「素晴らしい!」
「仕事ですか? まあまあ順調ですよ、さっきも言いましたけど」
長い廊下を進んでいる中、それとなく聞いてみた質問に対し、宮下氏はそう答えた。
「そりゃあ大変なことの一つや二つくらいありますよ、仕事ですから。でも最近はちょっと楽しくなってきたんで、旦那様と奥様には感謝しています」
「誘拐された京子さんはどんな人でした?」
「とても良いお嬢さんですよ。本当に、誘拐なんてされちまって、可哀そうに……私たちがもっとセキュリティに気を遣っていれば良かったんでしょうが、まさかこのお屋敷の中で攫われるなんて思ってもみませんでしたから」
「それは仕方がないことでしょう。ところで外の人間が京子さんを誘拐したとして、どなたか心当たりはありませんか」
「これも先ほど言いましたが、このお屋敷に出入りする業者の方はたくさんいます。犯行が可能な人物を挙げてもきりがないですよ」
「それは理屈の上でのことです。宮下さん、あなたの内心が気になっているんです。論理的な証拠や考えがなくても構いません。あなたの心象として、怪しい人物は知りませんか?」
私には猫目石や、あるいは犬吠埼氏のような推理力はない。だから論理をどれだけ極めても無駄だと思ったのである。もっとも猫目石の推理の手助けとなると、論理を重んじた方が良いのかもしれないが。
宮下氏は数秒ほど考えて、心象で語るというのが後ろめたかったのだろう、目を少し泳がせながら答えてくれた。
「イメージで言っても良いというのなら……うちに食材を届けてくれる山草精肉の従業員が」
「どんな業者さんなんですか?」
「昔からうちに肉を届けてくれている精肉業者さんです。ちょっと前までは主人である老夫婦が配達までやっていたんですが、最近になって息子さんが引き継いだんです。玄関から調理場までですが、当然ながらお屋敷に入ります。京子様と顔を合わせることもありました」
「その精肉業者の息子さんは、どんな方です?」
もちろんあなたの印象で結構です――そう付け加えて、話の続きを促す。
「根暗な奴ですよ。正直、好きにはなれないタイプですね。こっちが何か話しかけてもぼそぼそとしか喋らないし、仕事を終えるとさっさと帰るし。こう言ったらなんですが、友達も少ないんでしょうね、ああいうのは」
もしその印象が正しいものなら、きっと宮下氏とは合わないだろうということは想像するに容易かった。何せ宮下氏は大学を卒業するまでラグビーをしていたらしく、その時の繋がりを今でも大事にしているらしい(これは雑談の流れで聞いた情報だ)。そしてその友人というのもかなりの数になるだろう。精肉業者の某とは真逆の性格だ。
「横井さんやお休みになられている久我山さんの印象はどうですか?」
「なぜ急に二人の話が出るんですか」
宮下氏は私の唐突な質問の転換に嫌悪感や疑惑を表情に出した。
しまった――一瞬、嫌な汗が背中を流れ落ちるのを感じた。ここまで順調だった事情聴取であるが、しかし相手に疑いを持たれると
途端に難しくなってくるのは明らかだった。こういった調査に不慣れな私なら尚更である。
「ただの興味本位です。まあ、話の流れってやつですよ」
そう誤魔化したが、やはり宮下氏の疑惑は消えないらしい。しかし何とか場を取り繕うことができたのか、彼は話を続けてくれた。
「久我山さんのことは尊敬していますよ。まあ、多少心配性なところがありますが、年齢のせいでしょう。でも仕事はできるし、気も回せるし、何より経験と知識の量が私なんかより数倍上ですからね。横井さんも、私のような年上の後輩なんて扱いが難しいでしょうに、それでもよくしてくれています。失敗してばかりだったころは何度もフォローしてもらいましたし」
嘘ではなさそうだった。これも私の根拠なき印象ではあるけれど。
「そういうそちらはどうなんですか」
「私ですか」
まさかこちらに話を振られるとは思っていなかったから、少し驚いてしまった。
「こっちだけ話すってのはフェアじゃないじゃないですか」
「そうですか?」
「あの探偵の方、猫目石さんって言いましたっけ。あの方と同居しているんですよね」
廊下での会話が聞こえていたのである。耳ざとい奴だ。
「どういった関係なんですか。まさか恋人とか?」
「いえ、ビジネスパートナーです」
「まあまあ、隠さなくても良いじゃないですか。あんな美人と同居できるなんて羨ましいですよ」
的外れにもほどがある。とはいえ、確かに傍から見れば猫目石は美人に分類されるだろう。しかしその生活態度や性格は破滅していると言っても過言ではない。私と彼女が共同生活をおくり始めてからまだ一週間しか経過していないが、彼女の破滅的人間性については枚挙に暇がないほどだ。食べたもの、着替えたもの、読んだものは、基本的にその場に放置しているし、しかもそれを勝手に片付けようとすると怒られる始末。彼女に言わせればそれらの哀れな残骸たちは滅茶苦茶なようで定位置なのだという。まったく手に負えない。
「おっと、失礼、愚痴っぽくなってしまいましたね、忘れてください」
私がそう言うとようやく疑念や緊張がとれたのだろう、宮下氏は笑っていた。
「最後にこれもお聞きしたいのですが、中条ご夫妻と娘の京子氏の仲はどうでしたか?」
「良好だったと思いますよ」
「正直に仰ってください」
私が言うと観念したのだろう、宮下氏が溜め息をついてから答えてくれた。
「良好ではあったと思います……しかし、少しばかり奇妙な関係でもありました」
「というと?」
「京子お嬢様は聡明な方ですが、些か聡明がすぎるというか、よく旦那様と論争を繰り広げていました。政治や科学、芸術はもちろんのこと、製薬会社の経営戦略まで。いえ、決して言い争っていたというわけではないです。まさに論争ですよ。あのお嬢様が跡取りなら中条製薬は安泰でしょうが、しかしどうかな、僕にはあれは親子でする会話には思えませんけどね。それこそビジネスパートナーのような印象を受けました」
宮下氏との話を終えた私は猫目石と合流すべく、彼女が調べている京子氏の部屋を訪れてみた。ドアは全開になり(といっても蹴破られたものだから閉まらないのだけれど)、室内を小さな名探偵がウロウロと歩き回っているのが目に入った。ぶつぶつと何かを唱えながら歩き回る彼女は相当集中しているようで、来訪した私に気が付かないほどである。私は念のため開きっぱなしのドアを形式だけノックしてから、彼女に話しかけることにした。
「宮下さんは多分シロだ。誘拐なんてしているようには見えないよ」
「論理的な根拠は?」
「この部屋を隅々まで見たわけじゃないから断定はできないけれど、京子さんの悲鳴があって皆が駆け付けるまで、せいぜい五分ってところだろ? そんな短い時間で人ひとり隠して戻るなんて不可能だ。それに、その後は私たちが来るまで皆と一緒にいたらしいし」
「アリバイがあるわけか。まあ、そんなものいくらでも捏造はできるだろうけれどね」
そこまで言ったらキリがない気がするけれど。
「他に何か分かったことは?」
「誘拐された京子さんだけれど、どうにも少しばかり変わった人物だったらしい」
「才女というのは嘘だったのか」
「いや、才女であるのは確かだ。ただその能力があまりに高すぎるというか、優秀すぎる人だったみたいだよ」
「なんだ、僕と同じか」
そういえば猫目石も大学生時代は教授陣と論争を繰り広げていたらしいな。
「ところで、一緒にこの部屋に向かった横井さんは?」
「彼女なら今、久我山とかいう執事長のところに行っているよ。これから話を聞きに行こうと思う」
「それで、この部屋については何か分かったのかい?」
私は言いながら改めて部屋を見回してみた。
現役の女学生の部屋というから、もう少し華やかなものを想像していたが、京子氏の部屋は私の予想よりもはるかにシンプルなものだった。カーテンの色やベッドの布団、シーツの色は黒や寒色系のものに統一されている。机の上には可愛らしい小物があるわけでもなく、むしろ機能性に重点を置いていたのだろう。なるほどこれは確かに少々変わっている。聡明だが変人――まさにその評価がぴったりだ。唯一年ごろの少女を思わせるのは彼女の書架であった。聡明な少女という評判通り、純文学が大半ではあるものの、恋愛ものに偏りがあるように思える。
しかし、今回の事件に関連がありそうなところで言うと、やはり最も印象的なのは開かれた大きな窓と、床に残された大きな足跡だ。
「犯人はやはり窓から侵入したのだろうか」
私は開け放たれた窓から外を見てみることにした。地面までの距離は十メートルかそれ以上、近くに木があるわけでもないから、地上から侵入するには梯子か何か必要だ。
「犯人は庭師や電気工事業者とか? 梯子を持っていても怪しまれない」
「宮下は怪しい奴を知っていたか?」
「イメージだけなら精肉業者の息子が」
「どういう風に怪しいって?」
「根暗で何を考えているか分からないからって」
「それじゃあ僕や君も晴れて誘拐犯だ」
その軽口に思わず吹き出してしまった。まったくここに被害者やその家族がいなくて良かった。確かに私や猫目石も明るいタイプではないし、考えが読みやすいタイプでもないだろう。
「君の今の時点での犯人像を教えてくれよ」
私は猫目石に現時点での推理の進捗を聞いてみることにした。すると驚くことに彼女はにやりと悪戯めかした笑みを浮かべると、「大方の謎は解けているよ。後は確たる証拠と犯人の自供だけさ!」と胸を張って豪語した。
「まさか」
「できるさ。既に推理の材料は全て揃っている」
「全てだって? 一体どこに誘拐犯の手がかりなんてあったんだ?」
「最初から最後まで、徹頭徹尾、手がかりだらけだったじゃないか! これで分からないのなら相当の無能だ。君の頭は飾りではあるまい」
「そこまで言うのなら猫目石、その推理とやらを是非とも披露してもらいたいものだね」
「まあ、慌てるなよ。僕の推理は完璧だが、さっきも言った通り、まだ確たる証拠はないんだ。とはいえ、犯人の心理傾向は分かった。あとはそこに罠を合わせるだけさ」
「罠だって? 猫目石、人質の命がかかっているんだぞ」
「安心したまえ、僕は作戦立案も完璧なんだ。人質には傷一つつけずに取り戻してみせるよ。既にその算段はついている!」
そう言うと、猫目石はすごい勢いで部屋を出ようとした。私はそれを慌てて制止して尋ねる。
「どこに行くんだ!」
「街に出る! 確たる証拠はこの街にあるんだ!」
「秋葉原に?」
「違う!」
「じゃあどこに」
「東京!」
制止空しく遂に猫目石は鉄砲玉のような勢いで部屋を飛び出してしまった。彼女を止められる存在などこの世には存在しないのかもしれない。そう思った矢先である、
「悲鳴だ!」
若い女性のつんざくような悲鳴が、館に響き渡った。
「応接室の方だ!」
私と猫目石はさながら敵襲を受けた兵隊のように実に俊敏な動きで廊下を駆け出した。
応接室まで行くとちょうど犬吠埼氏、猪俣氏、そして宮下氏が廊下に飛び出してきたところだった。猫目石が尋ねる。
「さっきの悲鳴は?」
「分からん! 横井さんのものらしいが」
我々は悲鳴がした方向に走り出した。
角を曲がるとすぐにその目的地が見えた。扉が開け放たれ、その外で横井氏が腰を抜かしている。やはり先ほどの悲鳴は彼女のものだったようだ。そのすぐ脇には宮下氏が驚愕を隠せない表情で立ちすくんでいた。私たちは二人に駆け寄った。
「どうしました?」
「あ、あれを……!」
彼女が指さした先――使用人用のその一室。我々が恐る恐るその中を覗き込むと、そこには信じられない光景が広がっていた。
椅子にぐったりと座り込んでいる一人の執事風の男――年齢は六十くらいだろうか。おそらく彼が久我山執事長なのだろう。問題なのは彼の腹部が血で真っ赤に染まっていることだった。なんということだ、誘拐事件だけに留まらずこんな殺人事件が起きてしまうとは。
だがしかし、この場において抱く感想が明らかに異なる人物が一人――
「素晴らしい!」
猫目石が手をパンと叩き、キラキラと目を輝かせていた。
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