第26話 もう一度
……。
カジと別れて夕飯を食った後は、そりゃ飲みまくった。俺と爺さんの酔っぱらいっぷりと言えば、酒に飲まれるんなんて生易しいもんじゃなくて、最早体内の水分を全てアルコールにすり替えられちまったんじゃないかってくらいだった。気が付けばシャンパンと爺さんのコレクションだったヴィンテージウィスキーのボトルを合わせて6本を空けていて、果たしていくら使ったのかと流石の俺も気になってしまった。
「なぁ、爺さん」
一度口を開けばグラスに酒を波々に注がれる。割り物もない、ストレートのウィスキーだ。それを一気に飲み干すと、火を吹きそうな衝動を抑えて一つの頼み事をした。
「八月の第三週、丸々休みが欲しいんだ」
「いいよ。そう言うからには、何かやりたい事があるんだろう?」
即答だった。考えて見れば、ここでダメだと言われてしまえば全てがおじゃんになっていたわけだ。九死に一生を得るってヤツだな。いや、爺さんはダメだと言うような奴でもないし違うか。
「俺さ、ボストンに行くんだ。そこで、ピアノを弾いてくる」
「なるほど、ブルースター・ビバップか。私も昔見に行ったが、あれはとてもいいもの……え、弾いてくる?」
どうやら、爺さんもその存在を知っているようだ。と言う事は、マジにとんでもない権威のある祭典なのだろう。出演する事になった経緯を話すと、爺さんは再びウィスキーを煽ってタバコに火を点けた。
「そうか、楓の友達か。しかし、初めて二、三ヶ月での出演なんてブルースター・ビバップの長い歴史の中でも聞いたことがない。これは、本当にすごい事だ」
インターネットで軽く触れたが、巨匠と呼ばれる高名なアーティストからニューウェーブ、他にもオペラ歌手やブルースのロックバンドまで、ありとあらゆるプレイヤーが集まってくるらしい。もちろん、記事は英語であまり意味は分からなかったけど。
「野外の特設ステージでの演奏がメインになるが、実を言うとそっちはミーハー向けでね。ミュージシャンが本当に出たいのはこっち」
言うと、爺さんはケータイ(スマホと言う言い方に慣れない)を取り出して「えーと」と呟きながら目的の場所を探す。一口酒を飲む間に見つけたようで、画面に映る現場の地図を俺に見せた。英語が読めると、こういう時に便利なんだな。
「メイプル・バンガロー。熱狂する他のステージから隔絶されたこの場所は、静かでここの音楽だけを楽しむことが出来る。収容数は百程度の休憩所の様なバーだが、仕事に一息入れたい著名人やプロモーターが集まるのさ。だから、たくさんあるステージの中で唯一、誰もがここに来るという訳だね。ここで演奏する事が、ジャズミュージシャンの夢だって言われている」
「……なるほど、これはすげえな」
照明はポツポツと浮かぶように灯されているだけで、まるで床や壁の真っ白な木材が光を放っているように見える。ホールには、長いバーカウンターとスペースを広く取って並べられたテーブル席。そして、その中心に赤い絨毯の引かれたステージ、一台だけグランドピアノが置かれている。装飾は何もない、シンプルで美しい音と星の箱庭。ここが特別な場所であることは、一目でわかった。
きっと、俺はここで演奏するんだ。隼人は言った、最高のステージを用意すると。ならば、俺がここに出る事は疑いようがない。盛り上がってきたぜ。
「それに、メイプルだってよ。俺の為に用意されたステージだと思わねえか?」
「きっと運命だ、私もそう思う」
それからの記憶は、ほとんどない。確か、電話で言われた通りに奏のアルバムを見せられて、胃の中が甘ったるくなるまで娘の自慢をされていた筈だ。その証拠に、爺さんは写真を抱いて寝ていたからな。
そんな夜から少し時は流れ、現在は土曜日。俺はリュックに楽譜と水だけを入れて撫子の元へと向かっていた。札幌駅の中を通ってきたのだが、通っていたストリートピアノは撤去されてしまっていた。湿気と暑さで状態が悪くなってしまうからだそうだ。もう、あそこで演奏する事は無いのかもしれないな。
北18条に着いて2番出口から地上へ出ると、建物の影で涼む撫子の姿を見つけた。グレーのロング丈のTシャツに細身のジーンズは夏っぽくて可愛らしい。
「ワイシャツじゃないの、初めて見たよ」
「この前買ったんだよ。良い感じだろ?」
白のカットソーとジーンズ。他の色は、暑苦しいからな。
撫子の家は、歩いて十分くらいのところにあった。ベージュの壁に洒落た四角いデザイナーズアパート。防音を唄っているだけあり、割と大きな箱に部屋は四つしかないみたいだ。
「いいとこ住んでんだな」
「どうせ、他にお金を使う道もないもの」
その言葉の通り、撫子の部屋は多種多様な雑貨で溢れていた。それを収納するための棚にも、一つ二つ綺麗に魅せる工夫がしてある。中でも目を惹いたのは、小型のアクアリウムだった。鮮やかな緑の水草に白い砂。イミテーションは丸い形の鳥居で、泳いでいる魚は赤白模様の金魚だ。
「学生の頃に夏祭りで取ったの。もう三年くらい生きてるんだよ」
餌の小瓶には「一日二回まで」と書いてある。きっと、求められるとあげ過ぎてしまうんだろうな。
「綺麗だ。こういう趣味もいいな」
言うと、撫子は嬉しそうに笑い、テーブルの上に緑茶の入ったグラスを二つ置いた。雑貨の他にはベッドとテーブルとテレビ。横の壁に頑丈そうな扉が付いているから、この隣が防音室なのだろう。
椅子に座ってお茶を飲む。一息つく間会話はなく、水を循環するポンプと水の音だけが部屋の中に小さく響いている。頬杖をついてじっと金魚を見ていたが、ユラユラと泳ぐ姿は俺を癒してくれた。
「それじゃあ、始めようか」
半分程飲んで、席を立つ。振り返って彼女を見ると、追うように目線を動かして瞬きを三回。一瞬の間を置いてからあたふたと立ち上がった。
案内されたのは、やはり隣の部屋。五畳程の部屋にエレクトーンと資料用の棚が置いてある。そのほとんどは、クラシックの雑誌や楽譜のようだ。
「じゃあ、早速弾いてみるな」
椅子に座って電源を入れる。音の設定は既にピアノになっているから、特に問題はない。
ノートを広げて、指を慣らす。目を閉じてから、そのまま演奏を始めた。三分間はあっという間で、弾き終えて間違えなかった事に小さくガッツポーズを取ると、「どうだった?」と訊いて撫子の方を向いた。
「……撫子?」
再び、とぼけたように固まっている。どうしたのかと尋ねると、何も言わずにノートを手に取って黒縁の眼鏡をかけた。寝不足だろうか。
「本当に、信じられない。これ、楓君が作ったんだよね」
「あぁ、そうだよ。結構イケてると思うんだけど」
「結構だなんて、そんなんのじゃ足りない。私、この曲大好き」
言いながら、空の楽譜シートを棚から取り出す。そして、部屋を出るとすぐにそこに音符を書き連ねた。集中力は、俺並みだ。
後を追って部屋から出た俺は、なんだか得も言われぬような幸福に包まれていた。自分の作った物を褒められる事が、こんなにも嬉しいとは思わなかった。この曲を喜んでくれる事が、俺が欲しかった存在理由になっている。
俺は、誰かにとっての何者かに成れたんだ。それも、他でもない、このピアノで。
しばらくして、撫子は鉛筆を置いた。どうやら書き上げたようだ。たった一度聞いただけで、全てを覚えてくれたのか。
「もう一度」
楽譜を渡して、真っすぐに俺を見る。
「お願い。もう一度、演奏してくれる?」
「あぁ、いいよ」
楽譜を受け取り、それを置いて席に着く。そして奏でられた旋律は、不思議な事にさっきまでよりも更に深く美しい。最後の一滴、そのエッセンスを撫子が吹き込んでくれたのだ。
「もう一度だけ」
聞き終えて、撫子が求める。そんなやり取りは何度も繰り返された。ようやくエレクトーンから離れたのは、俺が完璧に曲を覚えた頃だった。
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