奇妙な二人組

「僕が出した答えを確かめられればそれでいい」

 私は今、旧首都から新首都へと向かう電車に揺られながら狸寝入りを決め込んでいる。

 平日の昼間ということもあり、乗客の数はまばらだ。やや暖房が効きすぎている車内は、マフラーをしたまま眠るには暑苦しいほどである。

 いや、私がわざわざ寝ているふりをしているのは、何も車内が暑かったからというわけではない。私の対面の座席に、奇妙な二人組が座っているからなのである。

 一人は若い男だった。話し方にどことなく警察や軍人のきらいがある人物で、しかしながら高圧的な印象は受けない。真面目な好青年といった雰囲気だ。年齢の方は二十から三十の間くらいで、身長は男の中でもやや高いと思われる。

 もう一人は女性だった。歳はよく分からない。軍服の上に紺の外套を羽織っている。その服装からして、やはり私の見立て通り、隣の男は軍の関係者なのだろう。そして奇妙なのはむしろこの女の方で、彼女は相当の美人ではあるのだが、その格好や口調は完全に男性のそれなのである。いや、人の趣味や主張は自由だ。私は個人の生き方に関しては偏見のない方で、むしろ寛容的でさえある。

 二人組のことを奇妙だと思ったのは、女の方が風変わりだったというだけが理由ではない。それは、私がこれから成そうとする目的にも多分に関係していたからなのである。


「君、見たまえ」


 数分前、向い側の女が隣の男に声をかけた(私はこの時点で眠ろうとして目を閉じていたのだが、暑さのせいで眠れなかった)。


「彼女がどうした」


 男が聞き返した。

 私は薄目を開けてその二人がどちらに視線を向けているのか探ったが、どうやらそれはドアのすぐ近くに立つ女性の乗客に向けられているらしかった。その乗客に関しては私にも覚えがある。彼女がちょうど立っているドアから私は電車に乗り込んだのだ。その時の印象で言えば、その人物はそれなりの美人であり(もっとも目の前の軍人風の女の方が上ではあるが)、そして香水の匂いがややきつかった。これが満員電車であればその匂いの強さに顔をしかめていたかもしれないが、幸いにして車内は空いていたので少し離れたところに座ることができた。


「三人の男と不倫関係にある」

「本人から離れていて良かったよ。それで、なぜそう言い切れる」

「さっきすれ違いざまに見たのだけれどね、指輪だ。あれを見れば彼女が不倫をしているのは一目瞭然だろう」

 

 私は記憶を遡った。あの女性は携帯端末をいじる手に指輪をはめていた。確か、その個数は二つか三つだったはずだ。うち一つには大きな宝石がついていたのをよく覚えている。


「三つの指輪のうち、一つだけ古いものがある。あれは結婚指輪だが、他の指輪は十分に手入れが行き届いているのに対して、あの指輪だけが汚いままだ。不幸な結婚、失敗した結婚だってのを示しているのさ」

「だから不倫を? でも人数までどうして分かる」

「香水の匂いだ」


 香水? 強い匂いだったという印象しかないが。


「彼女は複数の香水を愛用している。そういった女性は稀にいるが、彼女の場合は明らかにその数が多い。相手の好みに合わせて使い分けているんだ」

「君は警察犬か」

「一緒にするな、私は犬が嫌いだ」

「猫も嫌いだし、子供も嫌いなんだったかな」

「よく分かっているじゃないか。それと、分かった風な口をきく男も嫌いだ」

「話をあの女性に戻せよ」

「話すことはもうほとんどないさ。ただ言えるのは、彼女はこれから弁護士を殺しに行くってことだけ」

「ん? いや、待て、今何て言った」

「話すことはほとんどない」

「弁護士を殺しに行くところだって!」


 思わず興奮してしまったのだろう、男の声のボリュームが上がり、一瞬乗客の(話の的である女性も含めて)視線が集まったが、男は咳ばらいを挟んで再び小声で話し出した。


「殺人の予定がなぜ分かる」

「簡単だ。彼女が口論していたから」

「口論だと? あの人は電車に乗ってからずっと無言だぞ」

「口ではね。彼女の指の動きから携帯端末に何て打ち込んでいるのか分かったのさ」

「で、彼女は何と?」

「『奥さんと別れるって約束したのは嘘?』『そっちがその気なら、私にも考えがあるわ』『法律? そんなの私の知ったことじゃない』『必ずあなたを地獄へ道連れにしてあげる』」

「……なるほど、確かに脅迫じみているな。でもただの脅しかも。そもそも相手が弁護士だとなぜ分かる」

「弁護士だって分かったのはメッセージの内容に法律に関する言葉が含まれていたからさ。それに、あの女はこれからもっとも経済的に裕福な不倫相手に会いに行くというのは、彼女の格好を見れば明白だよ」

「格好だって?」

「彼女は相手の経済能力や好みに合わせて自らのファッションを変えるタイプの女性のようだ。これは香水からも分かるね。わざわざ相手に合わせて香水を変える女性は少ない。大抵は自分の好みに合わせるものさ。そして恐ろしい殺人計画の方だが、これは彼女が慌てて家を飛び出してきたにも関わらず上着の内ポケットに拳銃を忍ばせている点から明らかだ」

「拳銃だと?」

「慌てて飛び出してきたのは結婚指輪をつけたままという点から分かるだろう。おそらく突然別れ話を持ち掛けられたんだ。彼女は頭の良い女性だから、不倫相手と会うときは指輪を外していたはずだ。拳銃の件は、彼女の左肩が不自然に傾いている点から推理した。それに彼女の夫は軍人だ、拳銃くらいなら手に入れるのはわけないさ」

「なぜ彼女の夫が軍人だと?」

「経済的には不自由しないくらいにはレベルが高く、そして転勤もないようだ。家に拳銃が置いてある点からも彼女の夫が用心深く、そして嫉妬深いということがうかがえる」

「警察か軍人か」

「警戒心の強い人物が単身赴任するのなら必ず一度は興信所の調査を入れただろう。だがその素振りがないということは単身赴任はしていないということになる。そして転勤はもっとない。夫についていって全国を転々とするのなら、そもそも三人の人間と不倫なんてできないだろうからね。結論、拳銃が手に入って転勤や単身赴任がない職業は地方公務員、それも軍人である可能性が非常に高い」

「警察の人間だって線は?」

「可能性はあるけれど、まずないよ。ほとんど新設同然だった軍と違って、警察は旧体制同様拳銃の管理が徹底されている」

「確かに軍の方が管理は杜撰(ずさん)だな。拳銃くらいは何とかなるか」

「そもそも上の省が違うからね、管理の仕方が変わってくるのは仕方がない」

「なるほど、よく分かったよ。相変わらず見事な推理だ」

「そうだろう、もっと褒めてくれても構わんよ」

「それで、彼女をどうする。警察に引き渡すか? それとも説得?」

「馬鹿を言うな、両方なしだ。明日の朝刊を待とう、答え合わせだ」

「よし分かった。明日の朝刊には元軍人の男が痴漢か暴行で逮捕と出るだろうよ」

 

 男はそう言って立ち上がると、真っすぐに女性の方へ向かっていった。どうやら彼女がこれからしようと思っている犯行を、無理やりにでも未然に食い止めようということらしい。軍人風の女は、そんな男のお人よしな行動に慣れているのか、やれやれと肩を竦ませているだけで特別手を貸そうなどとはしなかった。

 どうやら明日の朝刊にはあの男が載ることはなさそうだった。男はドアの近くの女と何か口論をしたかと思うと、その右頬を思いきり平手でぶたれてしまったのだ。そして女は次の駅に到着すると一も二もなく下車してしまった。逮捕されることはなかったが、端から見ていてその男が実に可哀そうであった。軍人風の女は、ふらふらと席に戻った男に対して、隣でクスクスと笑っている。


「君、良かったじゃないか、彼女が目的の駅以外で降りたということは、少しばかり頭を冷やしたということだよ」

「どうかな、少なくとも私には彼女がひどく激怒しているように見えたけれどね」

 

 男は頬を抑えながら何とか辿り着いた席に腰かけた。冷やす必要があるのは明らかに彼の頬の方だろう。

 さてここまでではとんだ笑い話だが、問題はその奇妙な二人組が次に話題に挙げたことであった。それこそがこのお話の核であり、何を隠そう、この私に関する重大なことだったのである。


「君、あの男を見たまえ」

「今度は何だよ……」


 二人が視線を向けたのは、驚くことに対面に座る私の方だった。どうやら私が完全に眠っていると思い込み、話題に挙げても大丈夫だろうと判断したらしかった。しかし私は起きている。まさかよりにもよってこの私が彼女らの話題の矛先になるとは思ってもみなかったので飛び上がりそうになった。動揺する内心を何とか堪えながら、これまで以上に固く瞼を閉ざし、二人の会話に耳を傾けた。

 嫌な予感がして、背中を汗が流れた。この二人組は確かに奇妙で愉快ではあるが、それは端から見ればというものである。少なくともこの軍人風の女の持つ観察力、推理能力は真実秀でているもので、その辺の素人探偵では遠く及ばない代物なのだ。私の背中を汗が流れ落ちたのは、何も車内が暑すぎたからというわけではない。私にはあるのだ。絶対に見破られてはならぬ事実というものが。

 私は恐怖感と緊張感で意識が飛んでしまいそうだった。無理をすることなく次の駅で下車するということも考えたが、ここで手間取るようでは肝心の策の大事に障るというものだ。私は予定通りことを進めなくてはならない。そこに一分、一秒の遅れがあってはならんのだ。私は口や態度には決して出すことはなかったが、この奇妙な二人組と対決することを覚悟した。


「殺人を伴う犯罪」

「何だって?」


 女が呟き、男が聞き返した。


「この男がこれからやろうとしていることさ。もしかしたらシンプルに殺人だけかもしれないし、あるいは強盗や誘拐かもしれない」


 私は冷や汗が噴き出るのを感じた。つい数秒前にきめた覚悟を、既にもう取り消したい衝動に駆られた。


「彼も何か犯罪をしようとしているって? そうそう犯罪者予備軍がいてたまるかよ」

 

 男がそう言い返した。そしてそれは本当にごく一般的な考えだ。この国、日本では極端に低い犯罪率が、国民に平和ボケという病を与えた。誰も彼も、今この瞬間にも何者かが凶悪犯罪の計画を立て、しかも実行に移そうとしているなどと夢にも思うまい。そしてそれに気が付くのはいつも全てが手遅れになってからなのだ。今度だってきっとそうに違いない。


「彼を見たまえ。そして推理しろ」

「嫌だね、私が何かを推理して、君に認められた試しがない。どうせ今回も貶されるのがオチさ」

「そんなことはしないよ。いいから君の意見が聞きたい。素人の意見は僕の頭脳を冴えわたらせるのに非常に効果的なんだ」


 女はそう言うと男の頬を鷲掴みにし、半ば無理やり私の方へと視線を向けさせた。


「まずは年齢と職業からだ」

 

 男も観念したのだろう、その言葉には素直に従ったようで、私の方をじっくりと観察し始めた。

 こうなれば我慢比べだ。何を言われても動揺すまい。私はあの二人組に見えないように、拳を固く握った。


「あー。年齢は三十から四十。普段着だが派手ではないから、真面目な人間か、静かな人間だろう」

「良いね、続けたまえ」

「靴はスニーカーを履いているけれど、ちょっと高級そうだ。でも結構使いこんでいるから、別に靴のマニアってほどじゃない。他の服に関してもだが、どこか高級感があるから、公的な仕事ではないが、それなりの収入がありそうだ」

「ワオ! 見事だ」

「本当にそう思っている?」

「まさか。的外れにもほどがある」


 男は「これだから……」と文句を言いたげな様子だったが、それは何とか堪えたようで、その代わりに女に尋ねた。


「それじゃ、今度は君の番。お手並み拝見といこうか」

「年齢も職業も彼の足元を見れば明らかじゃないか」

「足元だって?」

「まず年齢だが、おそらく元々老けた顔つきなんだろうね、二十代後半から三十代前半だ。職業は家庭教師」

「なぜ分かる」

「靴は若者向けのデザインだが、数年は履かれたものだ。あの靴が販売されたのは戦前――五年ほど前のことだ。彼の見た目から逆算すると最高で三十五歳、最低で二十五歳の時に買ったものだということが分かる。いや、正確には購入したものではない。あの靴は確かに君が言った通り、発売当時にはそれなりの額だったが、しかしまったく手が届かないというほどのものでもない。学生でも頑張れば買える額だろう。もちろん、五年以上も大切にするようなものでは、決してない。ではなぜ彼がここまであの靴を大切にしているのか」

「誰かから贈られたものだから……!」

「その通り。しかしあの男が現在は四十歳だと仮定して五年前――三十五歳の男性に送るプレゼントとしてはかなり違和感のあるチョイスだ。もっと若者に向けたデザインだからね。当時は二十前後だったに違いない。だから今は三十から二十五歳くらいだ。いや、もう少し若くみてもいいかもしれない。何せ彼の職業は家庭教師だ」

「家庭教師だっていう根拠は?」

「服装はラフだが高級感と清潔感がある、つまりどこか他人の家で仕事をしている証拠だ。靴も歩きやすいものを使っているしね。それに最大のヒントは彼の腕にある。手先にわずかだが赤いインクがついている、生徒の答案を採点した証拠だ。それに肘の部分が少し擦れているから長時間机で作業する仕事だということがうかがえる。これだけの条件を満たす職業は家庭教師くらいさ」

「流石だな。それで、それが彼の年齢にもつながるのかい?」

「ああ、家庭教師は大抵の場合、大学生がアルバイトとして始めることが多いんだよ」

「確かに、大学時代に家庭教師のバイトをする同級生はいたな」

「あの靴はきっと生徒から贈られたものだろう。志望校に合格した感謝の証としてね。あの男が家庭教師のアルバイトを始めたのが、最低でも十八歳の時と仮定し、生徒を三年間面倒みたと考え、さらにそれが五年前だとして計算すれば彼の年齢は二十五歳か二十六歳だ!」

「なるほど……しかしそれは数字を最小に仮定した場合だろう? そうじゃないかもしれない。彼が大学何年生の時にバイトを始めたのかなんて分からないじゃないか」

「若者向けの靴を贈られるのだから限りなく若い時だよ。それにあれを贈ったのは彼の初めての生徒さ、それは間違いない。初めての生徒だから彼はあれほどまであの靴を大切にしているんだ。僕の推理に誤差があったとしても、せいぜい一年か二年くらいだろう」


 私は震えだしそうな身体を、気持ちだけで何とか抑えこんでいた。口の中がいやに乾く。あの軍人風の女、彼女は一体なぜこれほどまで私のことを見抜けるのだ。

 女が言っていた情報はほとんど完璧に正解であった。私の年齢は二十七歳、家庭教師のバイトを始めたのは大学二年生の時、つまり十九歳の時だった。靴は当時受け持った生徒からのプレゼントで、その人物は私の初めての生徒だったから今でもこうして大切に履いている。

 実に見事な推理能力だった。これが例えば探偵小説を読んでいる状態ならば手放しで喜べるのだろうが、しかし今の私は現実で犯罪に及ぼうとしている状態だ。おちおち喜んでいる場合ではない。最悪の場合はこの目の前の奇妙な二人組さえも始末しなければならないかもしれない――そんな考えが一瞬脳裏に過ったが、それは自分自身の考えですぐさま否定された。あれだけ高い知識を持つ二人組だ、簡単に殺せるわけがない。軍人ならばなおのことそうだ。それはあまりに無謀というものだ。しかし、ならば、どうする……?

 しかし私の思考などお構いなしに、軍人風の女は非常にも推理ショーを続けていく。


「あの男性の年齢と職業は分かったよ。けれど、どうして彼も犯罪をしようと思うんだい?」

「彼は今の職業に対して執着はしているが好意は抱いていない。彼の脇にあるのはおそらく仕事に使われる鞄だが、服装に対して手入れがされていない。見た目には気を遣っているのに仕事に使う道具に気を遣わないという男性はかなり少ないよ。つまり彼は家庭教師という仕事に熱心ではないが、しかし辞めたくはないと思っているのだ」

「そういう人間も少なくないと思うけれどね。誰もが君のように仕事熱心ってわけじゃあないだろう」

「それは成功体験のない人間だ。彼には家庭教師としての成功体験がある。だからその時の戦利品を今でも大切にしているのさ」

「あの靴がそうだって?」

「ああ、そんな人間が熱意を失う理由は何だ? 挫折があったんだよ。それじゃあ、家庭教師の挫折とは?」

「生徒が志望校に合格できなかった?」

「いや、違う。彼は優秀だ。熱意は失ってはいるが、間違いなく優秀なんだよ」

「なぜ分かる」

「年齢から考えれば大学を既に卒業していてもおかしくはない。そうでなくともアルバイトなんてとっくに辞めている時期だ。それでも続けているのは彼に能力とやる気があるからだ。まあ、やる気の方はすっかりなくしてしまってはいるがね。だから彼の挫折は、彼自身の能力に関することではなく、もっと理不尽な環境的なもののはずだ。それもごく最近のものに違いない!」


 女が唐突に立ち上がった。すっかり興奮状態にあるようで、頬を紅潮させ、電車内の短い距離をせわしなく歩き回っている。下手をすれば走り出しそうなほどの勢いと迫力であった。


「一体何だ……? 優秀で冷静な男を犯罪に駆り立ててるような理不尽、環境的要因は何なんだ!」

「待てよ、そもそもなぜ犯罪をしようとしているって分かる。私はまだそのことを聞いちゃいないぞ」

「なぜ分からない!」


 ほとんど怒声に近いものだった。


「上着のポケットが不自然に膨れている。ナイフを隠しているんだ! それにあのコートを見ろ。明らかにサイズがあっていないじゃないか! おまけに腕にも不自然なふくらみがある。銃かナイフが飛び出る仕掛けがしているんだ。そんな人間が犯罪を考えていないだと? そんなわけあるか!」

「ううむ、なるほど……」

「問題は動機だ、理由だけなんだ。これほどの、いわば武装ともいえる準備をして、それほどまでにして成し遂げたい犯罪って何だ?」

「銀行強盗? 家庭教師のバイト代なんて、確かに学生にしては多額だけれど、大人からみれば多いとは言えない」

「違う! 彼はそこまで金銭的に困っていない! 服装を見れば明らかだ! どれも比較的新しく、高価なものじゃないか!」

「それじゃあ、殺人は除くとして……誘拐か?」

「……今何て言った?」

「誘拐? 君が言ったんじゃないか、あの男性は殺人を伴う犯罪――強盗か誘拐をしようとしているって」

「誘拐だ! だとすればなぜ電車に乗っている……?」

「誘拐犯なら車を使うだろ、普通」

「そもそもなぜ誘拐犯は車を使うんだ」

「そりゃあ、被害者を無理やり連れ去るんだから必要だろう。まあ、特区であった前の誘拐事件のように狂言だったのなら話は別だがね」

「そうか! 分かったぞ!」


 女がパンッと思いきり手を鳴らした。その時、ちょうど電車が目的の駅に到着した。私は目を思いきり見開いていた。ようやくこの奇妙な二人組から逃れられる……! そんな気持ちでいっぱいであった。

 しかし女はそんな私の内心など知ったことではないと言わんばかりに、飛び上がった私に肩を組んできたのだ。


「君の犯行動機は恋愛だ! しかも叶わぬ恋愛! だから君とその相手は誘拐事件を計画した。いや、正確には誘拐ではなく駆け落ちだ!」

「どういうことだよ、猫目石ねこめいし


 男が女の肩を掴んで、その名前を呼んだ。――変わった名前だ。そしてそれ以上に、私はこの名前を、そしてこの電車であったできごとを、生涯忘れることはないだろう。女は、猫目石さんは、私に向かって語り掛け続ける。


「武装しているのは相手の女が金持ちの娘だからだ、家には当然セキュリティがある。それを突破するためさ。そして電車で移動するのはそもそも相手が、つまり被害者が協力的な誘拐だからだ。だがしかしきっとどこかに車も隠しているだろうね、電車と徒歩で来たと相手に思い込ませれば、家を脱出した後の初動捜査が遅れる公算が高い! いやはや、面白い犯罪計画だ」

「このこと、警察には……」


 それは私が、その軍人風の女性にかけた最初で最後の言葉だった。私は何とかその言葉を捻りだしたのである。女は満面の笑みでこう告げた。


「僕は犯罪の動機やら方法やらには非常に興味があるが、犯人がその後どうなろうと知ったことじゃないんだ。僕が出した答えを確かめられればそれでいい。だから君のことを警察や相手方の家に通報するつもりは毛頭ないから安心したまえ。それと何か困ったことがあったらここに連絡をくれ。力になれるかもしれない、金はいただくがね。それからその後の経過報告ももしよかったらくれたまえ」

 

 女は一方的にそれだけ言うと、わっはっはと豪快に笑いながら私のコートに一枚の名刺を忍ばせた。そして閉まりかける扉から、半ば無理やり押し出すように、私を電車から降ろしたのである。

 電車を降りて、私はポケットに押し込められた名刺を見てみた。猫目石探偵事務所。名刺にはその事務所の電話番号と住所が書かれていた。




 拝啓、猫目石様


 突然お手紙を差し上げるご無礼をお許しください。

 私の名前は宮崎みやさき省吾しょうごと申します。私は確かにあなたさまにお会いしていますが、その時は名前を言いそびれてしまったものですから、ここに名乗らせてください。

 あなたさまはきっと覚えていらっしゃらないでしょうが、私は以前、家庭教師の仕事をしていました。あなたさまと出会ったのはとある電車の中で、狸寝入りを決め込む私を観察しただけで、あなたさまは私の職業と年齢、それから長年かけて用意した犯罪計画を見抜いてしまいました。その件について経過報告をしようと思い、こうしてお手紙を差し上げた次第であります。

 あなたさまが看破した通り、私はとある令嬢と恋愛関係にありました。初めは家庭教師と生徒という関係だったのですが、互いの情熱は次第に燃え上がり、いつしか相手なしでは生きていられぬようになってしまったのです。無論、生徒と恋愛関係になるなど言語道断です、私は誰にも相談することができないでいました。そして私はあなたさまにお会いするちょうど一年ほど前に、彼女を連れ去ってしまおうと思い至ってしまったのです。

 様々な計画を立ててはその実現性の低さに却下していき、もうどうすることもできないと思った時、ついに私が誘拐計画を立てているということが、もっとも知られてはならない相手、つまり被害者自身に見抜かれてしまったのです。しかし驚くことに、彼女は協力を申し出てくれました。さしもの私も少しばかり戸惑いました。確かに彼女には共に来て欲しい。しかしそれは彼女の約束された地位や財産を投げ打つことを意味するではありませんか。しかし彼女はそれでも、協力させてくれと、実に覚悟のこもった眼差しで言うではありませんか。

 計画はシンプルでした。もっとも警備の薄い時間を見計らって、私と彼女は一気に館を飛び出したのです。追っ手を振り切るのはそう難しくはありませんでしたし、何より彼らは私があらかじめ車を用意していたことを知りません。そう、あなたさまの推理した通り、私は事前に逃走用の車を館の近くに隠しておいたのです。かくして私と愛する女性は、無事に駆け落ちすることができました。

 私は今、九州の山奥で彼女と二人で暮らしております。自給自足に近い形で苦労も多いですが、とても、とても幸せな気分であります。ここで二人でゆっくりと生き、そしてゆっくりと死んでいこうと思っています。

 もしも近くに来るようなことがあれば、もっとも人里離れた山奥なのでそうそう来る用事などないかとは思いますが、もしも尋ねていただけるというのなら、精いっぱいのおもてなしをさせていただく所存です。あの時あの電車で私を見逃してくれたあなたさまには頭が上がりません。感謝してもしきれません。繰り返しになりますが、もしもご縁があってまた会うような機会があれば、ぜひともそのお礼をさせていただきたいのです。

 私の話はこれで以上です。またお会いできる日を彼女と共に楽しみにしております。どうかお身体に気を付けて暮らしてください。私は一生、あの日出会った奇妙な二人組のことを忘れないでしょう。それでは失礼します。お元気で。


 電車で出会った男・宮崎省吾より

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