第36話 そして前へ
歩道を通っていると、目の前からトレーニングウェアを着た男性が走ってきました。グングンと近づいて、すれ違う時には車道へ出て行きました。彼はシャツの色が変わってしまう程に汗をかいています。一体、どれだけ走ったというのでしょう。しかし、そのとても楽しそうな表情には、どこかデジャヴュめいたモノがありました。
……そろそろ、夏も終わります。
「東条さん、体の具合は大丈夫?」
「平気です。心配しないでください」
彼は、私の少し後ろを着いてきています。時々顔を覗いてくるのですが、目を合わせると前を向いて、誤魔化すように世間話をするのです。
「そ、そう言えばさ、俺この夏休みにバイクの免許取ったんだ」
「そう、ですか」
大丈夫とは言え、やはり息は切れます。それに、太陽が高く昇ったので気温が増してきました。替えのシャツを持って来たのはいいアイデアだったと思います。
やはり、怒っている様に聞こえるのでしょうか。七橋さんは黙ってしまいました。しかし、今話しかけられてもまともに返す事は出来ません。お互いの為にも、ここは沈黙が良いでしょう。
腕を休めながら進むこと45分、ようやく駅に着きました。電車に乗って降りて、そこから同じくらいの距離を往けば、学校に着きます。帰りも同じことをやるのだと思うと、少し憂鬱になってきますね。
駅員さんを呼んでホームに着くと、回送電車が通り過ぎていきました。勢いに一瞬目を閉じてしまいましたが、今の私にはとても気持ちのいい風です。出来るなら、後二度くらいは通ってほしいものです。
「はい、これ」
突然、目の前に水のペットボトルを差し出されました。どうやら、七橋さんが気を効かせて買ってきてくれたみたいです。
「ありがとう、ございます」
受け取って蓋を捻ると、私はそれを体の中に流し込みました。ひんやりと喉を通っていく感覚が熱を奪って、とても気持ちがいいです。
「凄いね、まさか本当に来れるなんて」
「信じてなかったんですか?」
「ちがっ。そうじゃなくてさ!」
しどろもどろになっていい訳をする姿を見て、少しだけ苛立ってしまいます。
「全く、そう言う時は『よくやったな』と言うモノです。それだから……」
言いながら、私は七橋さんと楓さんを比べている事に気が付きました。我ながら、嫌な女です。
「……ごめん」
何かを察したようで、呟く様に謝る彼の顔はとても悔しそうでした。こういう時、普通は悲しかったり怒ったりするモノだと思います。
「別に怒っていません。そういう性格なのは、ずっと知っているでしょう」
やがて、ホーム内に電車が止まるアナウンスが流れました。車掌さんがホームと電車の隙間を塞ぐ板を引いて、その上を通ろうとすると。
「俺が押すから、東条さん」
そう言って、強引にハンドルを持ちました。車掌さんと張り合ってどうするんですか。
「あ、ありがとうございます」
壁際に止めて見上げた彼の顔は、妙に男らしくて、実を言うと少しだけドキッとしてしまいました。楓さんはいつも笑っていましたから、こういう真剣な表情は見慣れていません。
……きっと、この比べてしまうのはしばらくは止められないのでしょうね。
学校の最寄り駅へ着いてから、一時間程の時間をかけてようやく学校に着きました。校舎へ入ってすぐにシャツを着替えると、ぞろぞろと部員たちが登校してきます。時間は、ちょうどよかったみたいです。
先に職員室へ顔を出して、芦名先生に挨拶をしておく事にしました。ついでに、入部届も出してしまいましょう。因みに、七橋さんはまだここに居ます。
「よく頑張ったね。今日からよろしくね、東条さん」
先生は、夏休みに入ってから凄く綺麗になりました。普段は変わらないのですが、時々憂うような表情を浮かべたり、そうかと思えばとても楽し気に笑ったり。嘗ての頼りない雰囲気は影を潜めて、生徒を導こうと精一杯に頑張っているみたいです。きっと、この夏に何かあったのでしょう。
階段を上り(レールとゴンドラが付いています)、音楽室へ。中へ入ると、クラリネットのチューニングをしていた市島さんがプピュっと音を外し、椅子の上に置くと私の方へ駆けてきました。
「奏ちゃん、来てくれたんだね!」
クラスメイトとして接してと言った次の日から、市島さんは私をこう呼ぶようになりました。
「はい。さっき入部届も出してきました」
「そっか!うわぁ~、奏ちゃんと同じ場所で演奏出来るなんて夢みたい!」
「ちょっと、大袈裟です」
離れようと腕を体の間に挟んだのですが、彼女はそれを気にもせず抱き着いてきました。いつも満面の笑みを浮かべて、私の言葉も全く気にしないその姿は、まるで小さいワンちゃんみたいです。この無邪気な性格には、正直とても救われています。
「うへへ。憧れてたからね~」
騒ぎに気付いた周りの旧友たちも、続々と集まってきました。私は一刻も早くピアノを弾きたかったのですが、こうなってしまってはどうしようもありません。囲まれる事は居心地が悪いですが、話をしていると落ち着くと言う何とも不思議な感情がありました。
「まぁまぁ、東条さんはちょっと疲れてるから。話なら後にしてあげて」
七橋さんが言うと、市島さん以外はそれぞれの場所へ戻って行きました。彼女はと言うと、強引に車椅子を押して私をピアノまで連れて行ってくれました。
「はいっ!それじゃあ、今日も頑張ろうね!」
その後、吹奏楽部は午後の三時まで練習をしていました。やはり腕は落ちていましたが、それでも周りのフォローのお蔭もあって何とかなりました。
部活って、こんなに楽しいモノだったんですね。きっと、今ここにあるモノが幸せなんだって、そう思います。
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