 「いいや、今度はマジだ!絶対に、絶対に成功するから!だからよ、頑張ろうぜ!」



 絡みつく腕に、更に力が込められる。しかし、それは前の様にしがみ付く弱さではない。自分で立ち上がる為に踏ん張る強さだ。



 「……もし、自分で立ち上がることが出来たら」



 「ん?」



 「もし自分で立ち上がることが出来たら、あなたの演奏を聞きに行きます。その時は、恋人も連れて」



 埋めていた顔を俺に向け、芯のある声で言う。伸びた前髪が目を隠したが、それでも霞まない程にキラキラと輝く、そんな瞳をしている。真っすぐに前へ、ただひたすら前へ進もうとする人間は、こうも美しいのか。



 

 ……綺麗だ。



 「あぁ、必ず来てくれよ」



 理由なんてない。ただ、俺はこの時奏の足が治るんじゃないかって、本気でそう思ったんだ。だから、他の言葉なんて言う気持ちにはならなかった。出来たら、とか。可能なら、とか。そんなイフの話をする気には一切ならない。奏は、自分の幸せと一緒に俺の曲を聞きに来る。そんな未来を強く信じられたんだ。

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