第29話 息子よ
「もし、向こうで何かを見つけたのなら、もう振り返ってはいけないよ」
もう、娘に介護は必要ない。そう言われているのが分かった。
「いいのかよ、爺さん。俺、流石にそこまで恩知らずじゃないぜ」
聞くと、彼は目を瞑って首を横に振る。否定ではなく、あくまで諭すような仕草だ。
「楓はもう、充分に尽くしてくれた。奏だけじゃなく、私にも、湊にも、秋津や北方だって、みんな感謝している。だから、気にする事は無い」
「……でも、でもよ」
「こんなジジイにもね、やっていい事と悪い事ってのが分かる。別に出て行けと言ってるんじゃない、働いていたいならずっと居続けていたって構わない。ただ、楓の才能をあんな狭い場所に閉じ込めておいていい訳がないって話さ」
閉じ込める、俺にその表現を使う優しさに、感情が込み上げてくる。そして、じっと爺さんを見ていると、人の目があると理解しているのに自然と涙が流れてきてしまった。どうしてなのかは分からない。ただ、その深い皺が寄る笑顔を見て、安心しきってしまったんだと思う。拭うのも忘れて、ただ涙は頬をつたう。やがて、ポロポロと落ちて床を濡らした時、爺さんは肩を叩いてこう言ったんだ。
「愛しているよ。行っておいで、息子よ」
その言葉があまりにも嬉しくて、だから俺は鞄を落として爺さんを無理やり抱き寄せた。甘えてしまえば、爺さんの物になっちまうからな。
「……あぁ!行ってくる!」
飛行機の出発のアナウンスが聞こえる。離れて鞄を拾い涙を拭うと、俺はゲートをくぐって搭乗口に向かった。
「爺さんも聞きに来いよな!」
大きく手を振り、踵を返して飛行機へ。歩く体は、ここしばらくの感覚とはまるで違う様に軽い。そうか、俺はいつの間にか迷っていたんだ。一度に色々な物を知りすぎて、何を求めればいいのかが分からなくなっていたんだ。でも、もう迷わない。俺がやりたい事の為に生きていいんだって、そう教えてくれたから。
ただ、こうして憂いを全て吹き飛ばしても、まだ果たしていない約束が一つだけある。それは、奏の恋人を作ってやる事だ。それだけが、未だにわだかまりとして残っている。言い出したにも関わらず、先に幸せを手にしてしまった事で宙ぶらりんになってしまっている。
この街の戻って来た時、その答えが分かる様に、今は何も考えないでおこう。
……。
一度羽田空港に向い、そこからワシントンで乗り換えて、二十時間強のフライトの末にようやくボストンのローガン空港(正確にはジェネラル・エドワード・ローレンス・ローガン国際空港だ)に着いた。海の上に浮かぶ滑走路からシャトルバスでターミナルへ向かい、ゲートを出たところで隼人に電話を掛けた。
「迷わず来れたみたいだね」
「どうやって空の上で迷うんだよ」
「そういう意味じゃないよ。ようこそ、ボストンへ」
合流した隼人の後ろを歩き、駐車場へ向かう。そこに止めてあったのは、隼人の雰囲気からは想像も出来ないマッチョなアメ車だった。赤のマスタングコンバーチブル。所謂オープンカーってヤツだ。
「今の彼女に借りて来た。派手好きな奴でね」
イーストボストンの地下トンネルを通って、オールドノースチャーチのあるノースエンドへ向かう。しばらく続いた地下を抜けて目に飛び込んできたのは、鮮やかな赤と黄色のレンガで作られた背の高い建物と真っ青な空。これらはブロックごとに役割が決まっているようで、連続した風景なのにそれぞれに全く違う匂いが漂っていた。レトロで神聖な街の雰囲気に酔い、まるでナイトアンドデイの世界に迷い込んだようだと錯覚してしまったが、よくよく考えてみればあれを撮影したのがこの街だった。当たり前じゃねえか。
その中心に位置するハノーバーストリートに車を停めてから、俺たちは近くのハンバーガーショップに入った。やっぱりメニューが読めなかったから、どうやら一番プッシュされてるものを注文。間もなく受け取って窓際の席に座ると、ようやく気持ちを落ち着けることが出来た。
「……でっけえ」
俺の手からもはみ出る程の特大バーガー。齧り付くとケチャップソースが反対側から溢れ、手がベトベトになってしまう。だが、どうせ食い切るまで汚れ続けるのだから、このまま行儀悪く食事を続けてやろう。旨い。
「一息ついたら、ボストン・コモンを見に行こう」
「どこそれ」
肉汁を吸ったパンズを堪能する俺に、苦笑いで答える隼人。食の細いこいつは、俺の頼んだサイドメニューのポテトを一本ずつ摘まんでいる。
「全く、ブルースター・ビバップの開催地だよ。一刻も早く見たいんじゃないかと思ってさ」
「……っ!見てえ!」
思わず食べる速度を上げてしまう。
「一息つこうって。僕は楓と違って体力無いんだよ」
頬杖をついてハニカミながら言う隼人。
「結構忙しかったのか?そういや、あんまり顔色がよくねえな」
前に会った時よりも痩せているように見える。随分と緩くなったパーマと、ワイドなシャツにタイトなスキニーの服装も相まって、遠目に見れば女に間違われてしまうだろう。まあ、これに関してはそう言うファッションなんだろうけどな。
「まぁね。でも、約束通り最高のステージを手に入れたよ。聞いて驚かないでよね、何せそこは……」
「メイプル・バンガローだろ?」
ハンバーガーを飲み込み、コーラを飲みながら言う。すると、隼人は頬杖からガクッ外れ、顎をテーブルまで落としてしまった。
「な、何で知ってるの」
「だってよ、お前が最高って言ったから。そこしかねえだろうなって」
別の人間がそれを明かすのであれば俺もエンタメとして楽しんだだろうが、相手は隼人だ。むしろわざとらしく反応する方が気持ち悪い。
「まぁ、そうだけどさ。まさか、楓が自分で調べてるとは思わなかったよ」
厳密にいえばそうではないんだが。しかし、隼人の裏をかいたのが単純に嬉しかったから黙っておく事にした。
「ちょうど今日、話がまとまったんだよ。遅くなってごめんね」
今日、と言う事は俺を迎えに来るまで打ち合わせをしていたことになる。
「ひょっとして、一晩中それに付き合ってたのか?」
「当たり前だよ。だから、出来れば運転は変わってほしいね」
「……わかった。任せてくれ」
聞くと、隼人はしばらくの間目を瞑って動かなかった。余計な言葉はかけない。ただ、本番で魅せる事だけが感謝を表す方法だから。無防備に眠る親友を、今はそっとしておこう。
途中、店員が皿を下げに来た。そう言えば、海外にはチップと言う制度があるんだったか。
「センキュー」
皿を取りに来た若い兄ちゃんのポケットに、十ドル札を折って突っ込んだ。……いや、本当は1ドル札のつもりだったんだが、見慣れない紙幣に戸惑うのもカッコ悪くて、手に取った物を渡してしまったんだよ。
すると、店員は「ナイス」言って笑い、ついでにダスタークロスでテーブルを綺麗に拭いていった。東洋人はちょろいとでも思われてしまっただろうか。まあ、景気付けだ。取っておいてくれ。
それから間もなくして、隼人が目を覚ました。顔を拭って立ち上がった隼人を追うと、言葉も無しに車に乗り込む。太いエンジン音を鳴らし、三十分程で件のボストン・コモンへ到着。
「広い公園だな」
「50エーカーはあるよ」
何故アメリカではエーカーだのガロンだの聞き慣れない単位を使うのだろうか。そんな事を考えながら密かに検索を掛けると、その広さは大体東京ドーム11個分である事が分かった。奏にも同じこと言ってやろ。
設営中の現場を潜り抜け辿り着いたのは、道を一本挟んで向こうにあるホテルの様な外観のバーだった。イベント中はこの道路が封鎖され、一つの区域として扱われるようだ。
「中、見ていく?」
「いいや、当日まで取っておく」
それに、隼人もそろそろ限界だ。体力の無さに加え、緊張の糸が切れたせいでフラついてしまっている。だから、俺は隼人の肩を抱いて車へ向かい、スピードを上げて車の持ち主の元へ向かったのだった。
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