第30話 最高のチケット

 それからの五日間は、彗星の如くあっという間に過ぎていった。迷いを振り切ったからか気持ちはやけに落ち着いていて、あの病的な集中力がこのに来てからずっと続いているような感覚に陥っている。理由はもちろん、ピアノしか見えていないからだ。



 奏を幸せにする事と、ピアノを演奏する事の二つにリソースを割いていたから、本来の力が分散されていたんだ。四六時中尽くしていたパワーを全て注ぎ込めば、俺がこうなるのはある意味当たり前だったのかもしれない。



 「大丈夫?」



 バーの奥ので出番を待つ俺に、隼人が声を掛ける。この大一番で、流石の俺も緊張すると思ったのだろう。しかし、いつもの様におどけて見せると安心したようで。



 「分かった。それじゃあ僕は客席から見届けさせてもらうよ」



 そう言って、踵を返した。



 「あぁ、一つ良いか?」



 呼び止め、一つのテーブル席を指さす。そこには、車椅子に乗った美少女と、ロマンスグレーの髪の紳士が座っている。ドレスコードに身を包んだ彼らは楽し気で、笑いながら話をする姿は見る者を穏やかにしてくれる。嘗て、彼らがいがみ合っていた等、誰に話しても信じてもらえないだろうな。



 「あそこにいるのが、奏とその親父の喜一さん。よかったら、挨拶でもしてやってきてくれ」



 すると、隼人は興味深そうに小さく声を上げた。



 「分かった。僕も働く楓の姿が気になるからね」



 「頼む。きっと喜ぶ」



 そして、俺は独りになった。



 ……次々に曲が流れる。外のステージとは違い、曲の紹介やセットリストなんてモノはない。ただプレイヤーが出てきて、思うままに演奏をする、それだけの場所。放たれる音楽のどれもが超一級で、会場の色を一曲毎に染め変えていく。彼らの顔を見れば、皆一様にベテランの年齢層で、その事実が若い俺の心を煽った。



 ――大切なのは時間じゃない。腕だ。



 「そうだよな」



 しかし、プレッシャーを受けはするが、それよりも熱いモノが込み上げてくる。俺も、こんな魂が震えるような演奏をしてみせるって決意がどんどん強くなっていく。



 そして、遂にその時がやって来た。



 「……」



 いつも着ている、白いワイシャツに黒いスラックス。墨を塗ってピカピカに磨いた靴と、オールバックに纏めた黒髪。楽譜の入ったファイルを手に持ち、ゆっくりとステージへ上がる。さっきまでの落ち着きは、もう無かった。



 心臓が鳴る。口の中の水分が一瞬で消え失せる。塗り固めた前髪の一本が、額の上に垂れてくる。少しでも気を抜けば 後ろにぶっ倒れてしまいそうだ。だから、進む。前へ、前へ。



 席に座り、鍵盤蓋を開ける。目を瞑り、手を置く。バーテンダーがシェイカーを振る音が聞こえる。向こうでは、聞きなれない英語の会話。コツコツ、床の木材をノックする足音。



 ふわりと香る、甘い酒。グラスに移したのが分かった。震えて、とろけて。



 音が、消えた。



 「……行くぜ」



 静かに、鍵盤を叩いた。瞬間、音は点となってフロアに散りばめられ、連続して進行する事でメロディとなる。それは、音と音を繋ぐ線となり、やがて星座の様に大きな形となっていく。星座は数を増していき、いよいよ満点の星空を作り上げた。俺は、世界の真ん中にいるんだ。



 曲は、終わりへと向かって行く。再生の序奏は既に遠く、第二の調和の物語を奏でる。ある日出会った音たちが、複雑に絡み合って俺を離さない。魅入られる様な光は、温かくて、優しくて。



 だから、俺がここにいる訳にはいかない。俺がいれば、奏はこれ以上前に進めないから。



 ……演奏が終わり、ようやく息を吸った。それを静かに吐き出して、ゆっくりと目を開ける。消えていた音が蘇り、聞こえて来たのはあまり多くない拍手だった。しかし、俺はこの上無い達成感に包まれていた。何故なら、その音を送る一人が奏だったからだ。



 深く頭を下げて、夢見心地のままにステージを後にする。戻る間に次のプレイヤーとすれ違った時、何故か彼に肩を叩かれて、やっと俺は出番が終わった事を理解した。



 緊張の糸が切れ、奥に戻る前に足に限界が来てしまう。ふらつきながらも何とか身近の椅子を引き寄せると、そこに倒れこむように座った。



 すぐに次の演奏が始まり、俺はぼーっと肩を叩いた彼の姿を見る。熱くなった頬をシャツの袖で拭っていると、一人の男が俺の所へやって来た。



 「小僧、あれはお前の曲か?」



 それは、スキンヘッドにサングラスを掛け、黒い顎鬚を蓄えた大柄な黒人の男だった。アロハシャツと短パンの出で立ちで、他とは明らかに異質な雰囲気を放っている。どう見てもアメリカ人なのに、日本語がペラペラなのも不自然に思った理由の一つだ。



 「そう、です。俺の全てを掛けた曲、です」



 とってつけたような敬語。それを聞くと男は俺の手から楽譜を奪い、中を捲った。



 「……ふん。青いな」



 「なに?」



 男はニヤリと笑って、尚も言葉を続ける。



 「青いと言ったんだ。如何にも天才が勘だけで作ったって感じだ。パトスが暴走しちまって、肝心の旋律がガッタガタじゃねえか。そう言うのはな、奏でるって言わねえんだよ」



 言われ、燃えた後に燻っていた心が揺れる。



 「急に来て何だってんだ。テメーが何と言おうと、俺はこの曲がこの世界で一番すげえって思ってる。分かったらどっか行きやがれ」



 見上げて言うと、男はバーテンダーを呼び出してビールの入ったグラスを二本受け取った。



 「行かねえよ。小僧、天才なんてのはな、この世界に溢れてるんだよ。そんな奴がちょっと褒められると、思いあがってテメエだけの力でのし上がれるなんて勘違いしちまう。滑稽だよなぁ?」



 「要領が掴めねえな。テメーは一体何が言いたい」



 すると、男はグラスを一つ渡して無理やり乾杯をした。ゴクゴクと煽るものだから、俺も負けじとそれを飲み干した。それから、男はシャツの胸ポケットから一枚の名刺を取り出し、俺に叩きつける様に渡した。



 「……キャラバン?」



 「お前は運がいい。何せ、この俺が気に入る曲を作りやがったんだからな。歓迎しよう、キャラバンへ!」



 イマイチ何が起こったのか分からずに黙っていると、後ろから隼人がやって来た。



 「アダム、来てくれたんですか」



 「ようハヤト。たった今から、こいつはキャラバンのメンバーだ。お前の言う通り、血の気が多くて俺好みだぜ」



 ぽかんと口を開けて二人の話を聞いていたが、いよいよ頭にきてしまい立ち上がってアダムと呼ばれた男の胸倉を掴んだ。曲をバカにされて、冷静じゃいられなくなっていたんだ。



 「おい、テメー横から出てきて何を……」



 すると、男は逆に俺の胸倉を掴み、そのパンパンに膨れ上がった腕で俺を持ち上げた。こいつ、なんつー馬鹿力だ。



 「歓迎するぜ、カエデ」



 あっさりと突き返されてしまった。その有無を言わせぬ迫力と、発せられる言葉のギャップに戸惑いを隠せずにいたが、状況を理解したのか隼人が俺に説明をしてくれた。



 「彼はアダム。このブルースター・ビバップの主催者であり、世界を股にかける音楽隊、『キャラバン』の総指揮さ。楓、君はアダムの名刺を貰ったんだ。これは、只事じゃないんだよ」



 話によると、キャラバンは少数精鋭であり、そして何よりも才能と努力を好む音楽隊であるとのことだった。実は、先ほど俺の肩を叩いた彼がキャラバンのピアニストだったのだが、このステージを最後に引退するとのことだ。そこで、彼に代わる新しいメンバーを探していた時に、偶然隼人が持って来た俺の話に惹かれたという訳だ。初めて三ヶ月でメイプル・バンガローに立つ度胸と、アダムに食って掛かった情熱を買ってくれたのだと言う。



 「だが、一番の理由はその才能だ。俺以外の奴の手に渡っちまったら、悔しくて眠れねえよ」



 言葉の後、アダムは右手を差し出した。



 「覚悟しとけよ、まずは雑用からだ。ポストが欲しけりゃ、そのクソッたれな才能を磨き上げるんだな」



 息つく間もなく、俺の炎は再び燃え上がった。そんな話聞かされて、黙っていられる訳がない。



 「……いいぜ、やってやる!アダム、絶対にテメーに『再生と調和のメロディ』の指揮を振らせてやるからな!」



 横に首を傾けて、期待と嘲笑の籠った笑みを浮かべる。



 「楽しみだ」



 俺も、引き攣ったような笑みが浮かんだ。その顔のまま、アダムを見て思い切り手を掴んだ。力強く、少しでも負けない様に、強く、強く。



 手を離して、アダムの後ろでキィと車輪の回る音が聞こえた。少しずらした視界の端に映った奏の顔は、とても切なく見えた。

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