第4話 採用のワケ
……。
獄中生活のおかげで、早起きだけは得意になっていた。だから、こんな早朝の呼び出しにも応えられた訳だ。昨日の夜、美智子さんから連絡用のトランシーバーを受け取った。病院で言うところのナースコールみたいな物で、奏が用を聞かせたいときにこいつで俺を呼ぶ。
着替えて、顔を洗ってから鏡を見る。眉毛を剃った方がいいな。それに、髪の毛も早く伸ばしたいところだ。そんな事を考えながら見た目を清潔にして、俺は奏の部屋を訪ねた。
「どうした?」
「歯を磨きたいです。洗面所へ連れてってください」
そう言われ、掛布団を捲ってから奏の体を持ち上げて車椅子に乗せた。その体は、驚く程に軽かった。
「お前、飯食ってんのか?」
「あまり。お菓子は食べてます」
「菓子って、もうちょい肉付きのいい方が人気でるぞ」
「そうですか。ならもっとお肉を食べる事にします」
明らかに適当な返事だった。正直な所、少しは心を開いてくれたのだと思っていたが、全然そんな事はなさそうだ。
歯を磨き終わった頃に、美智子さんが起きて奏の部屋に来た。ベッドメイクを教えてくれるらしい。シーツの伸ばし方から布団の畳み方。そして枕や周りの物の位置等を細かく指導してくれた。その様子を見ていた奏は、どこか不満そうだった。
「これで一通りは終わり。後は奏様の着替えを洗濯室に持って行って、朝食にしよう」
「分かりました。奏は?朝飯食わねえのか?」
「食べないです」
「そんな事言うなよ。コックが用意してくれてんだ、みんなで食おうぜ。喜一様もいるんだろ?」
「食べないって言ってます。早く行ってきてください」
言われ、俺たちは部屋を後にした。洗濯籠を運んでいる途中、美智子さんがこんな事を言い出した。
「奏様と喜一様は、とても仲が悪いの。と言っても、奏様が一方的に嫌っているだけなんだけどね」
ため息を吐くと、俺の言葉を待たずに話を続ける。
「喜一様は、奏様の為に色々な人を雇ったり、部屋で退屈だろうからって何でも買い与えたり、そうして仲を取り戻そうとしているの。でもね、やっぱり年頃の女の子だし、それに遅くに出来た子供だから扱いが分からないみたいで。だから、怒りもしないし、無理やり学校に行かせるような事もしないの」
「娘には頭取の力も及ばないってか」
「からかわないで。これは真面目な話なのよ?あと口の利き方」
「すいません。でも、そんなの正面から話してみればいいじゃないですか。『おい!ちゃんと学校に行きなさい!』なんつって」
「……
そんな大仕事だったとは。しかし、それはそれで逆に燃えてくる。
「でも、奏は喜一様の事好きだと思いますよ」
「どうしてそう思うの?」
「あいつ、お父さんに言いつける、って言ったんです。心底嫌いなら、そんな頼るような事言わないでしょう」
「……確かに、そうかもね。もし何か聞けそうだったら、奏様からもお話を聞いてみてくれる?」
「そうですね。何とか出来るようにしますよ」
「頼もしい。それじゃあ、朝食にしましょう。弟の
「待ってくれよ」
呼び止めると、美智子さんは振り返って俺を見た。
「なあ、俺は美智子さんって呼んでるんだから、そっちも名前で呼んでくれないか?」
聞いて、彼女は大人の笑顔でこう言った。
「君が、もう少し大人になったらね」
……。
「頂きます」
飯の前に、こっちのお坊ちゃんとも挨拶を交わした。名前は東条湊。歳は8歳で、どうやら腹違いの子供であるらしい。引きこもりの姉とは違い、活発で元気のいい奴だ。俺が挨拶をする前に礼儀正しく頭を下げていたし、8歳のガキにしては出来過ぎなくらいしっかりしている。今も、笑顔でおいしそうにトーストとスクランブルエッグを食べていて、見ているだけで心が洗われる様だ。怖がらないのも、俺としてはありがたい。
「一日過ごしてみて、どうだね?」
喜一様が言う。口をナプキンで拭いてから、膝に手を置いてへそを彼に向けた。
「えぇ。自分がこんなデカい家に住むことになるとは思ってもいませんでした。奏はまだ打ち解けていないですが、彼女が不自由ない様に身の回りの世話をしたいと思います」
訊かれると思って、寝る前に考えていたのが良かった。きっと、何も考えていなかったら的外れな事を言っていただろうからな。しかし、どうやらこれは彼の求めていた解答とは少し違ったようだ。酷く真剣で威厳のある顔をして、こう言った。
「そんな、誰にでも言えるような事を聞く為に、私が君を採用したと思っているのかね?」
……重い。その一言で、場の雰囲気が一気に暗くなってしまった。俺は彼が何をした人なのかは分からないが、これだけは分かる。何か偉業を達成した人間には、大きな風格という物が生まれるのだ。
浅はかだった。確かに、俺の様なロクデナシが頭で考えた事なんて聡い人間にはお見通しに決まっている。……それなら、こっちだって本音を言ってやるさ。
「だったら言わせてもらうが、爺さんは自分の娘を何だと思ってんだ?あいつは他人に特別扱いされるのが嫌で、だから今まで雇った連中だって遠ざけてたんだろ?それが分かってるなら、嫌われるとか下らねえこと考えて逃げてないで、もうちょい真剣に向き合って見たらいいと思うぜ」
「ちょっと、黒木君。止めなさい」
「いいや、止めないね。大体、俺がちょっと一緒にいただけで分かるような事、爺さんは15年も一緒にいて分かんなかったのかよ。だったら親なんてやめちまえよ。寂しがってんのが分かんねえんだろ?」
水を打ったように、静かになった。だが、言い過ぎたとも思わない。逆に足りないくらいだ。親のいない俺にとって、親がどれだけ大切なモノなのかは分からない。しかし、いないからこそ分かる事だってある。寂しいってのは、この世界で一番辛い事だ。
「……なるほど、よく分かったよ。ありがとう、黒木君」
言い返す訳でもなく、どちらかと言えば、少し悲しそうな表情をしていた。
「あぁ。いえ、こちらこそ、ちょっと言い過ぎました」
そう言い終えた頃には、喜一様は優しい顔に戻っていた。……ひょっとすると、この人は奏以上に本音を言い合える人間がいないのかもしれない。
「だがね、そうも簡単にいかないんだよ。私も奏とは仲直りしたいと思っているから、その時は力を貸してくれるかね?」
「もちろん。全力でやります」
「ありがとう。それじゃあ、私は先に行くよ。ピーマンは嫌いだから残していくがね」
そう言うと、喜一様はテーブルから離れて部屋を出る。その後を追って、美智子さんが部屋を出て行った。
「お兄ちゃん、お父さんはどうして怒ってたの?」
あまり見慣れないからなのか、湊にはイマイチ事の重大さが分かっていないようだった。しかし、これぐらいの年頃であれば大人のゴタゴタに気を遣わず振る舞う方が少年らしくていいのだろう。余談だが、俺は湊くらいの頃にちょうどスリを覚えていた筈だ。
「それはな、お前の父ちゃんが姉ちゃんの事が好きだからだよ」
「そっか。ならよかった」
栗色の目を蘭々と輝かせながら言う。この髪と目は、きっと湊の母親の遺伝なのだろう。綺麗な色だ。恐らくだが、彼の母親は外国人なんだと思う。
「それはそうと、そろそろ学校の時間だろ。早く用意しないと遅れるぜ?」
「本当だ!ありがとうお兄ちゃん!」
そう言うと、小さい口で牛乳を飲み干してから湊は部屋を出て行った。残った俺はと言うと、テーブルに置かれている食器を厨房へと運んだ。シンクを洗っていたコックに「ありがとうございました」と伝えると、一瞬だけこっちを見てから再び作業に戻ったのを見て、プロフェッショナルっぽい等と言うミーハー丸出しの感想を思い浮かべたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます