第34話 願い

――――――――――


 あの人が出て行ったからでしょうか、お父さんは仕事を休みました。今も、庭の椅子に座って、火の点いていないタバコを咥えています。ただ、決して未練を持っている様な雰囲気ではありません。むしろ、どこか楽しげにも見えます。いつかあの人の演奏を聞く日が来るのを、心待ちにしているようでした。



 「奏様」



 「……なんですか?」



 朝食を食べて、部屋で本を読んでいると秋津がやってきました。端的に答えましたが、別に怒っている訳ではありません。いつから敬語を使い始めたのかもう覚えていませんが、確か小さい頃にお母さんの真似をしたのが始まりだったと思います。いつの間にか、癖になってしまいました。



 「本日も、学校に行かれる予定ですか?」



 「いえ、行きません。いつも占領されていたお母さんのピアノを、久しぶりに弾きたいですから」



 吹奏楽部に入部する事を決めた以上、私にも一定の技術が要求されると思います。囲まれて楽しくやるのもいいでしょうが、とりあえずは前と同じくらいに弾けるようになっておきたいです。



 「分かりました。もし何か用があれば、これに連絡を下さい」



 そう言って、彼女は私にトランシーバーを渡しました。電池を入れ替えたようで、電源を入れると、緑のLEDランプがいつもより強く光っています。



 秋津が出て行ってすぐ、私はお母さんの部屋へ向かいました。電動で車椅子を操作すれば楽なのですが、どうやら私は立ち上がる時に踏ん張る腕の力もないみたいで、なので出来るだけ手動で動かして、少しでも早く歩ける様に準備をしている訳です。



 「……なんか、広いです」



 思わず口に出してしまうほど、部屋が広く感じました。全く、あの人の図体が大きすぎるせいです。扉を開けたとき、何の声も無かったのが、少しだけ私の心を締め付けました。



 キィ、ゆっくりと車輪を転がして、部屋をぐるっと回ります。どうやら、知らないうちに隅から隅まで掃除していったみたいです。女性の部屋を、ましてや人の母親の部屋を勝手に掃除するなんて、本当に非常識な人です。……まあ、本棚とピアノしかありませんけどね。



 何を弾こうかと考えて、本棚を探します。何本もの楽譜が置いてありますが、私が使うのは大抵この一番下に置いてある物です。何故なら、ここくらいにしか手が届きませんから。



 そうやってどれが良いかと悩んでいると、一番右端に何やら見慣れないノートが挟まっているのを見つけました。これは、一体なんでしょうか。そんな事を考えて一ページ目を捲ると、大きな文字と音符が乱雑している謎のページがありました。



 「……汚い字」



 しかし、どうしてか引き込まれる魅力があります。一文字ずつ丁寧になぞってそれを読んでいると、どうやらこれが楽譜的なモノである事に気が付きました。五線が無いので、理解するのに少し時間がかかってしまったのです。ただ、このリズムには覚えがあります。そう、紛れもなく、あの人の曲のモノです。



 「本当に、センスだけで弾いていたんですね」



 次のページを見ると、そこは更に地獄みたいな光景でした。この横を向いた音符は、一体何を表しているのでしょう。



 気になって、あの曲を思い出していると、その上に注釈が描いてある事に気が付きました。最早、記号ですらありません。さて、なんて書いてあるんでしょうか。



 「……奏を、励ますように」



 また、その下にも注釈が。



 「奏が、笑えるように」



 その下にも、また。



 「奏が、抱き着く様に強く」



 ……いや。



 「奏の頭を、撫でる様に」



 いやです。だって、あんなに優しい曲。



 「奏が……。前を、向ける様に……」



 あんなに優しく、私の事を。


 

 「私、わたしは……。あれ……?」



 ポタリ、ノートの上に涙が落ちました。しかし、それを拭う事が出来ません。ノートを持つ手が、離れないんです。無機質で薄い、ただのノートの筈なのに、ぴったりとくっついて、そしてとても温かく感じます。



 ――俺が初めて、幸せにしてやりてえって思った女だから。



 「……楓、さん」



 一度も呼ぶことの出来なかった名前が、今になってようやく言葉になりました。どうして私は、一度も名前を呼べなかったのでしょうか。



 「嫌だ。行かないで、行かないでください。私、楓さんがいたから……」



 思わず、車椅子から立ち上がろうとしてしまって、しかし足に力なんて入る訳もなく、私は床の上に倒れてしまいました。這って前に進もうとしても力は入らず、ただ虚しく床の上を滑ってしまいます。



 「あなたが好きだから、私は幸せだったのに……」



 どうする事も出来なくて、だからノートを抱きしめると、あの大きな手で撫でられる感触を思い出しました。温かくて、いつだって進む為の勇気をくれた感触。



 「……どうして、好きだって言えない」



 分かっています。言ったところで、あの人がここにいてくれる未来は無かったってこと。でも、もし言葉にする事が出来ていたなら、きっとこんなに悲しくは無かったと思います。



 私は、やっぱり変わっていません。崖っぷちに立って、後ろに火が付いていても飛ぶことは出来なかったんです。楓さんは必ずいなくなってしまうと分かっていたのに、あの人以外のモノに目を向けて、一人でも大丈夫だって褒めて欲しくて、私が本当に欲しかったのは、そんな一時の優しさなんかじゃなかったのに。



 「ひっ……。かえで、さん。好きです。ひっ……。だから、行かないで……」



 大声を上げて、私はただ一人で泣き続けました。こうして泣いていれば、戻って来て慰めてくれるんじゃないかって。寂しく俯いていれば、抱きしめてくれるんじゃないかって。そう思ってしまったから。まるで、夢みたい。



 ……そんな夢の様な出来事が、昨日まではここにあったんです。当たり前の様に謳歌していた奇跡が、ここにあったんです。でも、夢は醒めるモノです。だから、醒めた今だけは縋りつくわがままを許して下さい。みっともなくノートを抱く私を、残った体温で温めてください。



 ここが防音室で、本当に良かったです。誰かに聞かれていたら、私を今すぐに楓さんの所へ連れて行ってと頼んでいたでしょうから。



 そして、もっと泣いてしまう事になっていたでしょうから。

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