第二章 幸せのチャンス

第11話 雨が止んだ日

 早い物で、俺が東条家で仕事を始めてから一ヶ月が経った。現在は梅雨。ここ数日間は雨が降り続けていて、外に出ることの出来なくなってしまったお嬢様はご機嫌斜めなようで、だから彼女は幼げな仏頂面をずっと張り付けいるのだった。



 俺はと言えば、相も変わらずにピアノを弾き続けている。最近では、絶対音感というのだろうか。聞いただけで音の判別がつく様になって、好きな曲を勝手にピアノアレンジにして演奏する事が出来るようになった。因みに、今弾いているのはジャミロクワイのバーチャルインサニティだ。



 「また知らない曲です」



 ソファに座っている奏は、ぼーっと雨を見ながら呟いた。ベッドの上にいるのが嫌なのか、いつも俺の後ろに張り付いてはぼそりぼそりと嫌味を言っている。お前はロッテンマイヤーさんか?



 「これは何ていう曲?かっこいいね」



 今度は膝の上に乗った湊が俺に訊く。今日は土曜日で、学校も午後は休みだ。元々人懐っこい性格なのか、たまに遊んでやっている内に妙に懐かれてしまった。歳の遠い弟が出来たようで俺も楽しいのだが、どこかで間違って人生の見本を俺にしてしまわないかが心配だ。こいつはきっと、年上の女にモテるぜ。



 ジャミロクワイを教えつつ、たまに奏に弄られつつ、しばらくそんな時間を過ごしていたのだが、そろそろ夕方になるんじゃないかと言う頃に雨が上がって空に虹が掛かっている事に気が付いた。



 「凄い!お姉ちゃんも見てよ!」



 その声に素直に応えた奏は、車椅子を動かして湊の隣に向かう。後ろから二人の姿を見た時に、俺はかねてから奏に伝えようと思っていた言葉を言う機会が今なのだと直感した。



 「散歩行くか。なあ、湊」



 「うん!行く!」



 奏に訊かないのは、直接言ったところでまた難癖を付けてくると解っているからだ。湊が素直に応えて二人で話をしていれば、寂しくなった奏は必ずアクションを起こす。



 「久しぶりに雨が上がった事ですし、たまにはあなたにも私の車椅子を押させてあげます。ピアノばかりでなく、ちゃんと仕事をしなければいけないでしょう?」



 ほらな。



 そういう訳で、準備をしてから玄関へ向かう(ちなみに、家の中にはエレベーターがあるから奏一人でも移動が可能だったわけだな)。美智子さんに挨拶だけして、三人で近くの公園まで行くことにした。



 「カジ、行くよ」



 お坊ちゃんが犬を連れてきた。体の小さい湊なら背中に乗ってしまえそうな程に大きな犬だ。何よりも特徴的なのが、犬なのに妙に上品で頭のよさそうなその顔。こいつが人の言葉を話したとしても、俺はきっと驚かないだろう。因みに、ゴールデンレトリバーと言うらしい。



 俺は奏に、湊はカジについて歩く。道中、奏の思考に楔を打っておく為に、俺は湊にこんな事を訊いてみた。



 「なあ湊、昨日うちに遊びに来てたのは学校の友達か?」



 「そうだよ。みっちゃんに勉強を教えて貰ってたんだ」



 みっちゃんとは美智子さんの事だ。彼女は時々あぁして湊の友達を呼び、個人塾の要領で勉強を教えている。



 「楽しそうだったな」



 「うん!勉強も学校も好きだよ!この前も百点取ったし!」



 「そりゃすげえな!もう俺より頭いいんじゃねえの!?」



 そんな調子で話しながら奏に目をやると、口を尖らせて遠くの空を見て、時々強く瞬きをしていた。こいつは奏の本心を隠している時の癖だ。あまりにも分かりやすくて、思わず少しだけ笑ってしまった。すると、奏はそれに気が付いたようで。



 「まあ、あなたは湊どころかカジよりも頭が悪そうですから。というか悪いです。呼んでもすぐ来ませんし」



 等と言って、ため息を吐いた。



 「そんな事ないよ。お兄ちゃんは色々知ってるよ?この前も、どうすれば鍵が無くても車のエンジンがかかるのか教えてくれたし」



 「……あなた、何を湊に教えているんですか。本当に刑務所で反省したんですか?」



 俺はそれには答えず、黙って歩いた。すると、カジがまるで俺を慰める様に足首に自分の頭を擦ってくれた。汚れた心が清められていく気がする。お前、いい奴だな。



 公園に着くと、湊とカジはボール遊びを始めた。ここは東条家の庭より少し狭いくらいの大きな場所で、まだ濡れている芝生の上を転がる様に走るあいつの姿を見ているととても穏やかな気持ちになった。



 「ほら、あそこ。まだ虹が出てるぞ。しかもまん丸だ」



 夕焼けが水滴のレンズに反射して、七色のラインが空に円を描いている。これだけはっきりと見えるのは、やはりこの街の空気が澄んでいるからなのだろう。住んでいるうちに、段々ここが好きになってきた。



 何も言わないのは、俺が何かを言おうとしているのが伝わっているからだ。俺が奏を理解し始めたように、奏もまた俺を解り始めている。こうして少し気取った事をやりだしたならば、きっと何かを言うんだろうってな。



 「なあ、お前の通ってた学校ってどんなとこだったんだ?」



 「通っていたと言っても、入学してすぐに怪我をしてしまいましたし、入院も長かったので行ったのはほんの少しの間だけですよ。……三年前までは女子高だった私立校でした。今では共学で、それなりに偏差値が高いって事以外普通の学校だと思います」



 驚いたことに、奏は素直に教えてくれた。聞き出すための話題を四つ程用意していたのだが、杞憂だったようだ。



 「お嬢様学校だったのか。やっぱ、金持ちの令嬢はそういうトコ通うんだな」



 タバコに火を付けようと思ったが、入口から別の親子が入ってきたのを見て吸うのを止めた。手持ち無沙汰にライターをクルクルと手で回してから、元あったポケットの中へそれを仕舞う。



 「もう行く気はねえのか?」



 爺さんに訊いた所、奏はまだ在籍扱いになっているようで、一度は治った怪我が再び悪化したことになっているようだ。もちろん、16歳の今でもまだ一年生だけどな。



 「そうですね。勉強は家でも出来ますし、それに今更学校に行っても仕方ないですし。きっとつまらないです」



 「そんな事ねえよ。絶対楽しいぜ」



 「あなたに学校の何が分かるんですか?行った事もない癖に」



 こう言われる事は分かっていたし、奏もそれを覆してほしくて口にしたのだろう。何かきっかけさえあれば奏は動く。だったら、俺が与えてやればいい。



 「俺が手に入れられなかったモンは、多分学校に行けば手に入るぜ」



 「……ズルいです。そんな口説き方」



 世間のみんなが言う普通ってのは、きっと実際の真ん中よりも少し上の位置にあるんだ。要するに、生活の中にこそ幸せってのはありふれていて、いつだってそれに触れていて、だからこそ気づかない。しかし、一度普通を止めてしまった奏にはそれが実感できるはずだ。物事は、考え事一つで変わるモンなんだよ。



 「行ってこい、奏。お前なら出来る」



 「出来ないかもしれないじゃないですか」



 それを聞いて、俺はまた奏の頭を撫でてやった。



 「その時は一生召使、だろ?」



 「……約束ですよ」



 ほら、やっぱり踏み出した。気づいてるか?お前は、お前が思ってるよりもよっぽど頑張ってるんだ。髪だって切ったし、爺さんとだって話せた。今度だって何とかなるさ。それに、もし辛ければその時は別の事をしようじゃねえか。



 「よし来た。じゃあ早速学校に電話するからな。安心しろ、きっと上手くいく」



 電波が繋がると、俺は口頭で出来る手続きをあっという間に済ませた。明日には担任の教師が面談をしてくれるようだから、夜の内に制服にアイロンをかけておいてやろう。この前教わったばかりだが、ばっちり用意してやるからな。



 「奏、幸せになるチャンスを逃すな。俺が力になってやるから。だから、心配するな。たくさん悩んで、たくさん笑ってこい」



 そう言うと、彼女は撫でていた手を掴み、両手で強く握った。



 「全く、本当に強引過ぎます」



 だが、これでチャンスを得たんだ。それに、東条奏はあの東条喜一の娘なんだよ。ギャンブルの強さはピカイチに決まってる。お前は、きっと勝つよ。



 俺が、こうしてお前が前に進む為の脚になってやる。だから、お前の手で幸せを掴んで来い。

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