第19話 献身の意味

 「心配だったんだね」



 撫子が優しく、そして笑顔で言う。水蜜桃の様に甘く、そして俺の揺れた心を掴んで離さない。だからだろう、俺が隠していた本音を言ってしまったのは。



 「……不安でよ。不安で不安で仕方なかった。もし、奏が俺のいない所で傷ついちまったら、俺にはどうしようもねえんじゃねえかって」



 「……少し、抱え過ぎだよ」



 力なく置いた右手を、彼女が掴む。

 


 「東条さんはね、そんなに弱い子じゃないよ。それに、楓君がそうさせたんじゃない。だから、大丈夫だよ」



 呟いて返事をすると、撫子は更に話を続けた。



 「私ね、教育って生徒の可能性を増やす仕事だと思ってる。こんな勉強しても意味がないっていう子もたくさんいるけど、でも、いつか夢を見つけた時にきっと役立つって。今は意味の分からない事も、やりたい事のきっかけになるって。そう思ってる。楓君は、その第一歩を踏み出す勇気を彼女にあげたの。凄い事だよ。0を1にしてあげる事って、中々出来る事じゃないもの」



 照れくさくて、まともに撫子の顔を見る事が出来なかった。次の言葉も見つからず、そして握られた手を放す事も出来ない。



 「……そう言われたら、元気出さねえ訳にはいかねえな!」



 「そうだよ。ほら、もう一回乾杯しよ」



 そういうと、陽気にグラスを持って俺に近づける。目に映ったそれに、ワインをボトルから再び継ぎ足した。動作を挟んでようやく表情に自由が利く事を自覚すると、俺は撫子の顔を見た。頬を僅かに染める紅が美しい。



 「サンキュな。それじゃ、奏の新しい生活に」



 「うん、東条さんの新しい生活に」



 そして、二人でグラスを合わせた。ワインで鳴る自分の喉の音が、脳内に響く。そんな中、撫子が何かを呟いた。



 「何か言ったか?」



 訊いても、彼女は微笑むだけで何も言わない。ワインを飲み、そして肉を頬張ると、「おいしい」とだけ言って目を逸らしてしまう。訊き返したって、きっと教えてくれないのが分かった。年上の女って、やっぱずりいよな。



 ……。



 駅までの道を、二人で並んで歩いていた。ここは繁華街から少し離れた場所で、最寄りの駅は一つ隣の大通りになるのだが、どうしてか撫子は札幌まで歩きたいと言った。



 「美味しかったね。また来ようよ」



 あれから、撫子に「教育とは何か」、と言う話を聞いていた。彼女の考える教育と言うのは、どこか若々しくて、多分な理想論を含んでいるように思えた。爺さんの言う実用的なロジックとも、隼人が唱える天才的な発想とも違うが、しかし確かに惹かれるモノがあった。もしも俺がこんな教師に出会っていたら、何か変わっていたのだろうか。



 ビジネスホテルや商業ビルに挟まれたこの道は、北海道とは言え熱い熱気に包まれている。ダイニングバーのテラスにはたくさんの客が入っていて、どこもかしこも週末を楽しむ雰囲気が漂っている。今しがた居酒屋に入っていった若いサラリーマンたちは、合コンの作戦会議でもしていたのか、誰を取るのかを話し合っていた。羨ましい限りだ。



 「あのさ」



 撫子が静かに呟く。酔っぱらっていて、一歩を踏み出すたびに肩が触れている。



 「えっと、楓君って彼女とかいるの?」



 きっと、今のサラリーマンたちの会話が撫子にも聞こえていたのだろう。



 「いない。この前まで捕まってたからな」



 それでなくとも、今まで壊して奪って生きてきた俺に、そんな人間が出来た事は無い。いくら体を重ねても、心が交わった事など一度もない。



 「そっか。実は、私もいないんだ」



 彼女を見ると、正面を向いていた。時折足元を確認するように視線を降ろすが、相変わらず肩は触れている。



 俺が、



 「お前みたいに優しい女でも、恋人は出来ないモンなんだな」



 「全然出来ないよ。いつもは性格も暗いし、こんなに喋るのもお酒飲んだ時だけ」



 「だったら合コンでも行けばいい。多分だけど、紹介してやれるぞ」



 その辺り、隼人に相談でもすればいくらでも見繕ってくれるだろう。



 「……そういうのじゃないもん」



 わかってる。俺だって、撫子が何を考えているかなんて、ある程度察しはつく。しかし、こいつは今までのバカ共の様に、喰って捨てていいような女ではない。もっとまともな人間と、もっと明るい恋愛をするべきだ。



 気が付くと、俺たちは札幌駅の近くにまで来ていた。自動販売機で水を買って渡すと、撫子は近くのベンチの左側に座った。俺は、立ったままだ。



 「ピアノやってるって言ってたよな。いつからだ?」



 「小学生の頃からずっと。住んでる部屋も、楽器を演奏出来る場所を選んで決めたの。今あるのはエレクトーンだけどね」



 「そうか。一回、撫子の演奏を聞いてみたいモンだな」



 水を飲む。冷たくて、胃の中へ入っていくのがわかった。



 「……えっと。じゃあ、家来る?」



 聞いて、俺はゆっくりとタバコに火を点けた。木の裏側。きっと、ここなら見つからない。最近では湊の為に吸う機会も減ってきたのだが、それでも持ち歩くのはこんな時の為だ。



 「酔っぱらい過ぎだ。後悔したくなきゃやめとけ」



 そう言って、頭を撫でてやる。すっかりこの癖がついてしまった。



 「そ、そっか。えっと、ごめん。変な事言っちゃった」



 飛びついて抱きしめて、愛の告白でもすれば彼女は喜ぶのだろうか。その答えは、俺には分からない。



 「いいや、嬉しいよ。ありがとう」



 紫煙は夜空へ。行く先を見上げると、大きな星が三つ輝いている。刑務所からも、毎晩見上げていた星。冴えるような、青くて美しい星。



 「行こう。今日は付き合ってくれてありがとうな」



 「……うん。こちらこそ、ありがとう。また誘ってね」



 言葉の後、俺は撫子が人ごみの中に消えていくのをずっと見ていた。改札まで送っても、きっとかける言葉が見つからないだろうから。



 俺は、自分が悪党だと知っている。どれだけ明るく取り繕っても、どれだけ世間に奉仕しようと、やはり過去は消すことが出来ない。世の中には施設生まれだろうが親が居なかろうが、まっとうに生きている奴はたくさんいる。そんな中で、堕ちた俺が誰かに幸せにしてもらう事など赦されるはずがない。



 出所してたくさんの心に触れて、それはより顕著なモノとなった。言ってみれば、俺は白いキャンバスに染みついた一滴の墨汁。どれだけ上塗りしても、絶対に消える事は無い。



 ……いや、本当は分かっている。そんなの、俺の自意識過剰だって事。でも、弱い自分を肯定したくなくて、ルサンチマンに浸りたくなくて、だから過去を否定し続ける事で今を生きるフリをしているのだ。だから奏を応援する事で、今の自分を見ない様にしているのだ。結局、幸せへ踏み出す勇気がないのは、他の誰でもない俺だ。



 奏が幸せを手に入れた今、俺を証明することの出来る物はピアノだけだ。だから俺は弾き続ける。いつか、自分を許せる日が来るまで。

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