第9話 ピーマンの花
「……おい、奏?どこに行った?」
異変に気付いたのは、いつもは騒がしいトランシーバーに連絡が入らなかったからだ。明日には爺さんが帰ってくるから、何かで呼ばれたついでに奏と話をしておきたいと思っていたのに、一体どういう事だろうか。
そう思って、俺はピアノから離れると奏の部屋に向かった。時刻は午後10時過ぎ。しかし、扉を開けて中を見ても、そこには誰もいなかった。おまけに、あの電動車椅子までなくなってしまっている。
「まさかな」
しかし、最近の奏の様子を思い出す程、その可能性の正しさが高まっていく。俺は少し焦る気持ちを抑えて、屋敷の裏口へと向かった。
「……あぁ、マジかよ」
そして、開いているその扉を見た時、俺の悪い予感は当たったのだと理解した。あろうことか、家から一歩も出たがらなかったあのお嬢様が一人で外出してしまったのだ。全く、怪我でもしたらどうすんだよ。
あの車椅子は手元のレバーでも操作できるからな。一人で動けるのが仇となってしまったようだ。その辺に居てくれると助かるんだが。そんな事を考えて、俺は裏口から外へ向かった。
……何となくだが、あいつの行った道が分かる。通路は二つに別れているが、左の家からは楽しげな団欒の声が聞こえている。カーテンの隙間に娘の頭を撫でる父親の姿が見えて、この前を通って羨ましがったに違いないと確信すると、迷わずに先へ進む。
曲がり角がある度に、寂しがり屋が惹き寄せられそうなモノを探してその方向へと向かう。そうやってしばらく歩き続けていると、例の高い丘のある公園に辿り着いた。丘にとぐろを巻く様に敷いてある道を辿って頂上へ登ると、やはりそこに奏はいた。
一瞬俺の方を見たと思うと、すぐに遠くを見つめ直してしまう。膝掛けをしていないから、雑に羽織っていたジャケットを足に掛けてやる。奏はその襟を握ると、少しだけ歯を食いしばってからため息をついた。
「いい景色だよな。お前の家で働く前、よくここで飯を食ってた」
スラックスのポケットに手を突っ込んで隣に立っても、奏は口を開かない。だから、いつもの様に俺が喋る事にした。
「ガキの頃、お菓子を食べたくてよく万引をしていたんだ。スーパーとかじゃなくて、ババアが道楽でやってるような小汚え駄菓子屋だ。このババアが中々の強者でな、大抵は見つかってぶん殴られてたよ」
一息置く。車のクラクションの音が聞こえる。
「最初はただ、お菓子が欲しかったんだ。でも、そのうち別の何かを求めてた。……あの時は思いもしなかったけど、今なら分かるよ。俺は、誰かに構ってほしかったんだ。本気で叱ってくれるのが嬉しかったんだって」
だから、奏の正面に立ってデコピンをした後にこう言った。
「こら、心配かけんじゃねえよ。俺がどんだけ心配したと思ってんだバカタレ」
それを聞くと、奏はジャケットで顔を隠してしまった。俺は、奏に背を向けてタバコに火をつけると空へ向けて煙を吐く。きっと、自分を見つけて欲しかったのだろう。それも、本当は俺ではなく爺さんにだ。
「二人の間に何があった。どうしてそんなにあの人を嫌う?」
背を向けたまま訊く。これは俺の独り言だ。奏にはそれが分かっている。だから、彼女もこうして独り言を言ったのだろう。
「お母さんが死んだのは、一緒にいられなかった自分のせいだって。だから奏は悪くない、気にするなって言ったんです。どう考えたって、私のせいなのに。私がもっと早くに気付いていれば、お母さんが死ぬ事なんてなかったのに」
きっと、あの人は奏が前を向けるようにそう言ったのだろう。だが、母親の最期を目の当たりにした奏にとって、そいつはあまりにも無責任な言葉なのかもしれない。逆境や痛みに強すぎるのも考え物だな。きっと、あの人には普通の人間の気持ちが分からない。だから、等身大の少女である奏の気持ちも理解が出来ないのだ。
「私は、ただ一緒に泣いて欲しかったのに。気にするなだなんて、お母さんの事を忘れられる筈なんてないのに。……そんなの、悲しすぎるじゃないですか。物なんかで心の隙間を埋められる訳がないじゃないですか。だから、私は許せません」
だが、奏は俺と出会った日に確かに言った。「お父さんに言いつける」と。俺は、あの一言を信じたい。心のどこかで、まだ爺さんを許したいと思っているのだと。だから、この一週間で調べた事を今ここで聞かせる事にした。
「……あの爺さん、ピーマンを食わないの知ってるか?」
振り返って訊く。奏は後ろを向いたまま、首を縦に振った。
「美智子さんに聞いたんだが、前は普通に食ってたみたいじゃねえか。それがある日、パタリと止めちまったんだって?……なんでだろうな」
「知りません。本人に訊いてみたらいいじゃないですか」
訊いても教えてくれない事は、奏もよく分かっている筈だ。
「そうか、まあいい。話は変わるが、屋敷の敷地内の赤いレンガの花壇に、今小さな白い花が咲いているんだ。ちょうど、お前が通ってきた裏口の近くにな」
面接の前、飼っている犬と湊が遊んでいたのを上から見下ろした時に視界に入ったあれの事だ。あの時はまだ緑のつぼみだったが、この一週間ですっかり花を咲かせている。
「あれな、ピーマンの花なんだ」
何故あそこだけが区切られているのか、それがどうしても気になって美智子さんに訊いたのだ。
「……だから何だって言うんですか?意味が分かりません」
「あのピーマンは、幼稚園生の頃のお前が爺さんにくれてやったモンなんだってな。手描きの手紙と一緒に」
水をやりながらそれを話す爺さんは、本当に嬉しそうだったと美智子さんが言っていた。自分がいない時も、これだけは世話を欠かさない様にと。毎年受け継がれる種子を丁寧に育てているからなのだと。
「その手紙には、こんな文章があった。『ピーマンの花言葉は、君を忘れない』、覚えてるか?」
「だから、あの人がピーマンを食べないって言うんですか?別に、食べない事とお母さんを忘れない事に関係はないと思いますけど」
「まあそれもそうなんだが、この話の肝はそこじゃない。問題は、ピーマンの花言葉が『君を忘れない』じゃないって事だ」
それを聞くと、奏が固まった。きっと、何度も瞬きをしているに違いない。
「それな、パプリカの花言葉なんだよ。お前、間違えてたんだ」
「な……っ」
タバコの火を足でもみ消す。ちょうどその時、奏が車椅子を反転させてこっちを向いた。
「当然、本当の意味を爺さんも、お前の母ちゃんも知っていた筈だ。庭にあれだけ色々な花を育ててるんだから、知らない訳がない。それなのに、ある日を境に食べなくなった。どうしてだと思うよ」
つまり、爺さんは奏の手紙の言葉を今でも信じ続けている。そして、信じているのだと知って欲しくて、でも話をする事は叶わなくて。だから、彼はピーマンを残すのだ。だから、彼の食べないピーマンが食卓に並ぶのだ。奏の言葉は一番に思っていて、ましてや妻の事を忘れて等いない。たったそれだけを伝える為に、娘のいない食卓で残した父親の心細いメッセージ。少なくとも、俺はそうだって確信している。
奏は、きっと今葛藤している。頭の中がぐちゃぐちゃになって、どうすればいいのか分からない筈だ。だから、俺が一つ、道を示してやる事にした。
「ま、一回くらいは真面目にさ、親子水入らずで話してみるのもいいんじゃねえかなって。俺はそう思うぜ」
真っすぐに目を見る。奏は、目を逸らさなかった。きっと、脳みその足りない俺が精一杯考えたのだと思ってくれたのだろう。ほら、お前だって本当は思いやりのあるいい奴じゃねえか。……なんてな。こうやって自分の都合のいいように物事を解釈するのが、俺の得意技だ。
「帰ろう。俺ここまで歩いてきたから疲れたぜ。帰りは後ろ、乗っけてってくれよな」
そして、俺は奏の車椅子のハンドルを持つと、足場に乗っかって運転を切り替え俺が操作出来るようにした。
「本当に強引ですね。私、まだ何も言ってないんですけど」
「お、何か話す気になったのか?どれ、聞かせてみ」
「いや、そういう訳じゃなくてですね」
きっと、言い訳をさせてしまえば俺は言い負ける。ならば、答えを聞く前に俺が攫ってしまえばいい。それくらいがちょうどいいのだと、俺はこの一週間で学んだのだ。
「明日が楽しみだ。そう思わねえか?」
笑いかけても、奏はジャケットを抱いて何も言わない。だから、俺は車椅子のスピードを上げて、奏のテンションを上げる事にしたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます