「君の力が必要だ」

 猪俣警部が救急車を呼ぼうとしたが、猫目石と犬吠埼氏がそれを制止した。


「残念ながら明らかに手遅れです。それに猪俣警部、我々は誘拐事件の渦中にいるということも忘れてはならない」

「むやみやたらに人を呼ぶなということでありますか……しかし検視や現場検証はどうなさるのです」


 殺人事件は確かに猪俣警部の専門だろうが、何もその全てを彼ができるわけではあるまい。検死官や鑑識だって必要なはずだ。


「心配するな」


 既に室内の物色を始めていた猫目石が言った。


「検視ならうちの助手にやらせる」

「私にだと? ちょっと待て、猫目石」


 私は床に座り込んで熱心に遺体を観察している彼女を引っ張って立たせ、部屋の隅へ連れ込んだ。


「君は知っているだろう、私の心的外傷トラウマを」

「それでも君の力が必要だ」

「私はもう医者じゃないんだぞ」

「だから言っている。としての君の力が必要なんだ」

「……」


 私の脳裏には未だに戦地での苦い記憶がこびりついている。怪我人や病人を見ると嫌でもあの血と硝煙の臭いが甦る。既に完治しているはずの足の傷が空想の痛みを訴え、意識は朦朧とし始めるだろう。しかし、それでも、猫目石がやれと言うのだ。私は彼女と出会った時に言われた言葉を思い出した。


――真実のところ、君は混沌を望んでいるのだ。


 その言葉が半分死んでいたようだった私を呼び覚まし、そしてこの探偵助手という職種に就かせた。私は混沌を望んでいる。事件を望んでいる。戦場を忘れられない私が腐らずに生きていく方法は、もはやこれ以外に思いつかない。


「君は事件を望んでいる。その証拠にここまでついてきたんだ」

「しかし……」

「僕も同じだ。謎を解けと誰かが頭の中で囁く。事件を望み、それを解き明かすことを快感に思っている。君も異常かもしれないが、僕の方がもっと異常だ。その僕が言うんだ。死体を視ろ。謎を解け」


 もはや私には返す言葉はなかった。やるしかない。仮に彼女の目論見が外れていたとしても、それは私に本物の心的外傷があることの証明になるだろう。この雇用主を訴えるにしろ、彼女の元から去るにしろ、それはその証明の後でも十分間に合うことだ。

 意を決した私は死体の側に膝をついた。


「よし……」


 改めて視ると、久我山氏は完全に息絶えているのが分かった。非情な事実だが、今はそれを気にしてもいられない。腹部には果物ナイフが刺さっている。おそらく久我山氏は何者かに腹部を刺され、そして凶器を抜こうとした際に多量出血によるショック死をしたのだろう。


「他に外傷は? 争った形跡なんかはあるか」

「いや、特にこれといったものは見られないな……うん?」

「何かあったか?」

「いや、手がかりというほどのものじゃないんだけれど」


 不思議だったのは久我山氏の表情だった。こういった傷で死亡する場合、大抵は即死ではない。数秒か、あるいは数分苦しんで死亡したはずだ。にもかかわらず、彼の死に顔は実に穏やかなものだったのである。年齢のことも相まって、孫たちに囲まれて老衰死した人物に見えなくもない。


「……いや、ちょっと戦場に長居しすぎたみたいだ」


 私はそう言って自分の考えを自ら否定した。戦場で死ぬ人間は苦しんで死ぬ人間ばかりだ。戦場以外で死ぬ人間は、ひどく久々にお目にかかった。


「彼の持ち物に何か手がかりは?」


 犬吠埼氏の言葉に頷き、私は遺体のポケットをまさぐった。出てきたのはペンと白い手袋、それにハンカチくらいで、特に手がかりになりそうなものはない。


「死亡推定時刻は、詳しくは分からないけれど、数時間以内であることは確かだ」


 私はそう言って検死の終わりを意味するように立ち上がった。


「それじゃあまずは状況を整理しよう。横井さん、話せますかな」


 猫目石が言うと、先ほどまで腰を抜かしていた横井氏がよろよろと立ち上がった。


「猫目石様に言われて久我山さんにお話を伺うアポイントメントを取りに来たんです。ところが部屋には鍵がかかっていて、ノックをしても返事がありませんでした。私は眠っているのだろうとも思ったのですが、体調のことも気になったので、失礼を承知でマスターキーを使って部屋に入ろうと思ったのです。マスターキーは旦那様が持っていますから、そこで一度応接間に戻りました」

「それは私も見ましたよ」


 付け加えたのは宮下氏だった。


「そちらのアシスタントの方と話をした後、私は応接間に戻りました。その時に横井さんもちょうど応接間に戻ったところでした。話を聞いた私は一緒に久我山さんの部屋に行くことにしたんです。もし久我山さんが病気で動けないのだとしたら、きっと男手が必要になるだろうと思って。横井さんはご遠慮されましたけど、こんな時くらい男の私を頼るべきだと伝えて一緒に向かいました。でも、まさかこんなことになっているだなんて……」


 宮下氏は相当ショックだったのだろう、顔が真っ青だ。横井氏が話を続ける。


「私は旦那様に事情を説明して、マスターキーをお借りしました。そのことはそちらの刑事さん方もお分かりでしょう」


 犬吠埼氏と猪俣氏が頷いている。


「そしてドアを開けたら死体があったわけか。普段の鍵の管理はどうしている?」

「各々の部屋の鍵は各個人で管理しております」

「久我山氏はどうしていたか分かりますか」

「久我山さんは、確か紐で首から下げていたと思います」


 猫目石が私に目線を送り、私は遺体の首元を探った。横井氏の証言通り、久我山氏の首には確かに鍵がかけられていた。私はそれを猫目石に渡すと、彼女は本物の鍵であるかを確認するために部屋の外から鍵を差し込み、何度か閉めたり開けたりをした。


「確かに本物の鍵のようだ」


 猫目石が子供のようににやりと笑みを浮かべる。犬吠埼氏は大きな溜め息をついた。


「厄介なことになったな」

「どういうことでありますか」

「鍵は部屋の内部、マスターキーは厳重な管理。窓は閉められていた」

「つまりこの部屋は完全な密室だったというわけさ!」


 余程嬉しいのだろう、猫目石は落ち着きなく室内をぐるぐると歩き回っていた。犬吠埼氏が「不謹慎だぞ」と注意したが、猫目石は全く意に介していないようだった。


「誘拐に続き人死が出るとは……」


 猪俣警部は眉間に皺を寄せている。さしものプロフェッショナルの彼もここまでの状況には慣れていないらしい。


「ふむ!」


 目まぐるしく室内を動き回り、机の中やら本棚やらを調べていた猫目石だったが、かと思うと彼女は急にピタリと制止した。何か手がかりでも見つかったのだろうか。


「よし、やはり街に出てくる!」

「今からか?」


 私は改めて腕時計で時刻を確認するが、誘拐犯から身代金要求の電話が来るという時刻は、あと数分にまで迫っている。


「殺人事件はどうする!」

「心配するな、そっちも調べてくる」

「誘拐と何か関連があるのか?」

「まだ分からん!」

「誘拐犯から電話が来たらどうする」

「そっちは君と咲枝に任せるよ!」


 さっきまで警察に手柄を渡したくないと言っていたのに、電話を聞かずに大丈夫なのだろうか。まあ、心配したところで猫目石は自分の考えを変えることはないだろう。彼女が頑固なのはよく分かっている。そしてそれは大学時代からの知人である犬吠埼氏も同じようで、諦めたように肩を竦ませてみせるのだった。

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