顔の半分が焼けただれた男は、唐突にその姿を消失させたのだ。
依頼人・真壁佳代氏が働いているのは新首都にある私立のW大学というところである。彼女はそこで非常勤講師として大学生に古典文学を教えているのだという。受講者数は多くはないが、生徒たちからの人気は上々であると、彼女の同僚の講師は語った。
「でも、どうしてそんなことを聞くんです?」
その男性講師は些か訝しむような眼で私を見た。無理もないだろう、突然訪ねてきた見ず知らずの男がいれば、それを怪しむのが普通だ。しかし私ももう探偵助手を務めて一年以上が経過している。こういった相手に話を聞くのはもう慣れてしまっている。
私は少しでも警戒を解くべく、できる限りの愛想笑いを浮かべてこう言った。
「実は彼女の生徒さんたちに依頼をされまして」
「依頼というと?」
「何でもサプライズで先生にプレゼントを贈りたいと。それで、先生の好きなものや、何か面白いエピソードなどがないか調べて欲しいと。ああ、申し遅れました、私、受講者の親戚のものです。可愛い姪っ子のために一肌脱ごうといった次第なんですよ」
「生徒さんの御親戚の方ですか……失礼ですが、どなたの御親戚で?」
この質問も予想済みというより経験済みである。私はずいとその男性講師の前に顔を突き出した。
「ほら、この顔に見覚えありません? 周りの人間からは姪っ子とよく似ていると言われるのですが」
「……もしかして、田辺さんの?」
「そうです、そうです、いつも姪っ子がお世話になっております!」
無論、私にそんな親戚はいない。これは猫目石に教授してもらった探偵術で、コールド・リーディングという心理学に基づいた技術だ。わざと曖昧なことを言い、むしろ相手の方に語らせるというもので、優秀な探偵は事情聴取でこの技術を上手く用いているらしい。
「ああ、そういえば、最近真壁さんが何か悩みを抱えているということはありませんか?」
「彼女の悩み?」
「ええ、姪っ子が言うにはどうにも最近真壁さんの溜め息が増えたと。心配しているんですよ。どうです、何か思い当たることはありませんか」
「そう言われましても……」
「どんな些細なことでも構いません。私としては、要は姪っ子を納得させることができればそれで良いのですから。どうです、何か心当たりはありませんか?」
「そういえば、最近恋人ができたんじゃないかって噂を聞きましたね」
「恋人、ですか」
「ええ。ほら、彼女けっこう美人でしょ? だから僕ら男性職員の中じゃあ、度々話に上がるんですよ」
「相手はどんな方です?」
「さあ、そこまでは……あくまで噂ですからね。それに恋人ができたっていうのも、彼女が最近いつに増してお洒落をしているだとか、帰るのがやけに早いだとか、そういったことからの憶測でしかないものですよ」
「なるほど。いや、どうもありがとう」
あまり長く話すのは良くない。私はその男性職員にもう一度礼を言ってその場を後にした。
有力とは言えないまでも一つの手がかりを発見したのは上出来だった。依頼人である真壁氏に恋人がいたのだとすると、なぜその人物に相談せず探偵の元を訪れたのだろう。仮に噂が根も葉もないものだったとして、なぜ周囲の人間はそのような誤認識をしたのだろうか。これは十分に調べてみる価値がありそうだ。
そんなことを考えながら廊下を歩いていると、不意に肩を掴まれ、強引に物陰に引きずり込まれそうになった。真壁氏の父親がついに実力行使で捜査妨害に出たか! 私は掴んできた腕をとると、訓練した通り、それを関節技の要領で組み伏せた。いやに抵抗が弱いな、と感じてその腕の主に視線を向けると、そこにいたのは屈強な男ではなく、むしろ吹けば飛んでしまいそうな枯れ木のような老人の姿であった。
「あなたは一体誰だ。なぜこのようなことをするのです」
私は相手の腕を抑え込んだまま質問を投げかけた。老人は苦しそうに呻いたかと思うと、ようやく細々とした声で答えた。
「嬢ちゃんを付け回す怪しい男め……」
死に際の恨み言のような言葉だった。嬢ちゃんというのは真壁氏のことだろう、そしてこの老男性は私を真壁氏を付け回すストーカーと勘違いしているのだ。それを察した私は老人の腕の拘束を解いた。
「誤解です。私は真壁さんの味方だ。彼女に頼まれて、その付け人の正体を探っているのです」
「嘘を言うな! さっき彼女のことを嗅ぎまわっているのを、わしは確かに聞いたのだ」
「犯人と彼女には何か接点があるはずなのです。それを探るのがまずは正道でしょう」
私の言葉と態度が説得力を持っていたのだろう。老人は数秒、真偽を確かめるように私を睨みつけていたが、やがてその視線を不意に逸らした。
「ついて来い。わしの知っていることを話してやろう」
私は歩きだした老人に続くことにした。
老人の名前は
「嬢ちゃんに頼まれたと言っていたが、お前は何者だ」
私は自分の名前と、猫目石探偵事務所というところで働いているということを老人に説明した。私自身は正確には探偵ではなく、事務員の扱いなのだが、まあ、嘘は言っていないのでよしとしよう。
「ふん、素人探偵か」
真壁氏の父親ではないが、しかし警察以外にも私たちのような存在を嫌う人間はいるらしい。
「ご存知ありませんか、昨年起きた秋葉原経済特区での誘拐事件。あれを解決したのは当事務所なのですよ」
私は「特区令嬢誘拐事件」の他にも世間で知られていそうな猫目石の成果を挙げて、これが当事務所の実力です、と何とか信頼を得ようと努力した。その努力が実を結んだのかどうかは分からないが、垣田老人は少しずつ真壁氏に関することを話してくれるようになった。
垣田老人がまず語ったのは真壁氏の人となりで、要は彼女はどんな人間にも分け隔てなく接する心優しい女性であるということだった。老人は一年ほど前、大学の中庭の草を刈っている時に声をかけられたのがきっかけで偶に話す仲になったのだという。真壁氏も相手がただの年寄りということもあってかえって話しやすかったのだろう、日ごろの悩みなども打ち明けていたということだった。
「ということは、あなたは真壁さんの付け人に関しても聞いていたわけですね。一体どんな人でしたか」
相手の人物は一貫して正体不明であり、それは真壁氏自身も何も知らないというところから明らかではあるが、視点を変えればあるいは何か違ったものが見えてくるのではないかと思い、老人に尋ねてみた。
「真壁嬢ちゃんは、気味の悪い男だと言っていたよ。色白で細身、背は高いが背中を丸めて歩くから、まるで幽霊みたいだってな」
「なぜ真壁さんはそれを私たちに話してくれなかったのだろう」
「見たのは一度だけだから、きっと見間違いだろうって、本人は言っていたぞ」
「見間違いですか……ところで垣田さんはその人物を目撃したのですか。あなたの口ぶりだと、まるでご自分でも見たような印象を受けるのですが」
垣田老人は俯き、お茶を一口飲みこむと、ゆっくりと頷いた。
「ありゃあ、半年ほど前、夏の夜のことだった。講師連中は講義の準備やら何やらで夜遅くまで残ることがあるんだ。でも嬢ちゃんはいつも早く帰ってた。ところがその晩は、どうしても仕事が終わらなかったんだろうな、夜の遅い時間に、嬢ちゃんがこの用務員室の前を通ったんだよ」
垣田老人の視線につられて私も窓の外へ視線を向けた。用務員室の窓から見える屋外はちょうど大学の中庭で、講師陣の部屋と図書館をつなぐちょっとした近道になっているようだった。
「夜でもあそこを通る講師や教授連中はたまにいる。だが、真壁の嬢ちゃんが夜中に通ったのを見たのは初めてだった。あれ、と思ったわしは窓に寄って外を見てみたんだ。そうしたら、嬢ちゃんが通ったすぐ後に、窓の前をその男が通ったんだ」
「それが真壁さんの付け人ですね」
垣田老人はその時に相当の恐怖を覚えたようで、それを思い出して今でもわずかに肩を震わせていた。
「奴さんもこの部屋に人がいるとは思わなかったんだろう、窓のすぐ前を通ったんだよ……ありゃあ、人間じゃねえ!」
「人間じゃない?」
「まさに悪鬼ってやつだ。背が高くて色白ってのは嬢ちゃんから聞いてはいたが、それ以上に不気味なもんが、奴の顔面にはあったんだよ! きっと戦場で負った傷なんだろう、フードを目深に被った奴の顔の右半分は焼けただれていたんだ! それだけじゃねえ、目をギラギラと血走らせ、鼻息は荒く、牙は獣のように鋭かった! それが突然目の前に現れたもんだから、さしものわしも恐ろしくて恐ろしくて……」
それっきり垣田老人はすっかり閉口してしまった。私は彼が落ち着くのを少し待つことにした。数分待って、ようやく老人の震えが収まってきたのを見計らい、私はお茶を一口飲んでから口を開いた。
「その人物は、その後どこへ?」
「さあ……わしに見られたのに気が付いたんだろう、走って逃げて行ったよ」
「真壁さんはその付け人のことを誰かに相談していたのでしょうか。例えば恋人や父親なんかに」
「いや、本人も見間違えかもしれないって言っていたくらいだから、誰にも言っていないと思うが」
「真壁さんに恋人がいたという噂があるのですが、その人物にも言っていなかったのでしょうか」
「分からんが、少なくともわしは何も聞いておらんね」
「ふむ」
探偵事務所に相談に来るくらいだから、誰かに相談しているとは思うのだが。この目の前の老人だけに話していたのだろうか。あるいはあの父親はどうだろう。端から見ればあれは一種の乱暴者だが、しかし実の娘に対してもそうであったかは分からない。いずれにせよ、私たちはもう少し依頼人である真壁佳代氏について知るべきだろう。
そんなことを考えていた矢先、垣根老人が突然「あっ」と声を上げた。彼の視線の先を見て、私も思わず息を呑んだ。驚くことに、そこには顔の半分がただれた男がいたのだ!
私は慌てて窓に駆け寄った。フードを深く被ったその人物は、以前の垣根老人の時と同じように身を翻し、走り出した。
「待て!」
私は窓を開けて飛び越えると、その賊の後を追いかけた。賊は大学の中庭を図書館方面に駆け抜けていく。しかし向かっているのは正面入り口ではなく裏口の方だろう。これもまた猫目石に教わった探偵術なのだが、建物に入る時はあらかじめ構造を頭に入れておくのだ。その成果あって私は賊がどこへ向かっているのか簡単に予測することができた。奴はおそらく図書館の裏口を超えたところにある一般駐車場へ向かっているのだろう。そこには生徒や外部の人間が車を停めておけるスペースがあり、あいつはそこに逃走用の車を用意しているに違いない。つまり私は何とかして、奴が車に乗り込む前に確保する必要があった。
予想通り、男が角を曲がった。この先にあるのは図書館の裏口、そして駐車場だ。幸い速度はこちらが上だ。距離は縮まってきている。
しかし、次の瞬間、とんでもないことが発生した。角を曲がった私の視界から、その男が消えたのだ。
「馬鹿な……」
図書館内に入ったのか! そう直感した私は裏口に飛び込んだ。
図書館の中はいたって静か、平穏そのもの。何人かの生徒が何やら書きものをしていたり本を読んでいたりしている。慌てて飛び込んだ私の方がむしろ場違いな感じだ。私はその中をゆっくりと進み、怪しい人物がいないか見て回った。ところが、そこには賊どころか、たった今走ってきたような人物は誰もいなかったのである!
顔の半分が焼けただれた男は、唐突にその姿を消失させたのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます