「貴様がMs.Mだな」

 ひとまずK教授や小鳥遊少年のことを伝えるために私はホテルに戻った。事の顛末を聞かされた世界各国の優秀な捜査官たちは動揺を隠せない様子であったが、すぐに協力を申し出てくれた。一つだけ懸念していたのは、実質的に世界中で指名手配状態の猫目石のことだったが――


「ミス・クリソベリル! お会いできて光栄です」


 むしろ全員がすすんで握手を求めるほどであった。


「あの、皆さんニュースはご覧になっていないんですか?」

「賞金がかかったことですか? 無論知っていますよ」


 ミリガン教授が答えた。そして次の言葉は捜査官全員が声を揃えていったものである。


「「そんなのデマに決まっているじゃないですか」」


 私と猫目石は一瞬目を丸くしたが、猫目石はすぐに納得したようで「なるほど、これは確かにK先生の弟子だな」と笑っていた。

 それから私たちは今後の捜査体制について話し合った。ひとまず信じられるのはこの場にいる面々だけであるということを伝え、K教授と同じように各国で何か手がかりがないか探して欲しいと申請した。


「こいつはまだ確定した情報じゃねえんだが」


 そう前置きして話し出したのはヒースロー氏である。


「テイラーが殺されたのはやっぱり事件の手がかりを掴んだからだろう? だから俺なりにCIAの連中をつついてみたんだ。そしたら連中こんな情報を隠してやがった」


 そう言って彼が配ったのは数枚の紙で、そこに書かれていたことによると、謎の組織は戦前に破壊されたウェブシステム――通称「旧ネットオールド・ウェブ」を使って情報のやり取りをしているらしいということだった。

 人類の最大の発明は何か? という問いかけにネットワーク――つまりウェブの開発と答える人間がいる。確かに一理ある発言だが、残念なことにその人類の英知は、同じ人類によって一度崩壊を迎えることになる。とある天才的なプログラマーが対策不可能なウイルスソフトを開発したのだ。その結果、たとえどれだけ強固なセキュリティを持つ組織でもネットを使うことができなくなり、一時は連絡技術が第二次世界大戦以前にまで戻されてしまったと唱える専門家もおり、そこから発生した経済的負債は第三次世界大戦が引き起こされた要因の一つとも考えられている。


「Ms.Mは世界中の犯罪組織をまとめ上げる存在だ。その中には戦前のテロ組織が含まれていても不思議じゃあないな」

「そ、それならK先生の端末とかを調べれば何かて、手がかりがあるかも」

「どういうことです?」

「K先生は、そ、そういったネットや情報の破壊というのを予見していたようなんです。だから事前にネットの代わりになるシステムを開発していた、い、いや、正確には先生の知り合いに、開発を依頼していたという話だったんですが」

「その結果できたのは現在我々が使用している通称・新ネットニュー・ウェブなんです」


 ミリガン教授がウィリアム氏の説明を補完する。


「K教授の端末ならここにあります」


 私は懐からK教授の携帯端末を取り出した。手がかりになるかもしれないと猫目石に指示されていたのだ。しかし起動してみたところでロックがかかっていたのでどうしたものかと考えていたところだった。


「そ、それくらいのロックなら、僕の知り合いに頼めばすぐに解除できると思います」

「よし、すぐに連絡してくれ。時間がないからリモートで解除してもらおう」


 ウィリアム氏が頷き、自身の端末を取り出した。

 が、彼が連絡をとることは叶わなかった。

 会議室の扉が勢いよく開かれ、迷彩服を身にまとった男たちが突入してきた。侵入者たちはそれぞれ銃を装備し、上半身には防弾チョッキを着ている。顔はマスクとゴーグルで覆われているため、それぞれの視線や表情の変化を読み取ることすら難しい。荒くれものの襲撃――というよりは統制のとれた軍隊の突入に近かった。彼らの正体や目的など考えるまでもない。

 我々はすぐに拘束されてしまった。そして最後に部屋に入ってきた男が徐にマスクを外した。現れた顔は無精ひげを生やした中年の男だった。いかにも軍隊出身だと言わんばかりの雰囲気である。


「猫目石芽衣子というのは?」

「僕だが」


 後ろ手に拘束された猫目石は一切臆することなく返事をした。


「まさかこんな小娘がターゲットとはな」

「ターゲット?」

「うちのボスがお前をご指名だ。それからその端末を回収してこいというお達しさ。つまらん任務だよ」

「……」

「睨みつけているだけじゃなく、何か言い返してこないのか? もっとおしゃべりな奴だと聞いていたが」

「それはこちらの台詞だ。傭兵にしちゃ随分とお喋りなやつだな。お陰でお前たちのボスの居所の手がかりがつかめたぞ」

「ふん、でたらめを言うな」

「でたらめなんかじゃないさ」


 猫目石は相変わらず自信満々だが、私には彼女の本意が分かっていた。これは時間稼ぎだ。今こうしている間にも彼女の冴えわたる頭脳は考えを巡らせ、この危機を脱する方法を探っているに違いない。いや、既に答えは出ているのかもしれない。とにかく猫目石芽衣子というのはそういう人間なのだから、その助手である私にできることは意識を集中することしかない。こういった会話の中にも彼女は何らかのヒントや指示を出しているかもしれない。いざ彼女が行動を起こした時、集中していなければ同調できるものもできないだろう。

 今この場で武器を持っているのは私と猫目石だけだ。あるいはヒースロー氏あたりはキリロフ氏やミュラー少佐のように銃を持ち込んでいるかもしれないが、不確定な情報を信用するわけにもいかないだろう。


「まずは臭いだ。君たちの一部からは独特の臭いがしている。葉巻の臭いだな。これはインドの南部でしか取れない葉を使っているな。つまり君たちは大陸から来た傭兵ということになる。それは君の日焼け具合から見ても明らかだろう。それに銃の扱いに長けている。きちんとした訓練を受けていた証拠だ、つまり元軍人。しかしフォーメーションに若干の乱れがあったな、これはいただけない。まあ、仕方のないことだとは思うがね、何せ君たちは一つの軍からの脱走兵じゃあなく、様々な国の脱走兵が集まった傭兵団なのだから」

「……」


 今度は相手の隊長が沈黙になる番であった。猫目石の口撃は尚も止まらない。


「現在日本中の交通機関はストップし、国民はむやみに国外や県外に移動できないようになっている。だから君たちの移動方法は車だろうが、運転できる者は九人中三人しかいなかったようだ。姿勢や疲労感などから読み取れる。ところでなぜたった三人なのかといえば、日本車――つまり左ハンドルに慣れていないからだ。とすれば大半はアメリカ人だろう。では国外の人間がどうやって日本に侵入したのか、答えはずばり船だ」


 猫目石の言葉に何かヒントが隠されているはずだ。私はそれとなく周囲を見回した。偶然だろうか、ウィリアム氏と目が合った――いや、これは偶然ではない。おそらく彼も私と同様、この場を切り抜ける策を練っている最中のはずだ。

 気が付けば他の面々も同じである。唯一異なる行動をしているのはヒースロー氏だけだった。彼は苛立ちを隠せないようで右足を小刻みに揺すっていた。

 いや――!

 私は視線を正面の壁に向けた。そこには時計がかかっており、それは拘束された我々が揃ってみることができた。

 あと五秒……!

 秒針がカチカチと静かに時を刻んでいる。高まる動悸を抑えようと、私は密かに息を吸った。

 三……二……一……!

 全員が一斉に相手部隊への反撃を開始した。ある者は蹴りを繰り出し、ある者は頭突きをして、相手部隊の一瞬の隙を捻出する――と同時に扉や窓が一斉に外から破られ、小さな黒い物体が飛び込んできた。

 黒い物体は一気に煙を吐き出し、それと同時にさらに何人もの武装を施した人間が突入を開始する。それは私からすればある種見慣れたもので、つまり警察の突入部隊であった。

 突入部隊の鎮圧の手腕は実に見事なもので、現場はものの数秒で彼らの制圧下におかれた。何より称賛したいのは、警察突入部隊はもちろんのこと、誰一人として現場で発砲を許さなかったのだ。無血制圧――それこそまさに彼らの実力の最たる証明に価するのではなかろうか。


「先生! ご無事ですか!」


 後から入ってきた大柄の中年男性が地面に伏せていた私を抱き起した。それは突入部隊以上に私の見知った顔である猪俣警部その人である。私を除く他の面々も救出されたようで私は安堵した。


「ミスター・ヒースロー、お見事です」


 私は拘束を解かれたそのFBI捜査官に称賛の声を投げかけた。


「こちらこそ、先生に伝わって良かった。我々K先生門下はともかく、先生に伝わるかどうかが唯一の懸念だったので」


 あの時現場で何が起こったのか。一番窓際にいたのはヒースロー氏であった。そこで彼は警察特殊部隊による指向性の音声を受け取ったのだ。それはつまり何時何分丁度に突入を開始するというもので、当然ながら音を向けた特定の人物しか受け取ることのできない情報であった。問題はそれを室内の人間に共有する術だが、ヒースロー氏は貧乏ゆすりに見せかけたモールス信号でそれを成し遂げたのだ。


「先生が壁の時計を見た時、伝わっていると確信しましたよ」


 モールス信号については猫目石から言われて勉強していた。もしもの時の連絡手段として。それがまさかこんな時に役に立つとは。


「さて――」


 猫目石がゆらりと立ち上がった。


「やあ、猪俣警部、久方ぶりだね」

「猫目石殿もご無事で何よりです」

「その様子では私は少なくとも日本警察の間では指名手配になっていないようで安心したよ。ところで指揮官はもしかして」

「ええ、犬吠埼捜査官であります」


 と、答えるのと同時に後ろからツカツカと近づく足音があった。歩調から既に凛とした雰囲気が伝わってくる。


「国外からのトンボ帰りは大変だっただろう、咲枝」

「あんたほどじゃないわよ。まったく、相変わらず人使いが荒いんだから」


 その眼鏡の美女――犬吠埼捜査官は文句を言いながらも表情は猫目石の無事を喜んでいるようだった。しかし私に「猫目石に気をつけろ」と言ったのは犬吠埼氏自身だったはずだ。それがこの態度は一体どういったことだろう。


「先生もご存知でしょうが、芽衣子は一々手の込んだことをやりたがるんですよ。私が外国大使の殺人事件を調査していたのはご存知ですね?」

「もちろんです」

「芽衣子はそれに先んじてその事件の調査をしていたのですよ。そして現場に私にしか読み解くことのできないメッセージを残した」

「正確には咲枝だけでなく、K先生門下にしか分からないメッセージだがね」


 猫目石が言うにはMs.Mの組織は想定よりも巨大で、K先生門下が一切捜査に手だしできないように根回しがされていたらしかった。しかし犬吠埼氏はK先生門下ではない――のだが、猫目石によってある程度の技術と知識が共有されている。猫目石は犬吠埼氏が遅れて現場に到着することを予想し、あらかじめ彼女にしか分からない“指示”を残していたのだという。


「指示の具体的な内容はこういうものでした――一つ、猫目石芽衣子を大使殺害の重要参考人として賞金をかけること。二つ、その上でその身柄を日本警察、つまり犬吠埼咲枝が確保したと発表すること。三つ、おそらくK教授の元に刺客が差し向けられるだろうからK教授とその協力者の身柄を保護すること――つまり芽衣子は初めから大使殺害と誘拐事件を結び付け、一方を私に、そしてもう一方をK教授に捜査を進めてもらう作戦を立てていたのですよ」

「猫目石の指名手配に関してはどういった意味があるんです?」

「その質問には僕が答えよう」


 そう言うと猫目石は得意げに我々の前に躍り出た。


「まず初めに、K教授門下の中で裏切り者がいるということを、僕はあらかじめK先生によって聞かされていたんだ。それが誰かまでは分からなかったけれど、そもそもそんなことが可能なのかが疑問だった。『探偵と犯罪者は真逆のようでしかし常に犯罪について思案しているという点では一致している』というのはK教授の教えなのだが、先生は弟子にする前にその人物の過去を徹底的に洗い、そして直接面談をするようにしていたんだ。だから最初から犯罪的思考を持つ人間が弟子になることはあり得ない。つまり裏切り者は弟子になった後に犯罪組織に加担することになるのだが、ではそのきっかけは一体何なのだろう? そう考えた時一つの仮説が生まれた。Ms.Mによる悪の道への勧誘だ。だが逆に言えばそこからMs.Mの思考回路の一角を覗き見ることができた。奴は自分の敵が、それも自分と同じような能力ややり方を持っている人間が見過ごせないんだ。だから僕はその思考回路に罠を張ることに決めた。世界的凶悪犯罪が実は優秀で信頼できる探偵によるものだった――というのが奴の筋書きで、本来は僕やK教授を犯人に仕立て上げるつもりだったが、しかしそこに先んじて猫目石芽衣子を犯人として指名手配する者が現れた。ならばMs.Mがそいつを放っておくわけがない」

「まさかMs.Mから何かコンタクトが?」

「必ずあるはずだ。そしてその通信手段に関してはK先生が鍵を握っていたんだ」

旧ネットオールド・ウェブか!」

は暗黒の海を航海するためのコンパスなのさ」


 言いながら猫目石はK教授の携帯端末を起動した。保存されている数多の事件ファイルの中からまるで初めから知っていたかのように、否、運命で定められていたかのようにMs.Mのファイルへと辿り着いてみせた。


「これが今回の事件の全てを解き明かす鍵だ!」


 見つけたのは旧ネットオールド・ウェブのURL――その先には犯罪計画や犯罪方法について書かれたサイトが無数に存在していた。


「まさかK教授がこれほどまでの犯罪計画を事前に察知していただなんて……!」


 隣での覗き込んでいた犬吠埼氏が驚愕した。いや、彼女だけではない。猫目石も含め、この場にいた全員がK教授の犯罪捜査に関する手腕と執念に、もはや畏怖の念を抱いていた。その時私は確信した。小鳥遊少年が言っていたように、K教授は間違いなく何度も世界の危機を救ってきた英雄であり、世界で最高の名探偵であったのだ。


「無論、ここにあるのは全てが実行可能・実行済みの犯罪というわけではないだろうね。K先生は重要度の高いものを選択して調査にあたっていたようだよ。そうでもしなければMs.Mや組織の中心人物を捕まえることはできないからね。それに、裏切り者がどこに潜んでいるのか分からない以上、迂闊に動くのは得策ではない」

「犯罪組織を泳がせていたというわけでありますな」

「その通りだ、ようやく睡眠から目を覚ましたようだな猪俣警部。さて――」


 猫目石は目的のサイトを見つけたようだった。タイトルは「第四次世界大戦勃発の手引き」。まるで安いSF小説の題名のようだと私は思った。


「コンパスがなければどうせ誰も辿り着けないんだ、タイトルに拘る必要はない。……よし、子供たちの監禁場所が分かったぞ!」


 猫目石が顔を上げ、ヒースロー氏たちを含めたこの場の全員に呼びかけた。


「諸君! これまで我々を守ってくれたK先生はもういない! だからこれからは僕たちの手でこの世界を守っていかなければならない。僕は探偵だ。ヒーローではない。しかし悪を滅ぼし、善良な市民を守ろうという意思は警察組織の君たちと同じつもりだ。僕は命がけでMs.Mを捕らえることを誓おう。だから諸君! どうか誘拐された子供たちを救うのに協力してくれ!」


 警官たちが返事をし、我々も大きく頷いていた。


「ば、場所を教えてください。ロンドン警視庁スコットランドヤードとMI6に知らせます」

「欧米方面は任せろ。FBIにCIA、ICPOまで信頼できる仲間に情報を共有する」

「ロシアには私から呼びかけましょう。K教授の弟子時代の仲間がいますから」


 ヒースロー氏、ウィリアム氏、そしてミリガン教授がそう申し出てくれたので、我々はその言葉に甘えることにした。サイトの情報によると敵の拠点は全世界で十か所。ほぼ時間差なく人質奪還作戦を実行しなければ、他の場所の人質に危険が及ぶだろう。


「日本の拠点には我々が向かいます」

「私たちはどうする、猫目石」

「人質の救出は我々の仕事じゃない。Ms.Mを追うに決まっているじゃないか!」


 はっきり言ってしまえば我々はかなりの危機に直面していると言えるだろう。しかしその時の猫目石の表情というと、私がこれまで見てきた中で最も嬉々としたものであった。今にも飛び上がって踊りだしそうなほどである。

 しかしその時、我々にとって信じられない――いや、信じたくはない事態が起こった。


「画面を!」


 犬吠埼氏の声で私はK教授の端末画面に視線を戻した。

 つい今の今までありとあらゆる犯罪方法が記されていたはずの画面は暗転し、しばらくすると正面を向いた椅子が映し出された。見たところどこかの部屋で、机の上のウェブカメラからライブ中継されているような映像である。

 部屋はピンク一色と言っていいような状態であった。背景に映る壁紙はピンクだし、中央の椅子や、その他映っている小物の悉くがファンシーなピンク一色である。壁際にある棚に飾られている熊のぬいぐるみだけが唯一その部屋でピンク色でない物体であった。


「誰かの部屋か? 見たところ女の部屋のようですが」


 と、猪俣警部が呟いた。女性の部屋と見立てるのは容易いが、しかしここまであからさまだとある種狂気じみたものを感じる。可愛いものが好きな女性は多いだろうが、部屋の中をほとんど一つの色で埋め尽くす女性はそうはいるまい。

 映し出される景色はすぐにまた移り変わった。というより、一人の人物が登場したのだ。それは我々の見立て通り、女性であった。想像と大きくかけ離れていたのはむしろその容姿の方で(私は他人の容姿をあれこれ言うのは好きではないのだが、あえて読者諸君に分かりやすいように描写すると)、思わずぎょっとするような、見たこともない醜女であった。年齢の方は分からないが、若くはないようだ。彼女の顔は加齢による皺と肥満による肉が波を打ち、黒色の髪の毛はボサボサである。何より印象深いのはそのような見た目であるにも関わらず服装は白と黒とを基調にしたゴシックなロリータ服であり、そのミスマッチな感覚がよりいっそう見るものを不快に――というより不気味な印象を与えている。爛々と血走ったような眼差し――その一つは義眼のようで、その定まらない視点が彼女の思考の方向をさらに覆い隠し、理解不能な存在へと演出している。口元からは空腹な肉食獣のように涎が垂れ流しにされているが、私にはむしろ得体の知れない怪物か、あるいは地球外から訪問してきた新生物のように見えてならなかった。

 醜女の目がぎょろぎょろと左右に揺れ、私はようやくその映像が一方向的なものでなく、向こうにもこちらが見えている双方向のものだと理解した。我々の顔ぶれを一通り嘗め回すように見た後、彼女は恐ろしく低くしゃがれた声で笑ってみせた。

 彼女が何者なのか、我々の中には一つの共通する直感があったのだが、しかし奇妙なことにそれを指摘しようにも身体が動かなかったのだ。まるでこの画面の向こうに鎮座する怪物の魔術によって行動が制限されているような、金縛りにも似た感覚があった。


「貴様がMs.Mだな」


 我々の硬直を破ったのは、やはり猫目石芽衣子であった。彼女はいつもと変わらぬ得意げな口調である。


「そういうあんたは猫目石芽衣子だね。噂通り小さくて可愛らしいお嬢さんだ。俺様の若いころにそっくりだぜ」


 一人称は「俺様」か。性別がどうあれ(正直に言うと性別が本当に女性であるかどうかも怪しい)、男にせよ女にせよ自分に自信を持つ傲慢な性格のようだった。


「僕はてっきりMs.Mは絶世の美人と想像していたが、珍しく推理が外れたようだ。これほど醜い女は見たことがない。というより、君は本当に人間なのか? エイリアンか魔物だと言われた方がまだ信じられる」

「見え見えの挑発は止めてもっと建設的な話がしたい――というのはさておき、そうやって心理の奥底を覗き込もうとするのがK教授式の推理方法だったか。俺に言わせてもらえば、ひどく無駄なやり方だがな。人間の奥底なんてものは誰にも見破ることができないのさ。お前たちが見ているのは思考から現れる身体的特徴の傾向でしかないんだぜ? そのやり方じゃあ、真に頭のおかしい犯人は捕まえることはできないだろうよ」

「その言い方だと、まるで君自身が頭のいかれた犯罪者のようだが」

「ノンノン。真に頭のいかれた犯罪者ってのは、自分がいかれていることに気付いていないもんだぜ? まあ、俺様にしてみればお前たちの方がおかしいがね。悪を滅ぼすためにお前たちが日夜どれだけの努力をしているかは俺も知っているつもりだが、例えば一つの犯罪方法を見破るのに三日かかるが、俺様が一つの犯罪計画を立てるのに必要なのは大体一日さ。それに俺様は無能な連中に犯罪方法を授けるだけじゃあないぜ? 俺のところにこんな犯罪方法はどうですか? って売り込みにくる連中だっている。つまり何が言いたいかっていうと、お前たちはどうやったって悪に追いつくことはできないわけ」

「いや、我々はいつか君たちに追いつき、悪は滅びることになる」

「なぜそう言い切れる?」

「人間はを愛する生き物だからだ。正義のためなら人殺しだって平気でやるのが人間さ。僕はあの戦争でそういう光景を十分すぎるほど目にしてきた」

「あー、はいはい、あの世界大戦ね。世界とか言われても、どうにも俺様にはピンとこないんだわ。何せちょっとしたボードゲーム感覚であの戦争を起こしたもんだからな。おかげでこっちは大儲けだったが、そちらさんは大変だったのかな? ああ、それと、お前の言葉を一つだけ訂正しておきたいんだが、人間が愛するのはじゃあねえぜ。人間が愛するのはさ。そのためなら何だってするのが人間だ。まあ、大抵の人間は能力がないからどっかで妥協するんだろうがな」


 Ms.Mはそう言うとまた低くしゃがれた声で笑ってみせた。その姿を見て私はかつて祖母に聞かされた童話を思い出していた。ジャバウォッキー――『鏡の国のアリス』に登場する恐ろしい怪物で、言葉を司るとされるその存在はまさにこのMs.Mそのものだ。


「なぜ小鳥遊少年を巻き込んだ。彼はただ不幸な少年だっただけなのに、なぜ犯罪者の道なんかに」

「うっせーな、誰だよお前は! ……っと、もしかしたら猫目石芽衣子の記録係か? ああ、なるほどねえ。噂は聞いていたが、まさかこんな冴えないおっさんだったとは。ええと、何だっけ、小鳥遊? 誰だそいつ」

「K教授の最後の弟子だ。お前が悪の道に誘い込んだ」

「あー、はいはい、あの少年ね。可愛かったなあ。こんな俺様でも思わず母性に目覚めそうになっちまったぜ。いや、あいつを育てたのは実質俺様みたいなものか」

「育てた?」

「実験だよ、実験。天才的な犯罪者は人工的に作れるっていう仮説に基づく行動さ。K先生のやってたことの応用だ。人工的に犯罪捜査のプロフェッショナルが作れるのなら、人工的に天才的な犯罪者も作れるってことだろ? だからさ、俺様はまだ三つにもなってない子供たちを誘拐してだな、戦地に送り込んだわけだ。そしたらお見事、人工的に人殺しのプロを生むことに成功したってわけ。まあ、結局はお前らみたいなのに負けるようなぼんくらになっちまったがね」


 Ms.Mは一切悪びれることなくそう言うと、また大きく口を開けて笑ってみせた。

 小鳥遊少年の人生は、全てこいつに操られていたのだ。私はそれが堪らなく許せなかった。人生に理不尽はつきものだが、それは個人の意思であってはならないはずだ。神や運命――人間にはどうすることもできない大きな存在によって定められるもので、ただ一人の悪によってそれが成されるというのは、絶対にあってはならない。

 小鳥遊少年だって、初めの誘拐さえなければ今頃はごく普通の少年として生き、両親に愛され、そして未来に希望を抱くことだってできたはずではないか。


「まあ、いいじゃないか、どうせ死んだ人間だ。K先生しかり、小鳥遊とかいうガキしかり、ニンゲン死んでしまえばそこでお終いさ。それに正義がどうだの、悪がどうだのなんてどれだけ議論したところで答えなんてでないさ。明らかな時間の無駄だね。それよりも、だ。猫目石芽衣子、俺様と一つゲームをしようじゃねえか」

「ゲーム?」

「お前らが見つけ出した子供たち――そのうちの一人を別の場所に移した。他の連中は助けるなり見殺しにするなり好きにしな。ただし、移動した一人に関してはを設けさせてもらうぜ」

だと?」


 Ms.Mは画面の外から砂時計を取り出して、ドンと中央に配置した。


「制限時間は六時間――それまでに俺様を捕まえてみな。ヒントはこの映像のみ。ただし公平を期すために俺様はこの建物から出ないことを約束するぜ」

「一つだけ質問しても良いか?」

「特別サービスだ。一つだけなら許そう」

「なぜこんなゲームをする。子供たちの居場所を突き止めたとはいえ、まだお前の方が圧倒的に有利なはずだ。なぜそれを、わざわざ公平フェアな状態にするような条件を?」

「その答えは、すぐに分かるさ」


 画面の中の怪物は最後ににやりと笑うと、最初の時のように画面が暗転した。そして現れたのは砂時計の動画だ。砂はサラサラと落ちていくが、あのペースならおそらく本当にMs.Mが言っていた通り六時間で落ち切ってしまうだろう。


「どうするんだ、芽衣子!」


 犬吠埼氏が猫目石の肩を掴んで尋ねる。時間がない。何か作戦を立てなくては。


「落ち着け。まず君たちは先ほどまでやろうとしていたことを実行しろ。子供たちを助けるんだ。そして誘拐された子供の中で、一体誰がMs.Mに囚われているのかを調べるんだ」


 言いながら猫目石は自身の携帯端末を操作し、一人の人物を呼び出した。


『なぜお前が政府高官用の非常通信の使い方を知っている?』


 応えたのは若い男だった。この声とは何度か話したことがある。


『というかだな、無事ならなぜ連絡せんのだ』

「今はそんなことを言っている場合じゃないぞ、兄貴」

『こっちもそうだ。日本中――いや、世界中のネットワークがダウンしている。今使えるのは政府用の特別回線か旧ネットくらいだぞ』

「Ms.Mがゲームを始めた。制限時間は六時間。奴を見つけ出さなければ誘拐された子供が一人死ぬ」

『誘拐された二十二人のうちの一人ってことだな。他の子どもたちは?』

「世界中に散らばっているが、もう救助を依頼してある。ネットワーク破壊の前に動いたから何とかなるはずだ」

『私は何をすればいい?』

「世界中に呼びかけて、全ての航空機の動きを止めろ。あと各種交通機関から怪しい人間を探し出せ。奴はここ数時間以内に人質の子供を一人、別の場所に移しているはずだ」

『分かった。データはお前の端末に?』

「いや、咲枝の端末に回せ、分析をやらせる」

『援軍はいるか?』

「どこにスパイが潜んでいるか分からないんだぞ。それに、兄貴は僕のやり方を知っているだろう?」

『……分かった。先生に代われ』


 猫目石は肩を竦ませて、端末を私に放った。私はそれをキャッチすると猫目石兄の指示に従ってスピーカーモードから通常の通話モードに切り替えた。


『先生、芽衣子を頼みます』


 ただ一つ言われたその言葉に、私はK教授を思い出した。

 ――探偵助手の私だけは、猫目石芽衣子の気配を見逃してはいけない。私だけは、どんな時でも、どこまででも、猫目石芽衣子と共にいなければならない。猫目石芽衣子はきっと、K教授と同じように世界を救うことができる人間だ。そしてその猫目石を救うことができるのは、おそらく私だけなのだ。彼女がこれから何をしようとしているにしても、たとえ地獄に赴こうとしているとしても、私は彼女と共に往き、彼女の全てを記録しようと思う。


「猫目石、私たちはどうする」

「敵は強大だ。君まで危険な目に遭わせてしまうかもしれない」

「構わないさ。私は最後まで君と一緒だ」


 私が答えると彼女はふっと小さく笑うと、すぐにまたいつもの鋭い視線を取り戻した。


「このゲーム、絶対に勝利するぞ」

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