最後の事件 ~Ms.Mの陰謀~
「世界の危機です」
この事件を文章にまとめるのに、実に一年の歳月を必要としたのは、それほどまでにこの事件が私の内面に与える影響が大きかったからだろうと思う。
世間から猫目石芽衣子の名前が消えてから、もう二年が経過しようとしている。彼女の死については各種メディアで大々的に取り上げられたものの、その後すぐに冷戦状態に突入してからすっかり報道されることがなくなってしまった。しかしこの国の誰もの記憶から彼女の姿が消えたとしても、私だけは決して忘れることはないだろう。私は名探偵・猫目石芽衣子の伝記作家なのだから。
遡ること二年前――終わりを迎えたはずの大国間戦争が再開されるような空気が日本中、いや、世界中に流れていた。そんな中で起こったとある連続事件が、私からかけがえのない友人を奪っていってしまった。
あの冬の日、猫目石芽衣子は事務所に帰らなかった。数日家を空けることは何度もあったが、しかし一か月以上も姿を見せないのは初めてのことである。我慢の限界がきた私は、方々の知り合いに連絡をとり、それでも手がかりがつかめなかったので、もはや苦肉の策で彼女の兄に連絡してみることにした。そして前の時のように喫茶店「沈黙」で会おうという話になったのだった。
「実は芽衣子の行方は我々でも掴めていないんです」
少女の姿をした猫目石の兄が残念そうに首を横に振った。
「国そのものと言えるあなたにも、猫目石の居所は分からないと?」
「私はそれほど大それた人間ではありませんよ――という謙遜はさておき、事実、芽衣子がどこにいるのか分からないのです。我々も総力を上げて捜索しているのです。今こそまさに彼女の力を借りなくてはならない時ですから」
「例の大使の殺人事件ですか」
「よくご存知で」
猫目石兄はにこりと笑って紅茶を口に運ぶ。
例の殺人事件というのは、とある大国の大使が殺害された事件のことだ。その大使は先の第三次世界大戦の正式な終結の鍵を握る人物で、それが相手国内で殺害されたのだから、世界中が騒然としたものだ。各国の捜査機関がまさに血眼になって犯人を探しているが、一向に手がかりをつかむことができないでいた。
「テレビでは過激派のテロ組織の犯行だと報道されていましたよ」
「テロリストが完全な密室で殺害を行うわけがないですよ。捕まらないことが目的だとしても、銃でも爆弾でもいくらでも方法はある。そもそもテロリストならば大使殺害は自らの使命や、あるいは手柄のように振舞うはずです。それなのに犯人からの接触は未だなく、交渉しようという意思も今のところありませんし」
「それじゃあ、相手国側が暗殺したとか」
「大使を招いたのは、そもそも相手国内の反戦派の重鎮です。罠とは思えない。それに、これは一般には公表されていない情報ですけれど、殺害現場が明らかに不自然なんですよ」
「不自然ってどんな風に」
猫目石兄がパチンと指を鳴らすと、扉が開いて双子の女給が現れた。私はその片方からコーヒーのおかわりを、そしてもう一方から差し出された茶封筒を受け取った。
「現場の写真です」
私は茶封筒から何枚かの書類と写真を取り出した。
被害者の名前はジョージ・ハイランド。年齢は五十五。昔ラグビーをやっていたらしく、今でもその名残かがっしりとした体格である。写真を見ると、そんな人物がホテルの一室らしき場所で血まみれになって倒れていた。胸には果物ナイフが突き立てられており、おそらくそれが死因と思われた。
「正確には顔や性器を含めた二十二ヶ所が刺されていました」
「第一発見者は?」
「ホテルのボーイと大使のボディガードです。証言によると、ボーイがモーニングサービスを運んできたが返事がなく、心配したボディガードによって鍵を開けるように指示をされ、マスターキーで開錠」
「中には血まみれで冷たくなった大使」
「部屋の鍵は室内に残されており、マスターキーを持つのは支配人だけだがその人物も完璧なアリバイがあった。無論、マスターキーを盗まれたりコピーされたりした痕跡もない」
「確かに、テロリストやプロの殺し屋の仕事には思えない事件現場ですね。無造作で短絡的な印象を受けます。政治や宗教を示すような痕跡もない。顔や性器が攻撃されているから、現場だけ見たら怨恨殺人か、快楽殺人を疑いますが……」
「なかなか鋭い意見ですね」
「この二年、妹さんに鍛えられましたから」
「これがニューヨークの安宿ならその線で捜査を進めて間違いはないのですけれど、残念ながらこれは例外なんですよ。事件の舞台となった高級ホテルは当然ながらセキュリティも万全、自国から遠く離れているから被害者に恨みを持つ人間も周りにはいない」
「何度も刺されているから、いつかの事件のように刺された後に被害者自身が密室を作った線もありませんね。しかし、問題はそこではないような気がします」
「というと?」
「被害者が狙われた理由が一番重要なのではないでしょうか。つまり、これが被害者個人を狙ったものなのか、あるいはたまたま被害者が選ばれてしまったのか」
「同じことを言っていましたよ」
「同じことを? 誰がです?」
「私はこの件を犬吠埼捜査官に任せているんです。彼女のことはあなたも知っていますよね?」
犬吠埼咲枝――国立検事局の人間で、猫目石とは大学の同期でライバルだったと聞く。いくつかの事件で顔を合わせたことがあるが、彼女の優秀さは随所でうかがい知ることができた。
「各国の優秀な捜査官が過去の事件記録やプロファイリングによって事件の検証を行っています。犬吠埼捜査官は言わば日本代表ですね。解決できなかった場合は最悪核戦争もあり得ますから、どこの国も必死なんですよ」
「探偵オリンピックですか。猫目石が聞いたら真っ先に飛びつきそうな話だ」
「私も同感です。あの子は頭を使うことは苦手ですけれど、
たとえ私でもね――とその少女はくすりと笑った。
名探偵の伝記作家として言わせてもらえば、猫目石芽衣子の武器は頭脳だけではない。情報網や足を使うことを惜しまないこと、真実への執念、そして何より正義を信じる心は、この世のどんな名探偵でも及ばないだろう。
「しかし、その猫目石がここにはいない。一体なぜでしょう」
「分かりません。ですが、あの子のことだから気まぐれや偶然で姿を消しているとは思えない」
「何か理由があると?」
「おそらくは」
唐突に着信音が部屋に響いた。それは私と猫目石兄の両方で、私たちはほぼ同時に電話に出た。
「もしもし?」
『ハーメルンの笛吹き男だな、まるで』
間違うはずがない、声の主は猫目石芽衣子その人だ。
「猫目石か? 今どこにいるんだ」
『ある事件の犯人を追っている。僕の調査によるとあいつの名前はMs.M――ここ十年で起きた百以上の未解決事件は奴の計画だ。確証はないが、おそらく先の大戦もあいつが裏で糸を引いている』
「待ってくれ、突然何を言い出すんだ。未解決事件? Ms.M?」
『緊急の用事だ。兄にも伝えろ。あいつが動き出したと』
「なぜ今私が君のお兄さんと会っていると分かる」
『君のことなど何でもお見通しだ。兄と一緒にある人に会え。相手のことは兄が知っている』
それだけを一方的に言うと、私の制止を聞くこともなく電話は切られてしまった。私が携帯端末をポケットにしまうと、猫目石兄もちょうど電話が終わったらしかった。見ると彼の表情は、今までに見ることがなかったどころか、想像すらしないほどに真っ青になっていた。何か重大なことが起こったらしかったが、一体何が起きているのか、私には到底思い至るわけがなかった。
「何かあったんですか」
猫目石兄は深く息を吸って吐くと、俯いた状態からようやくこちらを見た。そして重々しく口を開いたのである。
「世界の危機です」
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