「犯罪現場において絶対などというのは存在しない」

「退屈だ! 非常に、退屈極まりない!」


 ソファの上に寝転がる猫目石芽衣子が子供のように喚いた。彼女の周りにはここ数日のありとあらゆる新聞がまき散らかされている。もっともそれは彼女自身が散らかしたものなのだが、まったくこういうところを見ると玩具を遊びっぱなしにする子供そのものだ。


「この前の依頼はどうしたんだ?」


 私は新聞を一部拾い上げ、開いた。

 私が尋ねた事件はとある海軍将校が殺害された事件のことだった。マスコミは連日政府による殺人だと陰謀論を報じ、その騒ぎを大仰に捉えた政府関係者(以前猫目石に世話になったらしい)が依頼にやってきたのだ。


「なんてことはない、犯人は被害者の妻さ」

「新聞じゃそんなことは報じられていないぞ」


 私は新聞の日付を数日進めて辿ってみたが、海軍将校殺害の続報はある時期を境にピタリと停止していた。犯人が彼の妻であるなどという記事は一つも見当たらない。


「続報がなくなったのは犯人が捕まったからだってのは何となく分かるけれど、しかし何でまた奥さんが?」

「彼女の供述じゃあ、戦時中はあれだけ英雄視されていた夫が、戦後は人殺しと罵られることが多くなり、悪役になったのが耐え切れなかったそうだ」

「……恨む相手が間違ってやしないか?」


 マスコミや大衆を恨むのなら納得ができなくもないが、しかしその流れでどうして旦那さんを殺害するのだろう。


「動機は夫に対する恨みじゃないよ。誰かに――政府に殺されれば、その海軍将校は悪役ではなくなる。被害者や、あるいはヒーローの一種のように扱われるだろう。現に新聞の報道は被害者寄りだ。生前はあれだけバッシングしていたにも関わらず、ね」

「愛する人に悪役ではなくヒーローとして死んで欲しかったって? そんなことを考える人間がいるのか?」

「考えちゃいないさ」


 実につまらなそうに、猫目石が言い切った。


「今話したのは犯人の供述――つまり犯人が勝手に作ったストーリーだよ。本当のところは、僕は遺産目当ての殺人だったのではないかと思っているんだがね」

「だとすれば、随分と面倒な方法をとるもんだね」

「巧妙な犯人だったからね、法廷で自分が有利になるように供述するくらい難しくないさ。現に検察の動きは彼女に同情的だ」


 猫目石は興味なさそうにそう説明した。日常に刺激を求める彼女にしてみれば、既に解き明かした謎や犯人のその後については関心がないらしい。


「ああ、退屈だ!」


 私が変人の彼女の元で探偵助手をやっているのは、彼女が私と似ていると思ったからだ。日常に刺激を求めている。それは戦場から復員した私にとっても望んでいることであった。私と彼女の違いを述べるとすれば、それは彼女には類まれなる推理能力があり、対して私には退屈に耐える我慢強さがあるということだった。とはいえ、私自身も最近の退屈にはやや辟易としているのも事実である。

 私と猫目石はとある大きな洋館に探偵事務所と併せた居を構えている。この建物も建物で事故物件であり、その広さや豪華絢爛さからは考えられないほど破格の家賃、敷金であるのだが、しかしそれでも復員したばかりで他に職や収入源を持たない私たちにとってはそれなりに負担になる金額であった。だから一種の事業主である猫目石には早いところ何かしらの依頼をこなし、収入を得てほしいのであるが、推理能力以外においてはとてもではないが勤勉とは言い難い彼女のことだ、そんな金のことなど二の次なのだろう。

 そもそも彼女の私生活自体が自堕落に過ぎるというものだった。彼女は女性でありながら男性の服(それも学生服や軍服)を好んで身にまとっているが、しかし客や依頼のない時には皺だらけの服をだらしなく着崩すほどである。また日中は大きな客室にあるお気に入りのソファに寝そべり、ほとんど活動という活動をしない。夜になってようやく身体を起こすと、やることといえば本や新聞を読み漁るということだけであった。

 その間、助手である私が何をしていたかというと、屋敷にいつ客人が来ても大丈夫なように隅々まで掃除をしたり、あるいは猫目石の食事の世話をしたりと、家事に追われる始末であった。これでは探偵助手というより家政夫に近い。やれやれ、猫目石と同居を始めてから一週間が経過しようとしているが、果たしてこの人物についていって本当に大丈夫なのだろうか。そんな心配をしていると、不意に彼女の携帯端末がやたらとやかましい着信音を上げたのだった。


「僕だ」


 猫目石は短く答えると、しばらく電話の向こうの声に耳を傾けていた。電話の相手は相当に慌てているようで、その早口で捲し立てるような声が私の元にまでわずかながら聞こえてくるほどであった。通話が続いていたのは一分ほど。猫目石は概ねの事態を理解したのか、話もそこそこに電話を切ってしまった。


「出かけるぞ!」


 猫目石が小柄な体躯を勢いよくソファから起こし、立ちあがった。


「ええと、その前に聞いても良いかな」

「何だ! 僕は急いでいる!」

「じゃあ手短に……さっきの着信音なに?」


 私の質問があまりに予想外だったのだろう、猫目石は一瞬だけ目を丸くしたかと思うと、吹き出してしまっていた。


「電話の相手でも用件でもなければ、これから向かう行先でもなく、僕の端末の着信音?」


ああ、そう、その辺も気になる。でもなんで着信音が一番に出てきたのか、私にも分からない。


「説明は全部移動しながらしてやる」


 彼女は非常に慌てた様子で、といっても切羽詰まっているというよりワクワクとした子供のような様子で、服装を正し(今日来ているのは男性用の軍服)、その上に銀の装飾が施された黒の外套を羽織った。


「私も行っても良いのかい?」

「君は僕の探偵助手だろう」

「でも前の海軍将校の事件の時は邪魔だから来るなって……」

「今回の事件は面白いんだ。ぜひ君にも来てほしいんだがね、まあ、気が進まないというのなら仕方がないが」

 

 いや、私には分かるぞ。短い共同生活ではあるが、猫目石は自分が決めたことは貫き通す変な頑固さがある。ここで私が屋敷に残っても、後々禍根を残すに違いない。つまり、私にはそもそも選択肢などなく、彼女に続くしかないのであった。

 私は素早くコートと帽子を引っ掴むと、名探偵の後を追いかけた。

 屋敷の前の道は滅多に人通りはないが、そこから一歩大通りに出るとそれなりの賑わいを見せる。日が暮れかかっている時間だからか、往来には仕事帰りと思われる人の姿が多かった。そしてその大通りにまで出さえすれば、そこでタクシーを拾うのは簡単なことである。

 猫目石はタクシーの運転手に行き先の住所を告げると、座席に深くもたれかかって、何か思索にふけるようにゆったりと目を閉じた。私は先ほど尋ね損ねた数々の疑問も気にはなっていたが、それ以上にその猫目石の横顔に見惚れてしまっていた。身なりを整え、そして口を閉じている彼女はなんて魅力的なのだろう。つやつやとした唇や長い睫毛は女性的な美しさの象徴ではあるが、しかし彼女の場合はその中に男性的な力強さまでも兼ね備えているような印象を受ける。美しい女性というのは何人か思い当たる例があるが、しかし猫目石のような不思議な魅力を持つ人間には、他に心当たりはなかった。


「ゴジラ」


 唐突に彼女が口を開いた。


「何だって?」

「だからゴジラだよ、僕の端末の着信音」


 ゴジラというと、確か大昔に流行った怪獣映画だったか。私たちの祖父母よりもずっと前の世代のものだったと思う。詳しい内容までは私も知らないが。


「そう。そのゴジラの咆哮を音声加工したものさ」

「何でまたそんな着信音に……」


 確かに聞き逃したり、他の人の着信音と間違ったりすることはないだろうけれど。


「経済特区の令嬢が誘拐された。それも、からだ」


 ゴジラと違って、その言葉の意味はすんなりと理解することができた。猫目石がさっきしていた電話の内容だ。依頼と言えるかはまだ分からないけれど、彼女の知恵を借りようとしているのは確かだ。しかし最も気になるのは彼女の言うということだが……。


「ふん。どうせ現場の人間が何か見落としているに決まっている。犯罪現場においてなどというのは存在しない」

「でも、それじゃあ、一体どういう状況からその令嬢とやらは誘拐されたんだろう」

「連絡を寄こした奴の話をまとめると、つまりは厳重な警備だったにも関わらず誘拐されたらしいという話だった」


 なるほど、確かにということだけならば、ということにはなるまい。

 タクシーが向かったのは戦後に成立した新首都方面ではなく、戦争復興の過程におかれた旧首都の方であった。私たちを乗せた車は沢山の瓦礫とビルの間を抜け、目的地がある経済特区――旧秋葉原へと入っていった。首都こそ旧神奈川県に移されたが、しかし旧東京における経済復興を目指す人間や組織は少なくはない。そんな彼らのために設立したのがその経済特区であった。いわば東京復興の最先端の地である。

 旧秋葉原内はさすが経済特区と言ったところだろうか、瓦礫の山などはなく、特区の名に相応しい最新の設備を設置した建物がほとんどであるようであった。この街とここに至るまでに目撃した旧東京が同じ街であるということを、もしかしたら最近の子供には理解しがたいかもしれない。それほどにまで経済復興の差が明らかであった。

 経済特区に入ってから数分、私たちはようやく目的地へと到着することができた。猫目石は半ば投げ捨てるように運転手に料金を渡して車から飛び出し、私は丁寧に礼を言って釣り銭と領収書を受け取ってからタクシーを降りた。

我々の目の前にはとても大きな屋敷がそびえ立っていた。屋敷はもちろんのこと、庭の細部に至るまで整備が行き届いている分、私たちの住居よりも数倍は立派なものに思えた。大きな門につけられた表札には中条なかじょうと刻まれている。


「中条って聞くと真っ先に思いつくのは中条製薬だけれど」

「その中条さ。いわゆる戦争成金。もっとも製薬会社を経営していれば戦前から裕福ではあっただろうけれどね」


 中条製薬は今や日本でも指折りの製薬会社だ。そして私も医療の分野に携わっていたから分かるのであるが、戦場における医療品のほとんどには中条製薬の社名が刻まれていた。だから戦場や医療にトラウマを抱える私にとっては、むしろその心の古傷を抉るような印象の会社である。とはいえそれと誘拐事件とは話は別だ。攫われた令嬢がまだ無事であることを切に祈っているが……。


「僕としては死んでいてもらっていた方が余計なことを気にせずに調査できるからありがたいのだがね」

 

そんなことを言う猫目石を睨みつけて、私は門に備え付けられている呼び鈴を鳴らした。


「誰かね」


 インターフォンに出たのは低い男の声だった。何となく、執事かメイドでも出迎えてくれそうだと期待していたけれど、それは裏切られることになったようだ。まあ、この状況で期待するようなことではないだろうけれども。


「僕だ」


 電話の時と同じく猫目石はそう短く答えた。しかし彼女は自分が有名人だとでも思っているのだろうか。「僕だ」で通じる相手なんてかなり限られるだろうに。


「カメラに映っているだろう。それに君は演技をするつもりはないのか。警戒心丸出しで礼儀知らずの出迎え――誰が聞いても警察の人間が館の中にいるのがバレバレだ。ここは怯えたような声色で『どなたでしょうか』と尋ねるのが正解だな」


 猫目石が相変わらずの毒舌をぶつけると、インターフォンの向こうの男はやれやれと観念したような、あるいは猫目石の能力を再認識するような溜め息を漏らした。


「いやはや、さすがですな、猫目石さん」

「君も相変わらずだな、猪俣いのまた警部。まだ根性だけで犯人を追っているのかね」

「先生にはまったく敵わんですな。して、そちらの男性は?」

「連れだ。助手を雇った」

「なるほど、詳しいお話は中でしますので……」


 猪俣と呼ばれた警官と思われる男がそう言うと、ガチャリと錠の外れる音が門から響いた。私たちは念のため館に入るところを誰かに見られていないか確認して、足を踏み入れていった。

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