第20話 分水嶺
「……さて、帰るか」
わざとらしく声に出し、飲み過ぎてすっかりブルーになってしまった気持ちに何とか整理を付けると、俺はようやく歩き始めた。こんな感傷、全然俺らしくねえや。
さて、只今の時刻はとケータイを確認すると、まるで狙っていたかのようなタイミングで着信音が鳴った。どうやら、登録外の番号のようだ。
「やあ、こんばんは」
「隼人か。どうしたよ」
「実は今晩の宿が無くてさ、付き合ってよ」
「いいぜ。ちょうど札幌にいる」
「知ってるよ。僕、ちょうど改札を出たところだからね」
言われて振り返ると、そこには確かに隼人の姿があった。ひょっとして、こいつはさっきからしょぼくれた俺の姿を見て楽しんでいたんじゃないだろうか。そうだとすれば、とんでもなく趣味が悪い。
「いやにタイミングがいいな」
「さっき宿り木を捨ててきたんだ。別の女を連れ込んだのがバレてさ」
凄まじい程のクズっぷりだった。まあ、まともな恋愛感情が欠如しているのは、俺と隼人の数少ない共通点だ。そこまでとは言わずとも、俺も人とは思えないような事はたくさんやって来たから、こいつを貶す気にはならない。
自然と近くの居酒屋へ。随分長い間一緒にいたが、こうして酒を飲むのは初めてだ。俺もちょうど醒めてきた所だから、問題なく付き合えるだろう。
生ビールを二杯とおしんこ。注文したのはそれだけだった。隼人は食が細い。
「それで、そろそろ僕の会社に来る気になった?」
「なってねえよ。そもそも、一体何をやってるのかも知らねえし」
届いたジョッキを互いにぶつけ、一気に胃の中へ流し込む。ほとんど同時に中身が無くなったのは、俺も隼人も変な勝負心が働いたからだ。もちろん、この勝負は引き分けだ。おしんこをポリポリとつまんで、苦みを調和してから隼人が口を開いた。
「僕はね、モノの価値そのものを作ってるんだ」
「価値、そのもの?」
「そうさ。例えばこのボールペンを百万円で売る事。下らない就職面接の質問みたいな馬鹿げた話だけどね、それをやってのけるのさ。極論、世の中ってのはどんな事を言うかじゃない。どんな奴がそれを言ったかが大切なんだ。だから、力のある奴が手に入れた無価値のモノは、何億と言う金が動く商材になる。僕は、その世界にいる」
思わず笑ってしまう。呆れや嘲笑ではなく、理解の追いつかないそのスケールにだ。
「詐欺、なんて生易しいモンじゃねえな。まるで裏社会のフィクサーだ」
「どう捉えるかは楓次第だよ」
まさか、こんな世界を揺るがしてしまいそうな大それた計画の一端を、こんな居酒屋のドヤの中で聞く事になるとは思わなかった。隼人でなければ、世迷言としか思われない話だろう。
「聞いてわかったよ。確実に俺には出来ねえ仕事だ」
「楓だけじゃない。この世で、僕にしかできない」
二杯目のジョッキが届く。隼人はそれを再び飲み干すと、口の横を手首で拭った。
「そして、それを理解出来るのは楓だけだ。だから、僕は君が欲しい」
……爺さんと同じプレッシャーを放っていると、そう感じた。きっと、こいつはこの半年でとんでもない修羅場を潜ってきたのだろう。世界を相手に戦って、隼人は今ここにいる。だからこその風格だと、直感で解った。しかし、何故こいつらは他人には理解出来ない考えを俺に聞かせるのだろう。その理由を考えると、衝動をピアノにぶつけたい思いで焦がされそうになる。
それを堪えて生きていくなんて、頭がどうにかなりそうだ。だから。
「ダメだ、悪いな」
「……そっか。まさか、本当に断られるとは思ってなかったよ」
「俺だって、もし奏に出会ってなかったら断れなかったと思ってる」
思わず名前を出してしまったが、もう隼人には正直に話しておくべきだろう。と言うか、こいつに秘密にしたところですぐに白状させられてしまうだろうしな。
そんな雰囲気を察して俺が話すと分かったのか、隼人はハイボールを二杯頼んでその到着を静かに待った。
「俺の仕事ってのはさ、半身不随の女の介護なんだよ」
そして、俺は足りない言葉を必死に紡いで話をした。贖罪の献身は、どこか重なる彼女の為に。そして、俺がこの世界で為すべきことが何なのかを。
「……面白くないね」
「だろうな。世の中、思い通りにならねえ事程ムカつく事はねえよ」
だから好きになる。きっと、隼人も心の中ではわかっている筈だ。だからこそ、こいつは死ぬ気で手に入れた金を手放したくなくて、努力もなく手に入れた女や名声に一切の躊躇がないのだ。
テレビには、流行りのメロドラマが垂れ流されている。画面は俺の後ろにあって音だけが聞こえているが、今しがたヒロインが意中の男に告白をした場面みたいだ。僅かに聞こえるBGMは、どこかで聞き覚えがある。
「一つだけ、訊いてもいいかな」
眉を動かして、了承の合図を送る。
「その奏ってのが幸せになったなら、楓はどうするの?」
「なんも決めてねえよ。一年くらいは、風の吹くままに世界中を旅するだろうけどな。……でも、ピアノだけは弾いていたい」
言うと、隼人はスラックスのポケットから綺麗に折りたたまれたパンフレットの様な紙を取り出して、それをテーブルの上に広げた。
「……英語なんて読めねえぞ」
「この夏にボストンで開催される『ブルースター・ビバップ』のパンフレットさ。実は、僕はこの主催者と知り合いなんだ」
ビバップ。モダン・ジャズの起源と言われている様式の事だ。
「さっき言ってた、『力のある奴』か?」
訊くと、隼人は頷いた。
「僕はこの祭典に、ビジネスをしに行く。元々、実力だけで燻っているトランぺッターをプロモートするつもりだったんだ。そいつを使って、価値そのものを作り出すためにね。……でも、こっちに来て気が変わった。理由は分かるだろ?」
その瞬間、俺の胸が高鳴った。
「楓、自分の実力を試してみないか?僕は、ジャズの本場ボストンでも他に類を見ない最高のステージを用意する。そこで、楓の本当の実力を確かめるんだよ」
気が付くと拳を握りしめ、食い入る様に話を聞いていた。
「もちろん、客に事前情報なんて無しだ。楓を商売の道具にするつもりはないからね。だからこそ、誰の手も借りられない。本当に実力だけで戦う事になる。どうだい?」
体が震える。ひきつったような笑みが自然と零れて、客の数を想像するだけでどうにかなってしまいそうだ。
「……やる。やるに決まってる。絶対にやるぞ」
パンフレットから目を離して、隼人の顔を見た。今までのどの瞬間よりも、真剣な顔をしている。
「分かった。なら次に僕たちが会うのは八月の中旬だ。ペルセウス座流星群が活動するその期間に、ブルースター・ビバップは開催されるからね。安心して。主催者には、必ず話を付けてくる」
恐らくだが、そのトランぺッターを流行らせる為に画策していたビジネスプランが山の様にあるのだろう。隼人は、それを全て蹴って俺を出してくれると言う。ただ、俺の実力を試すためだけに、全てを投げうってくれると言っている。
「知りたいんだ。楓がどこまで行けるのか」
「任せろ。必ずやり遂げて見せる」
そして、俺たちは拳を突き合わせたのだった。
その日、俺たちは夜が明けるまで飲み続けた。明け方、白む空を見上げると、まだそこには刑務所から見上げていた三つの星が輝いていた。その色は、今も変わらず冴えるような美しい青色だ。
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