「病院坂久々利の暗号」

「先生! 猫目石先生はいらっしゃいますか!」


 私が額に汗を浮かべながら応接間の掃除をしていると、勢いよく扉が開かれ、一人の少女が慌ただしく飛び込んできた。大正浪漫を彷彿させる晴れやかな和服と大きなヒマワリの髪飾りが特徴の、ハイカラな少女である。おそらく玄関からここまで走ってきたのだろう、彼女の息は上がり、本来白いはずだった頬をすっかり紅潮させている。


「猫目石なら留守だよ、時子ちゃん」


 私は箒を壁際に立てかけて、その少女に答えた。

 少女は名前を大和やまと時子ときこという。新首都の一等地に居を構える大企業の令嬢で、猫目石と私が解決した過去の事件で知り合った人物である。非常に好奇心旺盛な少女で、事件が終わった後も理解できない不思議なできごとがあるとこうして、私たちの自宅兼探偵事務所に飛び込んでくるのだ。

 彼女の持ち込む事件の大抵は一見不可思議ではあるもののタネを明かしてみれば単純なものがほとんどであったが、稀に猫目石でさえ唸るような事件であったり、あるいは多額の謝礼金が舞い込んできたりするような事件があるから、私や猫目石はこの少女を邪険にできないでいたのだった。


「あら嫌だ、せっかく大急ぎで飛んできたというのに」


 時子ちゃんは顔を手でパタパタと仰ぎながらソファに座り込んだ。


「まあ、落ち着きなよ。紅茶でもどう?」

「紅茶よりもお水を頂けないかしら。私、すっかり喉が渇いてしまいましたわ」


 私は言われた通り水を汲んできてやると、彼女はそれを一息に飲み干してしまった。


「それで、また何か事件でもあったの? というか、君、今日は学校があったんじゃないのか?」

「あら、もう夏休みですよ、先生。それよりも、大変なのです。猫目石先生はいつ頃戻られますか?」

「さてね、あいつは出かけると何日も帰らないなんてよくあるし……緊急の用事かい?」

「緊急ですよ! それも二つも!」

「一つ目は?」


 私は取り乱すことなく聞き返していた。猫目石に助けを求める人間は、得てして全員が「緊急の用事だ」と言うのだ。この時子ちゃんに関しても例外ではなく、幾度かの調査依頼をしてきた彼女でも毎回のように「緊急の用事だ」と訴えている。とはいえ、応対するこちらにしてみればそれはもはや見慣れた光景であり、今さら慌てふためくようなことはない。それは事業主である猫目石芽衣子が留守の時でも同じである。


「暗号です!」

「暗号」


 なるほど、確かに猫目石が好きそうな話だ。問題はその暗号が誰から誰に宛てられたものなのか、そしてそれは金になるのか――という点だ。ただのいたずらなら猫目石は取り合わないだろうし、金にならない仕事は正直なところ受けたくはない。こんな風に書くとまるで私が金の亡者のように思われるかもしれないが、しかし事務所の経理も担当している身としてはどうしても謝礼金のことを考えざるを得ないのだ。ただでさえ私たちは自由業同然、謝礼金がそのまま生活費に繋がっているのである。

 そんな私の考えや立場を時子ちゃんも理解しているようで、すぐにこう付け加えた。


「勿論、儲け話ですよ。暗号を解いた人にはなんと二泊三日の温泉旅行が贈られます!」

「なるほど、それは確かに豪華だね」


 聞けば旅行先は避暑地で有名なところだそうだ。これはできることなら手に入れて、たまには羽を伸ばしたい。


「それで、その暗号っていうのはどういったものなんだい?」

「これですわ」


 時子ちゃんは明るい桃色の巾着から一枚の紙切れを取り出した。


「商店街謎解きリレー」


 紙切れにはでかでかとそう書かれており、その下にはこのすぐ近くの商店街の地図が載っている。


「そういえば夏祭りがあるって聞いたな」

「そのお祭りの一環で行われるイベントですわ。暗号を順番に解いていって、一番にゴールした人には温泉旅行が贈られる――どうです、猫目石先生が好きそうなイベントじゃありませんこと?」

「確かにそうだけれど、しかし並大抵の暗号じゃ猫目石には太刀打ちできないだろう。あまりに手ごたえがないんじゃ、むしろあいつは不機嫌になると思うのだけれど」

「その点はご安心ください!」

「妙に自信あり気だね」

「この謎解きリレー、午前と午後の部に分かれています。つい先ほど午前の部が終了しました。参加者は五十名以上。ですが、なんとゴールできた人はゼロなのです!」


 商店街側も簡単には景品を出したくはないだろうが、しかしゼロというのも不自然だ。何かインチキがあると疑うのが普通だが。

 時子ちゃんによると先の謎解きリレー午前の部では最終問題まで辿り着いた人間は何人かあったらしい。しかしその全員が、最後の問題をどうしても解き明かすことはできなかった。参加者の中には名門大学の学生や推理作家、退職した元刑事などがいたそうだが、その誰一人として答えには辿り着くことができなかった。


「それがインチキではないのです。それだけは間違いありません」

「どうしてそう言い切れるんだい?」

「最終問題を考えた人物を知っているからですわ。そしてその人物こそ、二つ目の大事件なのですよ!」


 最終問題のステージは商店街の端にある小さな古本屋であった。病院坂古書店と看板が掲げられた昔ながらの古本屋で、私や猫目石も何度も足を運んだことがある店だ。暗号リレーの最終問題を考えたのはその古本屋の娘で、名前を病院坂びょういんざか久々利くくりというらしい。

 私も猫目石もその娘については見知っていた。時折店番を頼まれている少女だ。女学生には見えない落ち着いた雰囲気の娘だった。艶やかな黒髪と眼鏡をかけた知的な顔立ちが特徴で、カウンターで文庫本を読む彼女の姿は実に絵になるものだった。

 しかし当然ながら私たちと彼女は客と店員以上の関係はなく、ましてやその彼女が難しい暗号を作れるとは知る由もなかった。


「時子ちゃんはその病院坂久々利って人を知っているのかい?」

「知っているも何も、有名人じゃないですか!」


 時子ちゃんは腕をぶんぶんと振って熱弁した。

 病院坂久々利は新首都内の女学校に通っている。そこは時子ちゃんが通う学校で、要は相当のお嬢様学校なのであるが、どうしてそんなところに一介の古本屋の娘が通っているのかというと、それは病院坂久々利が優秀であるからということに他ならなかった。


「試験を受ければ全て満点、運動神経も抜群で、文学や芸術への造詣も深い……まるで創作上の人物のようだね」

「先生のすぐ側にも似たようなプロフィールの方がいらっしゃるじゃありませんか」

「残念だけれど、僕の知る名探偵の運動神経はさほど良くはないし、文学や芸術の趣味はかなり偏っているし、最終学歴で言えば高校卒だよ。それに何より人格が大きく破綻している」

「まったく、素直じゃないんだから……」

「事実だから仕方がない。それで話をまとめると、つまりそれだけ優秀な人間が作った暗号問題なのだから、インチキのはずはなく、純粋に難問であるってことだよね」

「先生」


 時子ちゃんがずいと身を乗り出して私の顔を覗き込む。それは明らかに疑いをもった眼差しだ。


「この期に及んでまだ私の話を信じてはくれていないご様子ですね」

「そんなことはないよ」

「いいえ、あります。久々利お姉様よりも、まだ猫目石先生の方が優秀だと思っているのでしょう」

「そりゃあ、まあ」


 付き合いが長い分、信頼があるが……しかし、っていうのは?


「学園の皆は病院坂久々利様のことをそう呼んでいるんですよ。学生議会長も務めていて後輩の面倒見も良いですし、何よりあの凛々しいお姿にはお姉様と呼ぶほかありませんわ」

「ううむ、分からん世界だ……」


 同じ女性であるところの猫目石に聞けば、とも思ったが、きっとあいつも私と同じような反応をするだろう。猫目石が他人のことを尊敬して「お姉様」なんて呼んでいるところはとてもではないが想像し難いし、仮にそういった場面に遭遇したら鳥肌が立つだろう。


「呼び方はともかく、見てみたくはありませんか? 名探偵・猫目石芽衣子と、次代の秀才・病院坂久々利との対決を」

「随分とズルい言い方をするね」


 猫目石芽衣子の伝記作家として、そんな対戦カードは見たくないはずがない。私は猫目石芽衣子の探偵助手や事務所の従業員である以前に、彼女の推理能力に惚れ込んだ一人のファンなのである。


「分かったよ、猫目石には私から伝えておく」

「ありがとうございます、先生!」


 時子ちゃんは素直に喜びの表情を見せたが、その反応はすぐに遮られた。思いもよらぬ乱入者があったからである。


「話は聞かせてもらったよ。この僕に挑戦? 面白いじゃないか」


 ドアを開けて颯爽と登場したのは、興奮を隠せないように破顔させた名探偵・猫目石芽衣子その人であった。




「面白い……実に面白いじゃないか。病院坂久々利、僕のライバルに価するか見定めてやろう」


 商店街への道を行きながら、猫目石はそんなことをぶつぶつと呟いてはニヤニヤとした笑みを浮かべていた。ここのところは途切れることなく事件の依頼があったから、それほど退屈しているとは思えないが、しかし考えてみれば彼女のライバルになり得る人物というと、彼女の実兄を除けばこれまで一人たりとも存在していなかったのだから、今回のように可能性があるだけでも期待してしまうのかもしれない。

 商店街というのは僕たちの住居兼事務所から十分ほど歩いたところにあるアーケードのことだ。全長はおよそ二百メートル、食材や日用品だけでなくあらゆる物が揃う、今時珍しい活気のある商店街である。駅や住宅街とも隣接しているから、この辺りの住民のほとんどが利用していると言っても過言ではないだろう。

 件の病院坂古書店というのは、その商店街のちょうど端に位置する店だった。大きさや品数はそれほどではないが、しかし専門的な書籍であったり稀少価値のある古書だったりが多いため、大学生や研究者、私たちのような読書家が好んで利用している店である。昔からある店とはいえ、最近は景気が良くないらしく、こういった地元のイベントに参加して集客を狙うというのはごく自然のことであった。


「あの娘のことならよく覚えているよ」


 振り返って後ろ向きに歩きながら、猫目石が言った。


「何せこの僕をもってしても、表面的な情報しか読み取ることができなかった人物なのだからね」

「表面的な情報?」

「例えば通っている学校や本人の能力などは読み取ることができた。しかしその一方で彼女の好みや性格という、内面的な要素は不思議なことに一切読み取ることができなかったのだよ。いや、というよりといった方が良いかもしれないね。僕はつい彼女がアンドロイドの類なのではないかと思ってしまうほどだったよ」


 猫目石の言うことも何となく理解することができた。確かにあの病院坂久々利という少女には、どこか浮世離れした雰囲気がある。あの美貌も相まって、造りものと言われても信じてしまいそうだ。


「久々利お姉様にだって人間らしいエピソードの一つや二つはありますよ」


 と、時子ちゃんが横から口を挟んだ。


「例えば?」

「実は小動物が好きで、捨て犬に餌をやっているところが何度か目撃されています。それにこの前の家庭科の授業では調理実習に失敗してしまってお料理を焦がしてしまっただとか」


 それを聞いて私と猫目石は思わず顔を見合わせた。私が違和感を抱いたのと同じように、猫目石もまた同じものを感じたらしかった。


「時子君、君、そのエピソードはあまりに嘘くさいとは思わなかったのかい?」

「嘘なんかじゃありませんわ! 実際に何人も目撃者がいらっしゃいますのよ!」

「君の話が嘘だなんて言ってないさ。ただし、それらが病院坂久々利による狂言という可能性がある。僕にはね、時子君、それらの逸話は病院坂久々利が、自分が人間であると主張するために演じたものではないかと思えてならないのだよ」

「久々利お姉様はロボットなんかじゃありませんわ」

「くっくっく、もちろん、それは分かっているさ。第一、現代の科学力をもってしてもあれだけ人間に近いアンドロイドや人工知能は作れないだろう。あれは単に底が知れないってだけさ」


 僕と同じようにね、と猫目石が付け加えた。

 いわゆる変人や奇人といった人たちは、傍目から見れば天才と紙一重なのだ。私は猫目石と知り合ってから、喫茶店「沈黙」や、あるいは数々の事件でそういった通常とは異なる感性を持つ人間たちと度々出会ってきたが、しかし彼らが天才であるか、あるいはただの変人であるかはちょっとやそっとじゃ見分けることなどできなかった。


「ひどいわ、猫目石先生ったら、どうしても久々利お姉様を人外にしようってことなのですね」

「とんでもない! 僕はむしろ歓喜しているのだよ。それに時子君、君に一つ良いことを教えておいてやろう」


 いいかい、と猫目石はずいと時子ちゃんの顔を覗き込んだ。


「真に危険な人間というのは、一見して穏やかで頼りがいのある人物なのだよ。彼らは騙し、擬態し、見事なまでにこの現代社会に紛れ込んでいる。君たち一般人から見れば彼らは天使のようかもしれないが、しかし同族の僕には分かる。――彼らは悪魔そのものさ」


 ――そして悪魔が生み出す謎は、同じ悪魔にしか解き明かすことはできない。


 いつかの事件で猫目石が放った言葉だ。私はこの言葉がひどく印象に残っている。悪魔は名探偵になることはできても、ヒーローになることはできない。しかし私は知っている。名探偵・猫目石芽衣子は確かに非情な面もあるが、その実、心の底では正義を信じているのだ。

 そんな彼女が悪意も善意も関係なしに、純粋に頭脳勝負ができる相手――これはかなり貴重な相手だ。猫目石ではないが、助手の私でさえ興奮が抑えられない。

 そんなことを考えていると、間もなくして商店街が見えてきた。ここまで来ればもはや病院坂古書店はもうすぐ目の前である。




 予想通り、商店街はいつも以上の賑わいを見せていた。この街にこんなに人が暮らしていたのかと思うほどに。しかし時子ちゃんの話によるとこの人数が夜の花火大会の時には一気に会場へ移り、商店街はむしろいつもより静かになるというのだから驚きだ。


「猫目石、なんだか私はすごく帰りたくなってきたのだけれど」

「奇遇だな、僕も同じ意見だ」

「何をおっしゃっているんですか、二人とも。メインはこれからじゃありませんか!」


 元来こういった人混みが好きではない私と猫目石が嘆くと、時子ちゃんが我々の間に入って手を引いた。

 周りは浴衣や法被を着た人々で溢れかえっている。時子ちゃんは今日を見越してか和服を着ているからさほど目立たないが、しかし私は普段着であるし、何より猫目石の今日の格好は男子用の学生服に学生帽を被ったものだから、かなり浮いているのは言うまでもない。


「お二人とも、もう少しお洒落をしたら良いのに。今はこういった和服でもワンタッチで着たり脱いだりできるから便利ですよ」

「ファッションは結局のところ一周回ってくるというが、まさか今になって和服がブームになるとはね」

「何を年寄りめいたことを言っているのですか。猫目石先生は、顔はお綺麗なのだから勿体ないですわよ。それに今はリバイバルが流行の要なんです。歌にしたって昭和歌謡が再評価されていますし」

「そのうちレコードが良いなんて言い出すぞ」


 猫目石芽衣子はこういった流行だとか人々の関心の移り変わりだとかにはとんと疎い性格をしていた。だからこうして時子ちゃんと流行について話している時はいつもひどくげんなりとした表情を浮かべる。時子ちゃんはある種、猫目石兄よりも猫目石の天敵なり得るのではないかと思ってしまうほどだ。


「先生も先生ですわ!」


 話の矛先が唐突に私に向けられて驚いた。


「身近にこんな逸材がいるのに、どうして綺麗な服を着せようとなさらないのですか」

「私にそんなことを言われても……あくまで本人の意思を尊重すべきじゃないかな」

「それは凡人に限った話。猫目石先生ほどの美しさならば、もっと磨いてやりたいと思うのが男心の自然ですわよ」

「まさか現役の女学生に男心について講釈されるとは思わなかったよ。とはいえ、猫目石と私はあくまでビジネスパートナー、服装にまでとやかく言うつもりはない」


 まあ、強いて言えば家にいる時でももうちょっとまともな格好をして欲しいけれど。人目を――特に私の目を気にしない猫目石は、下手をすれば下着姿で家を歩き回りかねない。一応、いつ依頼人がやってくるか分からないからと釘を刺してはいるが、とにかく猫目石芽衣子のプライベートに関してはだらしがないことこの上ないのである。

 大和時子という少女は、まるで戦後復興の申し子だという印象を受ける。あらゆる文化の最先端を行き、明るく、常に未来を生きている。これこそが私や猫目石が戦場で戦って守ったものだと思えば、あの悪夢のような日々もそう悪くないと思えてしまう。


「病院坂久々利について、君の印象を聞いておきたいな」


 猫目石がそう話を戻した。私は改めて病院坂久々利という少女の記憶を辿る。

 第一に思ったのは、大和時子との比較である。天真爛漫を絵にかいたような時子ちゃんと比較すると、病院坂久々利はかなり落ち着いた印象を受ける。いや、同年代の学生ならばむしろ時子ちゃんのような性格が(あそこまで極端ではないにしろ)一般的だろうが、しかし病院坂久々利はそれより遥かに大人びて感じる。

 同じく天才的な女史という点で、猫目石芽衣子と比較するとどうだろうか。実年齢が分かりにくいという点でも共通はしているが、しかしプライベートが壊滅的な猫目石と違って、病院坂久々利は私生活まで完璧に近いという気がする。あくまで私個人の受ける印象ではあるが。

 雰囲気で言えば、どちらかというと知人の捜査官――犬吠埼咲枝氏に近いような気がする。知的で物静かといった雰囲気である。犬吠埼氏と比較した時に最も大きな違いは、きっとといった点だろう。病院坂久々利の他人への視線には、対象への人間的興味が皆無のような印象を受ける。


「あ、そうか」


 ふと、私の中に病院坂久々利への、非常に腑に落ちる印象というのが浮かんだ。あの女史は、猫目石芽衣子と犬吠埼咲枝を足して割ったようなものなのだ。知的でありながら他人と交わることを好んでいない。きっと学校ではそういった性分を隠し通しているのだろうが、しかし人を見ることを生業としている私や猫目石の目を誤魔化すことはできない。


「サイコパスだ」


 猫目石が私の中にある病院坂久々利への印象を一言でまとめてくれた。


「優れた能力を持ちながら、他者に共感することのない精神病質だ。他者をコントロールすることに長け、その正体を決して現すことがない」

「そんな……久々利お姉様はサイコパスなんかじゃありませんわ。大体、サイコパスというのは反社会性パーソナリティ障害で、悪人であるというのが定義でしょう? お姉様は悪人なんかじゃありませんもの」

「この場合、悪か善かは関係ない。この国では人を殺せば罪だが、戦場ではそれが称賛される。それに素質で言えば百人に一人はサイコパスなり得る人物がいるとされているし、性質や特徴だけで見れば医者や政治家に多いと聞く。つまり病院坂久々利は他人への非共感性を、あくまでプラスのことに活かしているに過ぎないのさ」

「つまり君と同じってわけだな、猫目石」

「探偵と犯罪者は常に犯罪方法について考えているという点では一致しているからね。悪か善かなんて、要は向いている方向次第ってわけだ」


 医者も同じだ。猟奇殺人者は他人を切り刻むが、それは外科医も同じだ。目的が違うだけである。


「猫目石先生はお姉様がいつか罪を犯すとお思いなのですか?」

「どうだろうね、人がどうなるかは結果論でしか語れない。サイコパス性っていうのは分かりやすいその辺の精神疾患とは違うからね、この辺りはむしろ咲枝の得意分野なのだけれど……現状の病院坂久々利と見ると、彼女の場合はむしろその性質を活かして生きていきそうだっていう印象だ」

「とは言え、政治家や医者が犯罪をしないとも限らない」

「その通り。だから病院坂久々利が将来的にどうなるかは、この僕をもってしても予測は困難なんだ。ただ一つ、確かに言えるのは、仮に彼女が犯罪に手を染めるとしたら、それはきっとかなり手強い事件になるだろうね。無論、そうなれば僕が解き明かすまでだが」


 猫目石芽衣子の断言に、彼女自身はむしろ期待しているのではないかと感じざるを得なかった。




 病院坂古書店の前にはある種異様な空気が流れていた。普段の様子からは考えられないほどの人だかりが店の正面にできあがっている。異様さを醸し出しているのはその人数というより、むしろ一人一人の雰囲気の方である。おそらく私や猫目石のように、午前の部の噂を聞きつけたのだろう、「頭脳に自信あり」と顔に書いてあるような人ばかりが数十人集まっていた。

 やがて開始の時刻になり、人だかりの前に一人の男が拡声器を持って現れた。この中年男性にも覚えがあり、あれはこの古書店の店主だ。


「本日は商店街夏祭りに参加いただき、誠にありがとうございます。私は最終ステージ、病院坂古書店の店長の病院坂幸太郎と申します。それでは、今から皆さまに問題用紙をお配いたします」


 男が目配せすると、運営スタッフらしき数人が登場し、問題用紙を配り始めた。私たちはそれを受け取って時子ちゃんを見たが、どうやら問題の内容は午前の部と全く同じらしいということだった。


「制限時間は今から一時間後の午後四時とさせていただきます。また、午前の部での結果も踏まえまして、ここまでのステージをクリアしていなくともこの問題に挑戦できることといたします。もちろん、正解すれば商品の方はお渡しいたしますのでご安心ください」


 正解者がゼロというのではイカサマを疑われてしまう。だからこの最後のルールはそれを防ぐための、一種の救済処置なのだろうが、私に言わせてみれば「絶対に解けないだろう」という運営側の物言わぬ自信に思えることだった。


「どうだ猫目石、解けそうか?」

「面白い暗号だ。見たまえ」


 猫目石が暗号の書かれた紙を差し出した。それは以下の通りである。


「12三、34五、44二、34五、14一、9四、3四、22一、38二、20一、11三、34五」


 奇妙な数字の羅列が書かれていた。見たところ二種類の数字の組み合わせで成立している暗号のようだが……。


「漢数字の方は比較的小さなものばかりですわね。最大でも五ですから」

「二種類の数字の組み合わせで何か心当たりは?」


 猫目石の問いかけに、私と時子ちゃんが答える。


「そうだな……将棋の棋譜とか?」

「将棋の棋譜に登場する数字は最大でも9ですわ。でもこの暗号では12や34が登場しているから、棋譜ではありませんわね」

「君って将棋もできるわけ?」

「アマチュア三段程度の実力ですけれど」

「地方の大会で優勝を狙えるレベルって相当だけれどね。相変わらず多趣味のようだ」

「それよりも、私はこれを“字変四八の奥義”だと思うんですけれど」


 また渋い暗号を持ち出してきたもんだ。

 暗号とは何もミステリー小説のみに使われてきたわけではない。言ってしまえば我々が携帯端末でメッセージをやり取りするのも電子的な暗号を利用しているのと同じようなものだ。そしてメッセージに暗号を用いるのは昔から同じで、例えば、かの戦国大名「上杉謙信」もやり取りに暗号を用いている。それが時子ちゃんの言う“字変四八の奥義”だ。

 “字変四八の奥義”を簡単に説明すると、五十音(昔で言ういろはにほへとの四十八音)の縦軸と横軸にそれぞれ数字が割り振られ、縦と横の組み合わせで特定の文字を示すというものだ。


「ですがそれに気づいた人間は私も含め、午前の部には何人もいました。でも、その全員は不正解だったのです」

「そりゃそうだろう、君を含め、そいつらは大事なことを見落としている」


 言いながら、猫目石は暗号の書かれた用紙を裏返した。

 暗号文の裏側には病院坂古書店の宣伝チラシになっていた。いや、そもそも宣伝チラシの裏側を用紙に利用したのだろうか。その順序は分からないが、しかしこのチラシが一体どうしたというのだろう。


「これはメッセージだよ、暗号製作者――病院坂久々利からのね」

「宣伝するのは普通のことだろう? この夏祭りやイベントも商店街を盛り上げるために行われている」

「相手を一級の知能犯と推定してプロファイリングするんだ。そうでなければ病院坂久々利には勝てない」

「つまりこのチラシに何か手がかりがあると?」

「知能犯はどこかに自分の痕跡をわざと残すものだ。自己顕示欲を満たすためにね。犯罪に及んでも、必ずどこかに手がかりを残す。まるで謎を解いてくれと言っているかのように」

「だが、これはただのチラシに見えるぞ」


 チラシには古書店の目玉商品である専門書の数々や、あるいは高価買取中という宣伝文句があるだけで、古書店のチラシとしては至って普通に見える。第一、チラシの方を用意しているのは病院坂久々利ではなく、店主である彼女の父親の方なのではないだろうか。


「その通りだ。だがしかし、病院坂久々利はその内容を事前に知ることができる。あるいはアドバイスといった形である程度内容を誘導することも可能だろう」

「チラシに書かれているのは難しい専門書ばかりですわね」

「専門書は除外だ。一般人、あるいはこの謎解きイベントに参加するであろうミステリー好きなら、まず内容を知っている――そんな本はないか」

「これはどうだ」


 私が指さした部分には横溝正史の金田一耕助シリーズが何作品か紹介されていた。無論「病院坂の首くくりの家」も含まれており、店名と絡めて紹介されている。金田一耕助ならば一般人でも知っている可能性は高いし、ミステリー好きならまず知っているだろう。


「よし、金田一シリーズだ」


 猫目石が古書店に駆け出し、私たちもそれに続いた。




 我々が駆け付けた横溝正史のコーナーには、とてもではないが信じられない光景が広がっていた。そこには暗号を解き明かすヒントはおろか、本も残されていなかったのである。


「どういうことだ」


 これにはさすがの猫目石も面食らったようで狼狽を隠せない様子だった。それもそのはずで、私と猫目石はこの古書店の常連なのだからある程度在庫状況も把握している。横溝正史の小説は稀に売れることはあっても、基本的には慢性的な在庫過多だったはずだ。


「店主さんからお話を聞いてきました」


 時子ちゃんがパタパタと駆けてきた。


「何でも、午前の部で金田一耕助シリーズに目をつけた人がいたみたいです。といっても猫目石先生のように推理したのではなく、店名から連想して何となくだったらしいのですけれど」

「そいつが全部買ったって言うのか!」

「いえ、その人物が購入したのは一冊だけで、釣られた他の参加者が残りのシリーズを購入したそうです」

「ハイエナどもめ……!」


 猫目石が憎たらしそうに歯噛みした。

 しかし、まあ、立ち読みではなく購入しただけ、私はマシだと思うが。

 古書店では基本的に立ち読みを嫌う店が多い。この病院坂古書店も例外ではなく壁には「立ち読み禁止」とでかでかと貼りだされている。立ち読みをしたらその本は購入する、その本でなくとも何らかの形で店に金を落とす――というのは常連の中では暗黙のルールとなっていた。

 店内を見渡すと猫目石のように横溝正史作品に目をつけていたであろう他の客が肩を落としたり悔しがったりしているのが見えた。中には謎解きを早々に諦めて店内の商品を物色している者までいる。私の内心も既に暗号から離れつつあり、他の本に目移りしそうな気持ちだった。無論、そんなことを猫目石に言えば激怒すること間違いないのだから口には出さないが。


「暗号……古書店……何か関連があるはずなんだ!」


 猫目石はすっかり謎解きに夢中なようで、狭い本棚と本棚の間をせわしなく歩き回っている。なるほど、確かにこの病院坂久々利は強敵だ。猫目石をここまで焦燥させた犯人が、かつて存在していただろうか。偽装工作をする者は確かに多かったが、その全てを猫目石は看破してきた。そんな名探偵に、ここまで手がかりを掴ませない人物は、少なくとも私の記憶には存在していなかった。

 さて、その病院坂久々利が現在どういった状況にあるかというと、その眼鏡をかけた知的な美少女は、イベント効果で次々と現れる客のレジ対応に追われていた。手元は忙しそうに動き続けているが愛想が崩れることはなく、また釣り銭の渡し間違いなどもないようだ。購入された本にブックカバーをかける彼女の手先の動きは実に優雅で(この店は中古書店では珍しく、ブックカバーをつけてくれるサービスがある)、長い時間見ていても飽きないほどである。この古書店がこれほどまでに混雑することはまずないだろうに、彼女の応対はこれ以上にないほどに落ち着き、完璧なものだった。


「僕がこの数列を見た時、最初に思い至ったのは“ホイッテカー年鑑”だ。君なら知っているだろう?」

「そりゃあ、もちろん」


 今にして思えば私と猫目石が最初に出会った時の謎も暗号で、それも数字の組み合わせによるものだった。あの暗号を私はシャーロック・ホームズの「死を呼ぶ暗号」に登場するような、つまり鍵となる本のページ数や文字数を示すものだと予想したが、しかし真実は異なっていた。


「書店と数字の暗号だ、鍵本の可能性を考えるのは当たり前だ。そうでなくとも、何か本に絡めた謎に違いない」

「だが、どうする。目をつけていた正史は完売状態だ。鍵本なしじゃあ、どうしようもないぞ」

「本そのものでしたら、別の書店で購入すれば良いのではないでしょうか」

「……今、何て言った?」


 猫目石が時子ちゃんの方を見返す。


「いえ、ですから、同じ本が他の書店に売っているのではないかと申し上げたのですが。駅前の新刊書店ならニ十分もあれば買って戻って来られますわ」

「そうだけど、そうじゃない!」


 猫目石が何か思いついたようで、パンと手を打った。


「確かに鍵本なら手に入る。だがそれはこのイベントの趣旨から外れるじゃないか!」

「どういうことだ、猫目石」

「このイベントは商店街を、そしてこの古書店の売上を上げるためのものだったはずだ。しかし新刊書店で購入されては売上が出ない」

「それに新刊書店は駅を挟んで向こう側だから、厳密には商店街には含まれないな」

「原点に帰ろう。暗号製作者――病院坂久々利を観察するんだ」

「観察って言ったって……」


 私は再びレジにいる病院坂久々利を見たが、相変わらず接客に追われているだけで、他に大きな手掛かりがあるとも思えなかった。


「火事だ!」


 唐突に猫目石が叫んだ。時子ちゃんがびくりと肩を震わせ、猫目石の方を振り返る。それは他の客や、病院坂久々利も同様であった。


「見ろ」


 猫目石が呟くように告げ、私は慌てて病院坂久々利に視線を戻す。彼女の目は一瞬だけ猫目石を見たかと思うと、その次の瞬間には現代小説が並ぶ棚に向けられていた。


「失礼。今のは勘違いです。皆さんどうぞ謎解きや買い物を楽しんでください」


 猫目石が満面の笑みで言うと、他の客たちは未だ不審がっているようだったが、とりあえずは自分の行動へと戻っていった。


「人は突発的な危機に陥ると視線を大切なものが隠されている方へ向けてしまうものだ」

「ホームズも言っていたな」

「相手は現代日本のアイリーン・アドラーだよ。彼女の視線がどちらへ向いたか見たか?」

「ばっちり。現代小説の方を向いていた。あの棚は作者の五十音順に並んでいるから、ちょうどタ行からハ行のところだ」

「よし、行ってみよう」


 私たちが新たに目指した棚は、この盛況ぶりだから何冊かは売れているようだが、しかし十分に本が残されたままであった。


「しかし、一体この棚に何があると言うんだ」

「見たところ、チラシに載っている本はありませんわね」


 暗号文の裏のチラシと棚を見比べていた時子ちゃんがそう告げた。

 その棚は現代小説が並んでいるが、逆に言ってしまえばつまり際立った特徴のない棚と言える。稀少本やサイン本はない。しかし私にとってはとても重要な本がそこにはあった。


「驚いたな」

「何か気になることでも?」

「私の本が置いてある」


 私が指さしたのは昨年刊行した「特区令嬢誘拐事件」だった。内容はほとんど事実に則っているから“小説”のコーナーにあるのは些か不本意だが、しかしこうして広く親しまれているところを見ると、やはり作者としては嬉しい感情を抑えられないものだ。


「君、よく考えてみたまえよ。古本屋でいくら売られたとしても、作者や出版社には一切金が入ってこないんだぞ」

「それはそうか。怒るべき?」

「作者としては怒ったり悲しんだりするのが一般的じゃないかな。まあ、お人よしの君のことだから、むしろご機嫌になってサインでも書いてやりたい気分なのかもしれんがね」


 猫目石は心底呆れかえっている表情だ。そんなやりとりを聞いて時子ちゃんも苦笑している。


「実際に書いたら怒られるかな」

「正確には器物破損にあたるが、まあ、良いんじゃないか。本の価値が下がるわけじゃなし」

「そうかな」


 私は意気揚々と自著を手に取り、奥付のページを開いた。


「おい、猫目石」

「何だ。サインペンなら持っていないぞ。レジに行って借りてくるんだな」

「違うんだ。これを見てくれ!」


 私はすっかりと本棚を観察するのに夢中になっている猫目石の眼前に、その自著を突き出した。


「くそ……! やられた」


 猫目石が見たことのない表情を浮かべていた。唇を噛みしめ、両肩は小刻みに震えている。


 ――私のお気に入りは「ドイル、ルブラン、ポー」です。


 奥付のあるページには一枚にメッセージカードが挟まれていた。宛名は私と猫目石で、差出人の名前はない。だがしかし、私たちにはそれが誰から贈られたものなのか、それを推測するのは簡単なことだった。




「思えば奴は最初から、僕たちの登場を予想していたように思える」


 ソファの上で膝を抱え、小さく背中を丸めた猫目石がようやく口を開いて呟いたのはそんなことだった。

 商店街主催の謎解きイベントは盛況のまま幕を下ろしたが、結局のところ病院坂久々利の謎を解き明かした者は現れなかった。タイムアップ直前、猫目石は散々駄々をこねたが時間の延長はなく、つい先ほどまで拗ねてふて寝していた始末である。


「僕の間違いは、僕という名探偵の優秀さと知名度を計算に入れることができなかったことだ。謎解きイベントを主催しようというのだから、近所に住む名探偵の存在は当然ながら計算に入れていたはずさ」


 確かにここのところは猫目石芽衣子の知名度もうなぎ上りであり、依頼も絶えず来ているような状態だ。だから猫目石や私がこの辺りに住んでいることを知っている人間は多いだろうし、あの病院坂古書店には何度も足を運んでいるのだから、警戒されていて然りだ。しかしそれを差し引いても、あの猫目石芽衣子という人間を出し抜いたのだから、やはり病院坂久々利は紛れもなく優秀な人間なのは確かだろう。


 ――私は「ドイル、ルブラン、ポー」が好きです。


 病院坂久々利の暗号は、ホイッテカー年鑑を思わせるものだったが、それも含めて彼女の策略――誘導だったのではあるまいか。ちょうど私が「ドイル、ルブラン、ポー」の事件で体験したように、暗号の真実はもっと別のところにあったのではないだろうか。イベントが終了した今となっては、もはや確かめる術はないのだが。

 時刻は夜の七時。遠くから花火大会の音が聞こえてくる。


「腹が減った」


 猫目石がソファに転がりながら呟いた。


「何か作ろうか?」


 私が立ち上がると、その我儘な雇用主はふるふると首を横に振った。


「祭りの空気にてられたかな。わたあめが食べたい。それかりんご飴」

「とにかく甘いものだな。分かった。ちょっと買ってくるよ」


 大きな通りにでも出ればきっとすぐに屋台か何か見つかるだろう。そんなことを思いながら私は家を出た。ところが門を出たところで郵便受けに何かが入っていたので私は足を止めた。こんな仕事をしていると時たま危険物などが届くのだが、見たところそれはただの文庫本のようだった。

 文庫本は二冊あり、病院坂古書店のブックカバーがかけられていた。表紙をめくるとそれは上下巻の本でタイトルを見て私は大急ぎで家に身を翻した。


「病院坂の首くくりの家!」


 私は部屋へ飛び込み、投函された二冊の文庫本を猫目石に突き出した。横溝正史の小説――「病院坂の首くくりの家」。こんなものを、それも今日に限って投函する人間は、私の勘が正しければ一人しかいないはずだ。


「これが郵便受けに?」


 私から文庫本を受け取った猫目石が眉をひそめた。しかしすぐにはっと顔を上げ、その小さな体躯をソファから跳ね上げた。


「このブックカバーは!」

「お前も知っているだろう、病院坂古書店で無料で配られているものだ。見たところ、通常のカバーと変わらないようだけれど」


 病院坂古書店は古書店としては珍しく、文庫本を買うとブックカバーをつけてくれるサービスがある。ブックカバーは商店街の宣伝を兼ねてのことだろう、簡略化されたアーケードの地図が描かれているものだった。


「何で気付かなかったんだ! そうか、全て分かったぞ!」

「分かったって何が?」

「暗号!」


 猫目石はせわしなく室内を歩き回り始めた。頬を紅潮させ、鼻息も荒い。


「鍵本は、まさにこのカバーだったのだよ!」

「本じゃなくか?」

「本なら売れてしまう可能性がある。イベントで人が集まれば尚更だ。かといって新刊書店に客を回すわけにもいかない。だがしかし、このカバーなら話は別だ。余分に用意しているはず。本を買えばつけてくれるし、買わずとも言えば一枚くらいは無料でもらえるだろう。参加者全員に平等にチャンスがある。ここに暗号を解くヒントがあったんだ!」


 見たまえ、と猫目石は暗号が書かれた紙を取り出した。


「この暗号のアラビア数字は何番目の店か、そして漢数字は何文字目かを取り上げるかを示しているんだ」

「その法則によると、この暗号文は――」

「くそっ、やられた、やられた!」


 猫目石は文庫本と暗号文を放り投げて駆け出した。私も慌ててその後を追いかける。


「どこに行くっていうんだ」

「病院坂古書店だ! 答え合わせをしてくる!」

「答えって?」

「あいつはとことんホームズのホイッテカー年鑑を真似ているんだ。鍵本が年鑑じゃなくてブックカバーってことを除いてね。それでいて、あいつは自分が名探偵・猫目石芽衣子にとってどんな存在なのか、どんな存在になるであろう人物なのか理解している」

「どんな人物かだって?」

「アイリーン・アドラーだ!」


 シャーロック・ホームズを唯一出し抜き、彼の関心を引き続けた女性――アイリーン。確かに話の流れで病院坂久々利をアイリーンに例えたが。


「暗号を解くとこうだ。“こ、ん、ば、ん、は、ね、こ、め、い、し、さ、ん”! あの暗号は初めから僕に贈られたものだったんだ!」

「アイリーンが最後にホームズに贈った言葉だ」

「あいつは物語のアイリーン同様、旅に出ようとしている」

「二泊三日の温泉旅行か」


 本来は謎解きイベントの景品だったものだ。


「旅に出られる前に、確かめてやる!」


 猫目石芽衣子が玄関から飛び出した。

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