第37話 演奏

 部活が終わって、再び遠い帰り道を往きます。額に汗が滲み、既に腕はパンパンになってしまいました。思わず電動に切り替えてしまいそうな衝動に駆られますが、それでも頑張れるのは、意地になっているからです。



 本来であれば、そろそろ休憩しなければいけないのでしょう。しかし、まだやれると思ってしまい、手を止められません。少しでも早く、ちょっとでも長く進めばそれだけ強くなれると思っているからです。



 けれど、それは間違いでした。急いだ先にあったのは。



 「……あっ」



 赤信号です。私は進むことしか考えていなくて、前を見ていませんでした。ブレーキを掛けようと車輪を握ったのですが、力が入らずに滑ってしまいました。右からは、引っ越しのトラックが突っ込んできています。頑張っていても、休まなきゃいけない時もあるみたいですね。勉強になりました。



 これ、もしかして轢かれますか?



 「危ないよ」



 ……そんな事はありませんでした。七橋さんが、後ろから着いてきていたみたいです。彼がハンドルを掴んだから、腰に巻いているベルトが突っかかって前のめりになってしまいます。しかし、私の隣に立つと肩を持って支えてくれました。落ち着きを見る感じ、すぐ後ろにいたのでしょう。



 「あ、ありがとうございます」



 一瞬、動けなくなった日の事を思い出してしまいました。すると、がむしゃらに動かしていた腕は思い出したかのように限界を迎え、もうこれ以上漕ぐ事は出来なくなってしまいました。痛いです。



 七橋さんは、そのまま次の信号で横断歩道を渡ると、黙って車椅子を押しました。電動にすればいいと提案しなかったのは、彼の雰囲気が暗かったからです。



 やがて、いつか私が逃げてきた公園に着きました。そして、木陰に入って息を整えると、彼は徐に口を開きました。



 「……また、俺の前からいなくなるつもりなの?」



 その震えた声を聞いて、思わず顔を見上げてしまいました。すると、さっきの落ち着いた対応とは裏腹に、唇を噛みしめています。



 悲しそうな顔です。



 「そんな事、助けてくれたのは嬉しいですけど、事故に遭いたいと思われるのは心外です」



 「そうじゃない!東条さんは、また一人で抱え込むつもりだったのかって訊いてるんだよ!」



 夏休みの昼下がり、住宅街に近いこの場所には、私達以外に誰もいません。



 「……俺、ずっと後悔してた。東条さんが事故に合った後、何で安心してしまったんだろうって。楓さんと出会う前、学校に来てくれて、辛くてどうしようも無い筈だったのに、それでも変わらずに居てくれるって思ったんだ」



 その言葉を否定する事は出来ませんでした。安心してしまう辛さは、痛いほど分かるから。



 「なんてバカな事を考えたんだろうね。なのに、いつもインターホンは押せなくて、嫌われる事の方が居なくなるよりもずっと幸せだって信じきれなかった。でも、もうあんな思いをするのは嫌だし、あんな思いをさせるのはもっと嫌なんだ」



 聞けば聞くほど、私と重なります。何度も自分を嫌いになって、それでも楓さんへの想いだけが膨らんで。言い訳ばかりを繰り返すんです。



 「……周りが見えなくなるくらいに、必死で進もうとしたんだと思う。でも、それじゃあまた疲れちゃうよ。だからさ」



 でも、一つだけ違うところがあります。



 「俺を……っ」



 彼は、飛べる人だったみたいです。



 「俺を頼ってよ!市島でも芦名先生でも、秋津さんや君のお父さんや、ましてや楓さんでもなくて!俺が東条さんを支えるから!いつか立ち上がれるその日まで、俺が君の脚になるから!」


 

 必死な顔をして、余裕なんて全然無くて、私が何を考えてるのかも訊いてくれない。不器用で、恥ずかしくて。



 少しだけ、感動してしまいました。



 「俺、東条さんの事が好きだ。ずっと前から」



 蝉の声。そういえば、あまり聞こえません。



 「……私、楓さんのことが好きです。忘れられないかもしれません」



 「分かってる」



 「それに、七橋さんが思うほどいい子じゃないです」



 「そんな事無い」



 「事あるごとに、楓さんと比べてしまうかもしれません」



 「なら、絶対に勝ってみせるよ」

 


 そして、一歩だけ近づいて。



 「俺が、もっと幸せにしてみせるから」



 恋人になるという未来は、全く予想出来ません。しかし、こうも強く言われてしまうと、私が抱いていた想いを誰かに告げられてしまうと、その気持ちが分かってしまいます。



 怖くて、逃げ出したくて、それでも前に進む七橋さんに、私は……。



 「一つだけ、条件があります」



 少しだけ、歩み寄ってみようと思います。



 「私が頑張ったら、頭を撫でて下さい」

 


 「もちろん」



 そう言って、七橋さんは私の頭を撫でてくれました。

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