第16話 シャバの食い物
大丈夫か。なんて事は聞かない。そんな言葉、今の奏にはあの頃の俺ですら言う事はない。雅への言葉に少し違和感があったのは、意識していつも通りに振る舞おうと気を張り詰めていたからだったから。それを考えれば、自ずとやるべきことは分かるはずだ。
「よく頑張ったな」
「そうでしょう?私、あなたが居なくてもやれるんです。全然、あなたなんか必要なんかじゃないんですよ」
その言葉とは裏腹な奏の行動を、俺はしっかりと受け止めた。他に言葉は要らない。人は何かに本気でしがみ付くとき、それ以外は意識の外へ追いやられる事を俺は知っている。例えそれが金であろうと、介護士であろうと。
どれだけの時間、そうしていただろうか。奏が強く掴んでいたからか、シャツに寄せたような皺が出来てしまっている。ようやく離れて立ち上がると、彼女は大きく息を吸い込んでゆっくりと吐き出す。落ち着きを取り戻すと、何枚か積んであるCDを手に取ってその一枚のケースの蓋を開けた。
「ここに来ると、いつも新しい曲があっていいです」
普段通りの感情があるんだかないんだか分からない口調と声色。調子を取り戻してくれたみたいで、俺も一安心だ。
「実はよ、それは俺も初めて聞くんだ」
数日前に買っておいたCD。クラシックではなく、ジャズのインストゥルメンタル(声のない楽器だけの曲の事)のCD。楽器はもちろん、ピアノだ。オムニバス形式で、初心者向けのポップと共に店頭に並んでいたのを見つけたのだ。名前だけなら知っているビル・エヴァンスやデューク・エリントンから現代ジャズの新星までこれ一本で網羅出来ると説明書がしてある。収録曲数が多いのもありがたい。
運転席に乗り込んでエンジンをかけると、奏は身を乗り出して自分でドライブにCDを挿入した。車を走らせて最初に聞こえてきたのは、カフェやバーで流れているようなモダンなモノだった。俺の見た目にはまるで似合わない穏やかで静かな音楽。以前までの俺であれば何とも思わない音程度の認識だったが、今では自分ならどう演奏するかを考えてしまう。
次に進むにつれて、熱く激しいアップテンポの曲が増えてきた。何となくだが、こういう楽し気で爽やかな曲を作っているのは陽気で黒人とかなんじゃねえかなって思う。逆に、静かで慎ましいのは白人って感じがする。きっと、世界に出れば俺のこんな下らない固定観念もぶっ壊してくれるんだろうな。
だが、ジャズ。……ジャズか。悪くねえな。いや、むしろかなりいい。なんていうか、こいつには可能性ってヤツを感じる。嘗めてる訳じゃねえ。むしろ、リスペクトに近い。これなら世界に通用するんじゃねえかって、そんな予感がするんだ。俺なら一体、どうやって弾くだろう。
「……どうしたんですか?」
聞き入り、考え込んでいたせいで奏が暇をしてしまったようだ。顎を引いて、俺の事を見ている。
「あぁ、いや。どうもしねえよ」
「なら、いつ目的の甘いモノのお店に辿り着くと言うんですか?30分は車に乗っていますよ」
気が付かなかった。運転を無意識にこなしていたせいで、いつの間にか見知らぬ場所へ来てしまっている。俺は取り繕う様に適当な話をすると、次の街で目に入った人の列が出来ているファンシーな店の駐車場に車を停めた。ツイてるぜ。
看板や出てくる客の食い物を見るに、どうやらここはクレープ屋のようだが、軒先に並ぶのぼり旗ではタピオカミルクティーとやらをプッシュしているようだった。だが、タピオカってなんだ?どの客が持ってるモンがタピオカなんだ?
「知らないんですか?少し前に流行っていたじゃないですか」
「少し前には刑務所にいたからな」
彼女を車椅子に乗せて店の前へ。店頭のカウンターで購入するスタイルで、中にはいくつかのテーブルが置いてある。内装は白を基調とした作りとなっていて、夏らしい青の飾り付けがしてある。如何にも若い女向けの店と言ったところだ。実際、客も学校帰りの女子高生ばかりで、しれっと列に並んだ俺はバンビの群れに紛れ込んだゴリラと言ったところだろう。
「あそこに並んでいる間に見られるメニューがあるみたいです。取ってきてください」
なるほど、これは賢い。人気店ならではの配慮だな。一度列を離れてメニューの冊子を貰い再び戻る。その際、並んだ女子高生たちの口からいくつかの聞きなれない言葉が
「なあ、バエルってなんだ?」
「……最近、女子高生たちの間で流行っている新しいスイーツです。きっと、ここでも売っているのでしょう」
「へえ。じゃあインスタって?」
「人気の韓国のアイドルグループです。これも女子高生に大人気です」
「そうなのか。じゃあこいつらの話的に言うと、そのアイドルが日本に持ち込んだスイーツみてえなモンなのか」
謎の間。奏は何故かストールで顔を隠し、少しだけ黙ってから「はい」と答えた。
「じゃあよ、あの中で食ってんのがバエルなのか?」
そう言って指を指した先には、シャーベットの様な飲み物(なのか?ケーキにも見える)の上にてんこ盛りのクリームがトッピングされた謎のスイーツがある。あの太いストローで掬って食べるのだろうか。時折クルクルと回しているが、口に運んでいるようには見えない。
「ふふっ。……んんっ。そうです。私、クレープよりもあれが食べたいです」
今の咳払いはなんだ。
「わかった。バエルな」
そして、ようやく俺たちの番が来た。キメキメのスマイルを見せる店員の姉ちゃんが注文を訪ねたから、俺は奏に言われた通りこう答えた。
「バエルってのをくれ」
「……はい?」
素っ頓狂な声を上げる店員。韓国の食い物であれば、俺の発音が間違っていたのだろうか。周りの客と言い方に違いはなかった様に思えるが。
「バエルだよ。あんたんトコの客が食ってる、ぶっといストローの刺さった飲み物」
「……あれは、タピオカドリンクですけど」
「なに?」
思わず聞き返す。その瞬間、奏はタガが外れたかのよう笑い出した。すると、周りで聞いていた客たちも笑い出し、遂には店員まで吹き出してしまっている。さては、嵌められたな。
「あははは!す、すいません。……いちごとチョコのクレープを下さい。後はアイスコーヒーも」
俺をそっちのけで、目を擦りながら低い目線で店員に注文をする奏。こいつら、何が面白いのかさっぱり分からないが、バカにされているのだけは分かった。畜生。
早々にクレープとコーヒーを持って来た店員に金を渡す。すると、戸惑った俺に何かを察したのか、店員はこんなフライヤーを商品と一緒に渡してきた。
「インスタでウチの商品をアップしてくれたら、少しサービスしてるんです。すいません、笑ってしまって」
「……なるほど。そういうことか」
つまり、俺の時代で言うところのミクシーや前略プロフィールが進化した新しいSNSって事か。このインスタグラムでお洒落な投稿をする事を「バエる」という訳だな。くっそ、なんかすっげえ恥ずかしくなってきた。
車に戻る途中も奏は終始ニヤニヤとしていて、乗せるときに正面に立つと、プッと笑いを吹きだしていた。こいつ失礼過ぎないか?
何か凄く悔しくて、だから走り始めてからも俺はずっと黙っていた。しかし、流れる曲が一曲目に戻った時、奏が口を開いた。
「私は頑張ったのに、あんな長い時間黙ってるからですよ。ばか」
そう言う事らしい。言い返したくて仕方なかったが、ここで逆上すればまたいいように弄られるだけだ。だが、また嘘をつかれてはたまったもんじゃない。その内、俺がぶち込まれている間にどう世の中が動いたのかを調べておいた方がいいだろうな。
その後、クレープを食べ終わった奏は家に着くまでの間スヤスヤと眠っていた。学校での疲れが出てきたのだろう。お疲れ様だ。
……結局、タピオカって何だったんだ?
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