第18話 油断
階段を上りきったところで、奏の部屋から出てきた爺さんと会った。約束通り、爺さんは家にいる時、必ずこうして奏の部屋に向かい話をしている。内容を聞いた事は一度もなかったが、今日ばかりはどうしても気になってしまった。
「どうだった?」
「どうやら、随分疲れているみたいだ。話をしている間も、何度もあくびを嚙み殺していてね。遂には部屋を出ていく様に言われてしまった」
そう言う爺さんの表情は、どこか嬉しそうだった。
「娘が苦労してんのに、いい顔してるじゃねえか」
訊くと、彼は更に表情を明るくしてこう答えた。
「そりゃそうさ。何せ、奏は『明日も学校だから寝る』、と言ったんだ」
「……そうか!そりゃスキップの一つでもしたくなるな!」
意味を理解するのに少しだけ時間が掛かってしまったが、要するに奏はしっかりと学校に通おうとしているのだ。今までの生活を考えれば、これはとんでもなくデカい一歩だと言える。
「シャンパンを開けよう。楓、少し付き合ってくれないか?」
誘われたその時、トランシーバーの音が鳴った。トイレにでも行くのか、はたまた。
「こいつが終わったら行くよ。待っててくれるか?」
「わかった。それじゃあ食堂で」
こんな調子で、爺さんは何かいい事があると従業員を募り酒を飲む。一週間に一度程度、その度に目ん玉飛び出そうな高級酒とつまみを出してくれるのだが、あんなモンばっかり飲み食いしてたら本当にバカになってしまうんじゃないかと心配になる。(呼び方はいつの間にか変わっていた)
果てさて、今日のブツはどんなもんかと想像しながら歩き、少し上機嫌のまま扉をノックした。
「よう、どうしたよ」
部屋を開けて中へ入ると、奏は間接照明だけを付けてぼんやりと外を眺めていた。枕元には、いつもドレッサーの上に放置してあるケータイ電話。場所の違う理由が、友達と連絡を取り合っていたからだと更に嬉しくなるんだが。
「別に、トイレに行きたくなっただけです」
頷くと、俺はいつもの様に、奏をベッドから降ろそうと両手に抱きかかえた。持ち上げてから足で車椅子を引き寄せる。その瞬間、彼女が大きく息を吸い込んで息を止めた。
「……どうしたよ。落としゃしねえよ」
言うと、奏は何故か俺の首に回す腕に力を込めた。昼の様にしがみ付くわけでもなく、自分の体を寄せるようなわがままな動作だった。
窓が僅かに開いている。カーテンが揺れる。
「ちょっと寒かっただけです。早く乗せてください」
そう言う事らしい。夏も間近とはいえ、下半身の感覚のない奏に取ってそれは普通の事なのだろう。車椅子に乗せてから、窓の隙間を閉じてカーテンを引く。確かではないが、月光で映し出された床の彼女の影のは、俺を見ていた。
「寒くならねえようにな」
よっぽど眠たいようで、頭を撫でると目を少しだけ虚ろにして小さく頷いた。用を済ませ、再度部屋に戻る頃には奏は舟を漕いでいる。これ以上構っていると、明日の活動に支障が出てしまう。だから、俺は夏用の布団(キルトケットと言うらしい)をかけて呟いた。
「おやすみ」
× × ×
「改めて、お疲れ。元気か?」
「うん、元気だよ。えっと、楓君は?」
「もちろん元気。あぁ、飲み物は何がいいよ」
「そうだね。楓君と同じのでいいよ」
言われ、俺はシャンディガフを二杯、それと人気メニューであるブルスケッタの皿に本日のおすすめをアラカルトで注文した。
「なんか、凄くお洒落な注文だね」
「実は、撫子が来る前にメニューを見て意味を調べてたんだ。この方が本場っぽくて楽しいだろ?」
それを聞くと、撫子は笑った。結構イメージや雰囲気で場面を楽しむ俺にとって、こんな役作りは一つのアクセントになってくれる。指でメニューをさすより、店員も分かりやすいだろうしな。
今日は金曜日、美智子さんに断られてしまった例のイタリアンの店に来ている。撫子の予定が埋まっていたら、きっと隼人と来る羽目になっていた。ありがとうな。
少しの間世間話に華を咲かせていると、店員が銀のトレーの上にグラスを二つ。そして、パンの上にサーモンやトマト、オリーブにサラミ等が乗った鮮やかな大皿を一枚。次に、串に刺した赤と白のチーズ、小さめのキッシュ、玉ねぎがたっぷり入ったパイ等の様々な料理を持ってきてくれた。全てが小さいサイズで、好きな物を勝手に取って食べられるようになっている。テーブルの上が色とりどりで、一枚のパッチワークの様になっている。
「わぁ!おいしそうだね!」
そうやって素直に喜ぶ撫子の姿を見ると、俺が作ったわけでもないのについ誇らしげになってしまう。そんな気持ちを抑えると、俺たちは右手にグラスを持って互いに当てた。キンっ、と言う高い音の後で口に含むと、ビールの苦みとジンジャーエールの甘みでリフレッシュされた。
料理に舌鼓を打ちつつ、夏は例年何をしているのかを聞きつつ、そうしてディナーを楽しむうちに、時間は俺が思うよりも早く過ぎていった。気が付けば飲み物は赤ワインになっていて、料理もずっしりと食べ応えのあるラム肉のソテーに移っていった。紙で包み、香草と一緒に焼き上げたラムは肉にしっかりと味が付いている。
骨のついたそれをナイフで切り分けて撫子の皿に移すと、俺はこの一週間の奏の様子を訊く事にした。
「何も変なところはなかったよ。それどころか、勉強の成績だってどちらかと言えば上の方だったかな」
「へえ、そりゃ一安心だ」
「そう言う話、東条さんはお家ではしないの?」
ワインを飲み干し、ボトルからグラスに注ぐ。ついでに、撫子のグラスにも少しだけ加えた。
「あまり。話す事と言えば、音楽の事と俺の昔の事。まあよ、考えてみれば普通の女子高生はおいそれと人に悩みをぶちまけたりしないだろうし、普通なんじゃねえかな」
残っていたオリーブをつまんで、赤ワインで流し込む。さて、これで何本目だったか。
「……そっか。そう言えば、東条さんは結構楓君の話をしているみたいだよ」
口に運ぶ途中でフォークが止まった。刺さりが甘かったようで、ラム肉が取り皿の上にポトリと落ちる。
「俺の話?どうして」
「分からないけど、女の子たちの中心にいる時はそんな感じ。いつも迎えに来てくれるから、友達も気になったんじゃないかな」
確かに。毎日毎日学校に顔を見せていれば、嫌でも気になってくるのだろう。今日なんかは、警備のおっちゃんが気を聞かせて缶コーヒーを奢ってくれたくらいだったしな。
「つーか、あいつが人の輪の中心で話をする姿が想像つかねえ」
「楽しそうだよ。まるで、最初からそうだったみたいに自然で。二年生のお友達とも、仲良くやっているみたい」
撫子が言うのなら、きっとそうなのだろう。昔取った杵柄とでも言うべきか、中学時代のカリスマは健在であるらしい。
「幸せそうか?」
「うん、とっても」
その言葉を聞いた瞬間、肩に乗っていた一つの重りが抜け落ちたかのように、スッと軽くなったのを自覚した。何気ない一言のつもりだったのに。何一つ、意識などしていなかったのに。
「……あれ、どうしたの?」
そして、気が付くと目の奥が熱く、視界が変にブレてしまっている事に気が付いた。俺は急いで目を擦ったが、瞼の裏に残る濡れた感覚は、確かに俺の感情が昂った事を現していた。
「嬉しくてよ。いや、よかった。……本当によかった」
必要以上に感動したのは、きっと酒のせいだ。こんな所、絶対に女に見せるべきなんかじゃないのに。
「悪い、油断した」
何の足しにもならない言い訳をすると、俺は俺を狂わせた赤い液体を飲み干す。ボトルの中には、まだ半分以上も残っているようだ。
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