第33話 介護士卒業
……旅立ちの前日。身の回りの整理を済ませた俺は、最後の恩返しにとメトロノームの針を直していた。何とかならないかと調べてみると、どうやら古い油が固まって動かなくなってしまっているようだった。随分と年季の入った代物で、前にも修理をした形跡がある。ゼンマイの一つが、他の物と色が違ったのだ。
カバーを外し、振り子とゼンマイを分解して綺麗にヤスリで磨く。サビと油を取り除き、噛み合わせをしっかりと合わせた。再び組み立ててねじを巻くと、最初はゆっくりと、次第に一定のテンポを刻むようになった。無事に修理完了だ。
満足して、ピアノの上に戻そうと持ち上げる。その時、底に何か文字が彫ってあるのを見つけた。Dear Yomi。意味は確か、「親愛なる」とかそんなんだったっけ。
「……ヨミ、どっかで聞いた名前だな」
しかし、いつ聞いたのかが思い出せない。置いたメトロノームは左右に揺れ、カッチカッチと時を刻む。そのテンポに耳を傾けていると、何かを掴めそうな気がしてきて、だから俺は突然頭に浮かんだG線上のアリアを弾く事にした。
思えば、この曲が俺の始まりだったんだよな。奏からこいつを教えて貰わなければ、今の俺は無かった。それに、ピアノだけでなく色んな人と出会うきっかけになってくれた。みんなと出会ったから、俺は変われたんだ。この曲は、俺にとってもかけがえのないモノだ。
「……あぁ、奏の母ちゃんだ」
演奏の最中、突如として思い出された美智子さんの言葉。確か、奏と親父の仲が悪い理由を知った時にその名前を聞いたんだ。と言う事は、このメトロノームは親父から詠さんに送られた物なんじゃないか。道理で動かない訳だ。整備する人が居ないんだから。
「じゃあ、このピアノも詠さんの物ってことか」
これで合点が行った。きっと、奏にG線上のアリアを教えたのは詠さんなのだろう。そして、俺と同じように奏が一番最初に知った曲だった。だからこそ、奏の事を何も知らなかった爺さんも、はっきりと「奏が一番好きな曲」だと言っていたんだ。要は、この曲は母親の形見って訳だな。
しかし、これでもう一人恩人が増えてしまった。まさか、死んじまった人まで俺を助けてくれていたなんて。
「……あれ、ひょっとして直しちゃマズかったか」
考えてみれば、詠さんの事を忘れない様に壊れたままにしておいたのかもしれない。
「まあ、大丈夫か」
しかし、やってしまった事は仕方ない。もう一度油を固めて錆を塗るだなんて、土台無理な話だ。それに、奏も親父もこれは壊れていると知っていて置いているんだろうから、わざわざねじを巻くこともないだろう。黙っておけばバレやしない。もしも詠さんが化けて出たら、一緒に黙っていてくれるように頼もう。その時に、ついでにありがとうを言えると嬉しいな。
針は止まり、再び部屋に静寂が訪れた。窓際に立って、外を見る。もうそろそろ日が暮れる。そうすれば夜になって、その夜が明ければ俺はいなくなるんだ。
「そうだ」
思わず口にして、ケータイを手に持つ。登録してある番号の中から一つを選ぶと、すぐに電話をかけて応答を待った。彼はすぐに出てくれて、だから俺は「今から会えないか?」とだけ訊いた。
「……大丈夫です。場所は、あの丘のある公園でいいですか?」
もちろん、そう返して電話を仕舞う。美智子さんに出掛けると伝えて、俺は待ち合わせ場所に向かった。
「よう、調子はどうだ?」
「中々いいです。楓さんは?」
「バッチリだ。元気いっぱいだぜ」
丘の下のベンチに、演は座っていた。ここから近い場所に住んでいるだけあって、先に来て待っていてくれたみたいだ。
隣に座って、同じ方向を見る。ここに来る間に、太陽はオレンジ色に変わっていた。
どう切り出そうかと考えていると、俺が思いつくよりも先に演が口を開いた。
「……明日、ですよね」
どうやら、考えている事は同じのようだ。話が早くて助かる。
「そうだ。明日、俺はいなくなる」
しっかり、はっきり。俺が居なくなると言う事を俺の口から伝える。逃げただなんて、思われたくないからな。
「……最近の東条さん、凄く元気です。一昨日なんて、朝急に呼び出されたのでどうしたのかと思ったら、吹奏楽部に行きたいと言われましたよ」
一昨日、奏は確かに一人で外出していた。演が学校まで連れて行ってくれたんだろう。口ぶりは、空元気を心配するようだった。
「それで、あいつは入部するのか?」
「はい。そう言ってました。芦名先生も、とても喜んでいましたよ」
撫子の笑顔が脳裏に浮かぶ。優しい顔をしていたんだろうな。
「……きっと、あいつはこれから先も色んな事でお前を驚かせて来ると思うぜ」
「僕もそう思います。小学生の時から、ずっとそうでしたから」
そう言うところは変わっていないのだと思うと、思わず笑ってしまった。釣られたのか、演も小さく笑う。頭の中が奏でいっぱいで、まるで恋に満ちているような、そんな表情だ。
「……やめた!」
「えっ?」
言って立ち上がった俺を見上げ、キョトンとしている演。
「俺、お前に色々伝える事があるって思ってたんだ。でも、気のせいだったわ」
これが好き、あれが好きと教えれば、頭のいい演の事だから色々とうまくやるのかもしれない。けど、そんな頭で考えた事が、演が心の底から伝えたい気持ちに勝るだろうか。答えは、否だ。幸せそうな演を見て、その幸せの理由を考えたら、それが間違っていると気づいたんだ。だったら、わざわざ不利になるような事伝えるなんてありえない。そうだろ?
「そ、そうですか。少し気になりますけど、そう言う事なら」
言って、別れの空気を察したのか、演も立ち上がって俺の少し前に立った。振り返って、さよならを言う準備をしている。
ただ、俺はあまりその言葉が好きではない。だから。
「いつか、奏と一緒に俺の演奏を聞きに来いよ」
肩を叩く。演は、この言葉がどんな意味を持つのかは分からないだろう。
「……はい、必ず」
彼にとって、それが自分の何よりも欲しているモノだと気が付くまで、どれくらいの時間がかかるだろうか。だが、俺は五年だろうが十年だろうが待つ。もしかすると、奏が連れてくるのは演じゃないかもしれないけど、それはこいつの頑張り次第ってところだ。今のところ、呼び出される位には信用されてるんだろうから、一歩リードだな。
俺は、お前を一番に応援してるぜ。
「そんじゃな、筋トレしとけよ」
もう一度だけ肩を叩き、俺は公園の外へ向かった。足音がないから、後ろ姿を見送っているのだろう。
少しだけ、冷たい風が吹いた。
……。
「それでは、お世話になりました」
翌日の朝、玄関にて。みんなに深く頭を下げる俺に、湊が駆けよって俺の脚に縋りつく。嫌だ嫌だと泣いたから、寂しくない様に跪いて抱きしめてやった。
「いつか会えるから、心配すんな」
しかし泣き止まず、ポロポロと涙を流している。そんな姿を見てか、美智子さんも涙ぐんでしまっていた。確かに、この姿には結構くるモンがあるな。
「湊、教えただろ」
言って、顔を真っすぐに見る。すると、すぐに意味を理解したようで、目をゴシゴシと擦ってから唇を嚙みしめた。口が開かない様に力を込めているようで、「うぅ~」と唸るような声が口の端から漏れていた。
「男は?」
「……な、泣かないっ!」
「そうだ、偉いぞ」
言って頭を撫でると、再び目を擦って美智子さんの所へ戻った。すると彼女が泣いているのに気が付いたようで、目を真っ赤にしたままポンポンと太ももを叩いて慰めている。
そんな姿に元気を貰ったようで、美智子さんは一度だけ鼻をすすると俺を見た。泣いても美人だ。
「美智子さん、仕事のイロハをありがとうございました」
そう言えば、せっかくライブがうまくいったのにデートしてもらってねえじゃねえか。チクショー。
「……頑張ってね。私も、応援してる」
頷き、今度は北方さんを見る。すると、彼は「うん」と首を一度だけ縦に振った。だから、俺は頭を下げる事で挨拶とする。この人に、言葉は要らないか。
「……親父、長生きしろよな」
「もちろん、楓も体には気を付けるんだよ」
ニコリと笑うその表情は、全くもっていつも通りだ。
「それで、奏」
「……はい」
奏は俯かない。真っすぐに、俺を見ている。
「元気でな」
伝えたい事は、もう全て伝えた。だから、言葉はこれだけで充分だ。
「はい。……あなたも、お元気で」
そして、振り返る。扉に手を掛け、グッと押して外へ出た。すると、足元にカジが座っていて、尻尾をゆっくりと動かしてから「ワン」と一度だけ鳴いた。
「分かってるよ。お前も、元気でな」
顎の下を掻くと、カジは気持ちよさそうに目を瞑った。これで、全員に挨拶が済んだ。やり残したことは、一つもない。
「いつか、帰っておいで」
親父の声に軽く会釈をすると、彼らは扉を締めずに俺を見ていた。長かった介護士生活が終わり、俺は東条家の門の外へ出たのだった。
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