「都合が良ければすぐに来い。悪くても来い」

 電話は予定通り、二十一時ちょうどにかかってきた。応接間には猫目石を除く関係者と捜査官が全員集まっていた。中条正臣氏が緊張した面持ちで受話器を手に取る。


「中条です」

『身代金の額は一億二千百七万だ。お前ならば用意できるだろう? 期限は明日の正午』


 唐突に話し出されたその声は、横井氏の証言通りボイスチェンジャーが間に入っているものだった。しかしそれは相手が誘拐犯であるという証拠にもなる。室内に張り詰めていた緊張が、さらにいっそう強くなるのを感じた。


「ちょ、ちょっと待ってくれ!」


 犬吠埼氏が話を引き延ばすようにジェスチャーする(現代科学をもってしても電話の逆探知には少々時間がかかる)。


「頼む、娘の声を聞かせてくれ」


 事前に打ち合わせていた通りの台詞だった。


『深夜三時にまた連絡する』


 電話はそこで切られてしまった。捜査官の一人を犬吠埼氏が見るが、しかし捜査官は残念そうに首を横に振った。どうやら逆探知は失敗したらしい。


「ダメか……」


 猪俣警部がひどく狼狽したように天を仰いだ。


「しかしこれで相手が頭の良い人物であるということははっきりしましたね。警察組織など意にも介していない。だから逆探知対策に通話時間を短くしているし、次の連絡まで時間があるのも、もしも逆探知が成功してしまった場合を考慮して移動するための時間なのでしょう」

「短時間で大幅に移動しているところをみると、犯人は車を所持している人物だろう。だが経済的に豊かな人物ではない。自分の実力に対する世間の評価は釣り合っていないと思っている。そして支配欲が強い。だから細かく時間を設定して相手をコントロールしようとしているんだ」

「京子さんも一緒に連れて回っているのでしょうか。それともどこか拠点となる場所に閉じ込めて、自分だけ移動しているのでしょうか」

「そこまでは何とも言えないが、私が犯人ならばどこかに閉じ込めているだろう。どのみち次の連絡が鍵になる。犯人はこちらの要求である京子さんの声を聞かせるということをしなくてはならない。その時の状況次第で犯人が京子さんと一緒かどうか分かるだろう。ところで中条さん」


 犬吠埼氏が中条夫妻に視線を戻す。


「犯人は身代金の額は一億二千百七万と言っていましたが、支払う能力と意思はおありですか?」

「一億となるとすぐに払える額ではないが……しかし、払います! 何としてでも、たとえこの家や会社を売ってでも、払ってみせます! 娘は……あの子は私たちにとってかけがいのない宝なんだ!」

「分かりました。我々も全力をもって調査しますので……しかしもしもの時のために、金の用意だけはしていただいてよろしいでしょうか」

「もちろんだとも!」


 夫妻は手を握り合い、必死に娘の無事を祈っているようだった。今この時間も、警察組織は周辺のパトロールと聞き込みをしている。怪しい車両や人物について少しでも情報があれば、ここに知らされるはずだ。しかし猫目石も飛び出してしまうし、私にも何かできることはあるだろうか。

 そんな中、私の携帯端末が着信音を鳴らした。見ると相手は猫目石だ。私は他の者に断ってから電話に出た。


「どうした?」

『誘拐犯から電話はあったか?』

「ああ、つい今しがたな。そっちはどこにいる」

『身代金の額はいくらだって?』

「一億二千百七万だ。まったく細かい犯人だよ。だが中条さんは払うつもりらしい」

『そいつは景気の良い話だな』

「冗談言ってる場合か。殺人事件の方だって調査しなくちゃならないだろう?」

『そっちは大体片が付いた。それより誘拐犯の方だが、金を払えば娘は帰ってくるよ』

「何を根拠に?」

『だから言っているだろう、僕には全て分かっているんだ』

「じゃあ、早いところ確たる証拠ってのを見つけてくれよ」

『誘拐犯のか? そんなものは待っていれば手に入る』

「何? 待っていればだって? そんな馬鹿な……」

『予言してやろう。犯人は次の電話で娘の声を聞かせ、さらにその次の電話で身代金の渡し方を指示してくる』

「そのくらいは私にだって予想できる」

『そうか? それじゃあ金の渡し方は分かっているのか?』

「それは……」

『そんなもの、予想できる人間がいるのかって? 僕にはできている』

「どんな方法だ」

『銀行口座への振り込みだよ』

「馬鹿な! それこそ犯人は簡単に分かってしまうじゃないか。それが君の言う確たる証拠なのかい?」

『そんなわけないだろう。誘拐犯はひどく頭の良い人物だ、そんなミスはしない。口座は犯人とは一切つながりのないものだ。しかしそれこそがまさに犯人を確定する証拠となるのだよ』

「どういうことだ?」

『それは時間が来てのお楽しみってやつだ』


 電話越しでも、猫目石が楽しそうにしているのが伝わってきた。


『どうにも僕にはドラマチックな味付けがしたくなる悪癖があってね』

「知ってるよ。いつ戻ってくるんだ」

『明日の正午』

「それって身代金の受け渡し期限じゃないか! どういうつもりだ? ……ん? おい、猫目石?」


 まったく呆れ果ててしまった。電話は既に切られていた。

 誘拐犯の宣言通り、次の電話は午前三時ちょうどにかかってきた。やはり前振りはなく、唐突に怯えた少女の声が聞こえてきたのだった。


『お父さん?』

「京子か? 無事なんだな?」

『うん……』


 やはりまた電話を引き延ばすように、と犬吠埼氏からのサインが出る。


「今どこにいるか分かるか?」

『分からないわ……目隠しされているから』


 犬吠埼氏が小さく頷いた。何となくその頷きの意味は理解することができた。京子氏が目隠しをされているということは、犯人の顔は見ていない、つまり犯人も人質を解放する意思は少なからずあるはずだ。もし最初からっ人質を殺害するつもりなら、目隠しなどしないだろう。もっとも、ここからのこちらの出方によっては犯人も考えを変えるかもしれない。その点に関しては十分に注意しなくてはなるまい。


『娘と話しができるのはここまでだ』


 声がボイスチェンジャーに切り替わった。


『次の電話は二時間後だ』


 そして電話はやはりプツンと唐突に切られるのであった。

 二時間後……つまり午前五時に誘拐犯はまた電話をしてくる。その時に身代金の受け渡し方を指示してくるのだろう。猫目石の推察によるとその方法は銀行口座への振り込みらしいけれど、普通に考えれば足のつく方法だ。犯人は、そして猫目石には一体どんな考えがあるというのだろうか。


「中条さんは金の用意をお願いします。我々は久我山さんの件を調べてみようと思います。このタイミングでの人死です、まったく関連がないとは思えない」


 犬吠埼氏の指示に中条氏は頷くと、どこかへ電話をかけ始めた。一億を超える金額を用意するのだから、それなりの準備が必要なのだろう。

 私たちは再び久我山氏殺害の現場に戻ることにした。




 ここで読者諸君に久我山氏殺害に関して判明したことを改めて報告しておこうと思う。

 殺害方法は果物ナイフによる刺殺。多量出血によるショック死と思われる。遺体は自室の椅子に腰かけ、上半身をかがめてうずくまるような形であった。ナイフで刺された以外の外傷はなく、室内も特に乱れた様子がないことから、犯人と揉み合ったということはなく不意の一撃によって殺害されたのであろうということがうかがえた。

 室内の様子といえば最も奇妙なのはドアの鍵がかけられていた点である。その鍵は久我山氏の首にかけられたままであり、当然のことながら窓にもしっかりと施錠がなされていた。鍵を開ける最後の方法であるマスターキーであるが、それは中条正臣氏が所持しており、彼は誘拐事件が起きてから応接間にいたから(このことは犬吠埼氏や猪俣警部が証人となっている)、そのマスターキーも誰も使用していないことになる。つまりこの部屋は完全な密室だったといえよう。まさか久我山氏が京子氏を守れなかったことへの自責の念から自刃したわけでもあるまい。では一体犯人はどうやってこの部屋から出たというのだろう、もしくはどうやって外から鍵をかけたというのだろう。

 久我山氏の死亡推定時刻であるが、遺体からはせいぜい死後数時間ということが分かるだけだが、目撃情報などからもう少し細かく見極めることが可能だった。京子氏が悲鳴をあげて彼女の部屋から誘拐されたのが十七時。久我山氏はその現場に居合わせたのだから、少なくともその時間までは生きていたことになる。京子氏の部屋にかけつけた順番は、横井氏、宮原氏、そして久我山氏である(中条夫妻はその時点では家にいなかった)。久我山氏の判断で宮原氏が扉を蹴破ったという話だった。

 それから家主である中条氏へ京子氏誘拐を報せたのは久我山氏で、これは携帯端末の履歴にきちんと残されていた。細かな時刻は十七時七分であった。

 その後、夫妻が家に戻ったのは十七時半頃で、二人の帰宅に気が抜けてしまったのだろう、久我山氏が軽い眩暈をうったえた。年齢のこともある、他の使用人や中条夫妻の厚意で、久我山氏は自室で休むことにした。これが十八時頃ということだった。それから彼が部屋を出るのを目撃した人物はいない。つまり久我山氏殺害は十八時から、横井氏が猫目石の指示によって部屋を訪れる二十時頃の間に行われたことになる。

 この間、館の人間は応接間に集まっていたわけだが、部屋を抜け出した人物は三名だった。二名に関しては横井氏と宮下氏で、押しかけた警察関係者に出すためのお茶を用意するために、一度厨房の方へ出たという。もっともこの時点では常に二人で行動していたから、完璧とは言えないまでもアリバイはあると言えよう。この二人に関しては読者諸君も既に知っている通り、我々を案内するためにもう一度ずつ部屋を出ている。そして部屋を出た三人目の人物は中条夫人だった。彼女は私と猫目石が館に到着する直前に、一度手洗いに立ったという話だった。時間にすると約五分ほどの話である。

 さてここまで記したことを、こうしてまとめる前に猫目石に見てもらった。すると驚くことに彼女はこう言ったのだ。


「君、これだけの情報があれば十分ではないか。もっとも僕ならばこの半分の情報で真相を暴いてみせるがね。時系列で言っても、僕にはこの時点で完全に真犯人に気が付いていたんだよ」

 

まさかとは思うが、しかし彼女の後々の行動を鑑みるに、それは事実であることに間違いはなかったのだ。

 読者諸君、皆さまへの挑戦状というわけではないが、ぜひとも一度考えてみてほしい。誘拐犯の目的は何だったのか。誰が、どのように、そしてなぜ久我山氏を殺害したのか。そもそもこの誘拐事件と殺人事件は関連があるのだろうか。

 そして読者諸君にお伝えする情報として以下のことを追記しようと思う。

 一つ、その後、身代金の受け渡し方を報せる電話は予定通りに来たこと。

 二つ、その内容も猫目石の予言した通り、銀行口座への振り込みだったこと。

 三つ、指定された銀行口座は一つではなく複数であり、それは秋葉原を除く東京のありとあらゆる企業、個人が対象であったということ。

 警察組織はこの受け渡し先のいずれかに犯人が関与していると考え、片っ端から探りをいれているという話だった(猫目石はそれを聞いて身を捩るほど大笑いした)。

 さて、名探偵・猫目石芽衣子によって真実が暴かれたのは、身代金受け渡しの翌日の夜のことだった。


『都合がよければすぐに来い。悪くても来い』


 そんな身勝手極まりない文面で呼び出された私が指定された住所へ行くと、そこでとんでもない光景を目にしたのである。

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