第12話 燃え滾るモノ
そんな訳で翌日。奏に制服を着せて、私立
案内されたのは応接室。背の低いテーブルを挟んで、二人掛けのソファが対面に置かれた簡素な造りだ。席に着くと、俺たちを案内してくれた女教師が、いくつかの書類を手に持って再び現れた。軽い会釈をすると、少し怯えたように目を逸らして静かに席に着いた。
「あの、初めまして。えっと、私は東条さんの担任の、
「どうも、黒木楓です」
随分と気の弱そうな人だった。歳は俺の2、3個上だろうか。察するに、大学を卒業してまだ間もないと言った様子だ。目は垂れた丸で、口も鼻も慎ましいのが優しく、どこか頼りない雰囲気を醸し出している。薄化粧で髪はショートの黒。半袖の明るいベージュのブラウスと黒のスラックスを着ている。所謂ビジネスカジュアル、と言うヤツだな。
「えっと、黒木さんは東条さんの介護士だと伺っています。……それでお間違いないですか?」
頷いて、話を続ける様に促す。
「分かりました。えっと、それでは東条さん。復学に関するお話ですが」
端的にまとめると、どうやら復学願とやらを提出してそれが受諾されれば戻れるようだ。今であれば、ギリギリ前期の中間試験に間に合うから、勉強さえ出来るのなら早いに越したことはないとの事。
「夏休みを過ぎれば進級に大きく支障が出来てしまいます。えっと、もし卒業する意志があるのなら、今がベストなのかもしれません」
「だってよ。お前、勉強は出来んのか?」
「一応、家でも勉強はしています」
やっぱり、なんだかんだ言って自分でも戻れるように準備してたんじゃねえか。見直したよ。
「だってさ、先生。その復学願、今書くから受け取ってくれ」
「えっと、分かりました。それでは、こちらの用紙に署名を。ですが、親御さんの署名も必要なので、提出は明日以降にお願いします」
「分かった。ところで、先生はこの後少し時間ありますか?」
瞬きを三回、オロオロとして手帳を確認する先生。
「……えっと、時間は空いてますけど、どうしてですか?」
「俺、高校って通った事ないから、ちょっと学校について教えて欲しくて。そうすれば、奏が上手く生活する方法も分かるかもしれないでしょう。ダメですかね?」
謎の間。外で小鳥が鳴いている。
「あ、あぁ!そう言う事ですね!それなら大丈夫ですよ!」
心無しか、顔が赤いように見える。ひょっとして、この人は俺がナンパでもしたのかと思ったのだろうか。口数は少ないのに、頭の中ではゴチャゴチャ考えるタイプだろうな。
「それじゃあ、二時間後くらいに札幌で。これ、俺の電話番号。見つからなかったらここに」
挨拶をして、校舎の周りをグルリと回ってから校門を出る。学び舎など俺には何の縁もない筈なのに、何故か懐かしい感覚がある。校舎を駆けるサッカー部の声が聞こえると、思わずそれが彼らのかけがえのない思い出になる事を祈ってしまった。
「ちょっと頼りねえが、優しそうな担任で良かったじゃねえか。協力もしてくれそうだしよ」
しかし、奏は何も言わない。それどころか、ハンドルを持つ俺の手に後頭部で頭突きを食らわせると、「ばか」と呟いて横を向く。こいつ、何か拗ねてないか?
「……お前、妬いてんの?」
「違います。妬いていません。妬いてませんので、早く家に戻して下さい」
なんだかよく分からないが、そう言う事なら早く帰ってやろう。そう思って、俺は車椅子の足場に乗ると、スピードを上げて最寄りの駅へ向かった。
……。
「すいません。少し処理に手間取ってしまって」
札幌駅の近くの喫茶店でコーヒーを飲んで待つ事30分。ようやく先生がやって来た。駅から走ってきたようで、じんわりと汗をかいている。彼女は店員にアイスティーを注文すると、お冷を飲み干してから息を整えた。
「それで、えっと、東条さんの事、ですよね」
えっと、と言うのが彼女の口癖なのだろう。何を言うにも、まずこれを挟んでいる事に俺は気づいた。
「本題はそれだけど。まぁ、まずは世間話でもどう?」
爺さん曰く、女にはまず優しくすべし。女の口を開かせるには、論理でも証拠でもなく共感。そして、自分を隠さない事だと言う。だから、俺は彼女の警戒を解く為にそう言った。
「えっと、世間話ですか?」
「そう。先生は今何歳なの?」
そんな具合で話を訊くと、彼女は徐々に口にする言葉を長くしていった。最初は俺の質問に端的に答えるだけだったが、レスポンスにもバリエーションが出てきたように思える。
「そうですか。黒木さんもピアノを弾くんですね」
「ここ一ヶ月の話だけどね。……あ、それと一ついいか?」
小首を傾げる彼女。
「実は、黒木ってのは14歳の時にいた施設の名前で本当の苗字は分からないんだ。だから、名前で呼んでくれねえかな」
そう。実を言うと、この黒木と言う苗字は俺が所属していた『黒木寮』から取っただけの物で、俺自身あまり気に入っていないのだ。だから、親が唯一残してくれたこの名前を俺は大切にしている。
「えっと、分かりました。楓君、でいいのかな?」
「そうそう、いい感じ」
そう言って笑うと、この日初めて先生は笑った。
「まあ、息抜きはこれくらいにしようか」
そして、俺は奏が学校でどう過ごしていたか、今の環境はどうなのか、これから先どうすればあいつが楽しく生活できるのかのヒントを訊いた。爺さんのメソッド通りと言うべきか、結果は上々。彼女はその全てに真剣に答えてくれた。教える事を生業にしているだけあり俺にも分かりやすく、これならいくらでもやりようはありそうだ。
「ありがとう、先生。勉強になる」
お礼は丁寧に、且つはっきりと。ここまでが爺さんに教わった一連のやり方だ。あの人、やっぱりタダのクズじゃねえな。そのうち、ビジネスのいろはを訊いてみるのもいいかもしれない。
「……えっと、楓君。その、私も名前で呼んでくれていいから」
突然の言葉。彼女の方を見ると、ストローでコップの中の溶けた氷をクルクルと回している。照れているのだろうか。
「わかった。撫子って良い名前だし、ちょうど俺もそう呼びてえって思ってたんだ」
そして、また瞬き。小さく「そっか」と呟くと、撫子は残っている水を飲んでコップを置いた。気が付けばもう夕方、そろそろ帰らなければなるまい。
「そんじゃ行こうか。家はどっち?」
「この駅の二つ隣、北18条ってところ」
「それじゃあ、改札まで送っていくよ」
支払いを済ませて店の外へ。一つ二つ会話をしながら駅の中へ向かうと、少し外れたところに何故か大きなグランドピアノが置いてあった。傍らに立て看板が置いてあって、どうやら誰でも自由に引くことが出来るストリートピアノであるらしい。随分お洒落な代物だ。
「そうだ。撫子、今日のお礼って訳じゃねえけど、俺が演奏するから聞いて行ってくれねえかな」
言うと、彼女はニコリと笑って鞄を両手で持ち、その場に立って俺を見た。だから俺はシャツの袖をタトゥーが見えない程度に捲って、ピアノの前に座った。
……集中。今、この駅にいる人間は全員俺を見ている。俺がこの場の主人公だ。失敗は出来ねえ。全員を満足させて、俺の存在理由を示すんだ。
そう思うと、雑音が消えた。コンセントレーションが最高潮に達した証拠だ。弾く曲は、そうだな。湊の好きなあれにしようか。きっと、撫子も知っている筈だ。
鍵盤を叩く。最初はスローに、次第に早く。そして、皆が耳にしたことのあるフレーズに辿り着くと、撫子は「あぁ」と気が付いたような声を上げた。
スタジオジブリ、ハウルの動く城から『人生のメリーゴーランド』。湊が大好きなアニメの挿入歌だ。どこかミステリアスで最高におしゃれなこの曲は、俺も聞いた瞬間に好きになった。まるで優雅に踊っているかのような旋律は心も込めやすく、パフォーマンスにも打ってつけの曲だと自信を持って言える。
……五分程の演奏を終えて立ち上がると、撫子を含め、立ち止まっていた数人の客からも拍手を貰えた。全員が俺を見ている。感謝を含んだ、満足気のある気持ちのいい表情で。その時だ、俺の体の中に燃え滾るような感覚がある事に気が付いたのは。たった十数人の客でこの気持ちを味わえるのなら、果たしてこれが百人なら、あるいは千人ならどうなるのだろうか。
知りたい。俺は、一体どこまでやれるのだろう。俺の力は、果たしてどれだけの人間を満足させる事が出来るのだろうか。やりてえ。心の底から、試してみてえ。
「凄く上手。一ヶ月とは思えないよ」
しかし、俺はぼーっとしてしまって、撫子の声に反応する事が出来ない。自分の手のひらを見て、汗をかいているのを確認すると、拳を握ってからようやくその場から離れる事が出来た。
心臓が高鳴っている。だが、いつもの様に口数多く喋る事は出来ない。俺はこれを噛みしめていたいって、本気でそう思ったんだ。
……気づけば、地下鉄南北線の改札まで来ていた。ようやく我に返って撫子の姿を探すと、彼女は俺の隣に並んでいた。どうやら、言葉を待っていたようだ。
「悪い、ちょっと興奮しちゃって。楽しくってよ」
「うん。すっごく楽しそうだった。見てる私も、なんだか楽しかったもの」
そう言って笑う彼女の表情は、とても魅力的だ。
「それじゃあ、明日には復学届持っていくから。奏の事、よろしくな」
「うん、任せて」
そして、改札を越えて階段を下りていく撫子を見送った。その日、俺は帰ってから飯も食わずただピアノの演奏に没頭していた。演奏して演奏して、ようやく隣に奏がいる事に気が付いたのは、翌日の早朝の事。車椅子の上で眠る姿を見ると、俺は彼女を両手に抱えてベッドへ寝かし、頭を撫でてから静かにシャワーを浴びたのだった。
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