ドイル・ルブラン・ポー
「僕と同じく、人生に退屈していること!」
第三次世界大戦末期、大陸に軍医として派兵された私は足に銃弾を受け、本国に送還される流れとなった。もっとも、私の送還から間もなくして休戦状態になったのを鑑みると、私や同胞が帰国するのはそう大差ない時期になっただろう。
この当時の日本の状況はというと、読者諸君の記憶にも新しいだろうが、東京を初めとした主要都市三ケ所が空襲されたこと以外はさしたる被害はなく、過去の世界大戦とは比べ物にならないほど小さな損害で済んでいた。これは日本が戦争への積極参加をしていなかったことが原因として上げられるが、私はむしろ参戦を決める前とその直後に行われた反参戦派の過激なテロリズムこそ問題に上げるべきだと考えている。
空襲による被害が三ケ所に留まっているにも関わらず、反参戦派の起こした爆破テロは十数か所にもおよび、人的また経済的ダメージも空襲の比にならないほど大きなものであったのは言うまでもない。
その最たる被害を被ったのは旧首都である東京都であり、もはや現地での経済復興は現実的なものではなく、首都をかつての神奈川県へと移さざるを得なくなったのも頷ける話だった。
帰国した私が東京で見たものは瓦礫の山であり、そこは銃弾こそ飛び交うことはなかったが、まさに戦場そのものと言っても過言ではないほどのあり様であった。明治以降大幅な発展を続け、過去の大戦後も速やかな復興を成し遂げた首都はもはや影も形もないに等しかった。
そんな中発生したのが、戦後日本をあれほどにまで騒がせた『特区令嬢誘拐事件』である。東京復興の拠点とも言うべき経済特区――旧秋葉原で起こった令嬢の誘拐事件は、その手口といい結末といい、当面の間は人々の記憶の中に鮮明に残るであろう代物であった。
私と彼女――猫目石芽衣子の出会いは、この誘拐事件の一週間ほど前に遡ることになる。
「とにかく変わり者なんだよ、彼女はさ」
高校時代の友人である
「なんて言ったっけ、名前」
私は焼き鳥を串から外しながら聞き返した。皆藤君が言う人物の名前についてはまだ一度しか耳にしていない。変わった名前であることは印象に残っているが。
「猫目石だよ、
「君の後輩ということは東大文学部か、優秀なんだな」
「非の打ち所がないような奴だったよ、変人ってことを除けばな」
「猫目石……確か宝石の一種だったよね。クリソベリルだったかな」
「さすがに博識だな」
「役に立たない雑学さ。それで、その人――猫目石さんはどんな風に変人なんだい?」
復員から約一か月、正直なところ、私はこの生活に退屈していた。退役軍人に与えられる年金でしばらくの間は食いつなぐことはできるが、しかしそれは雀の涙ほどの額であり、贅沢をしたり刺激を得たりするには不十分極まりないものであり、最近の私はというと昼間は安宿で本などを読み漁り夜になるとこれまた安い居酒屋で酒を呑むということを繰り返していた。
本来ならば苦労して得た医療に関する資格を活かして生活の糧を得るべきなのだろうが、戦場で負った肉体と精神への傷が、どうにも私からやる気というのを削ぎ落していった。そんな中、ふと入った呑み屋で、私は旧友である皆藤君と再会したのであった。
「教授陣と対立するなんてことはしょっちゅうだったよ。ありとあらゆる学説に噛みついていた。しかも彼女のする反論ってやつが一々説得力のあるものでな、誰も彼もがあいつみたいに学門に積極的ならともかく、ただ単位が欲しいだけの一般大学生にとっちゃ迷惑極まりない奴だったよ」
「頭の良い奴だったんだな」
「良すぎるのも考えものさ。ああいうのはどこに行っても生きていくのに苦労するもんだ」
「苦労ねぇ……」
苦労しているのはみんな同じだ――そう反論しようかとも思ったが、酒の席をあまり白けさせるものでもないと思い、私はその言葉をぐっと飲みこんだ。私と違って戦時中、皆藤君は国内に残っていたという話だった。空襲やテロに直接巻き込まれたのでもなければ、私と皆藤君では感覚が食い違って当然のことだろう。
「や、本当に苦労しているみたいだったよ。俺は今不動産関係の仕事をやっているんだがな」
「そいつは初耳だ」
「そうだったかな? お前には慧眼だと褒めてもらいたいもんだがね、戦後に急成長する事業は不動産業だって相場が決まっている。それに、今回の戦争は長くないことは明らかだったしな」
「戦争はまだ終わっていないよ」
「条約の上ではな。だがこの休戦協定は事実上の終戦みたいなものさ。とにかく俺は今不動産関係の仕事をしているわけだがな、どこから聞きつけたのか、猫目石の奴、この前いきなり訪ねてきて安い物件を探しているってきたもんだ」
「変人でも引っ越しくらいはするだろう」
「何でもあいつ、戦争に行ってたんだと」
戦争に行っていた――私は皆藤君のその言葉に不思議な違和感を覚えた。
「君の後輩って言ったよね」
ああ、と皆藤君は酒をあおりながら頷いて見せる。
やはりおかしい。大学を出て入軍できるのは時期的に考ええて私たちの学年が最後だったはずだ。となると猫目石は大学を辞めて戦争に参加した?
「だから言っているだろう、変人なんだよ。俺が大学四年の時に突然退学したんだ。退学するちょっと前からゼミにも顔を出さなくなったし、どの教授に聞いてもあいつがどこに行ったのか分からんときたもんだ」
「突然消えた変人が、実は戦争に行っていて復員してきたってわけかい」
「乱歩や正史の作品じゃあるまいしな」
「不気味なマスクはしていなかったんだろう?」
私の返しに皆藤君は少し笑うと再び酒をあおった。どうやらご自慢の文学ジョークが私に通じてご満悦といった様子だった。
「そういえば話は変わるが、お前は今仕事をしていないんだって」
私は曖昧な笑みを浮かべてみせる。
「する気はあるのか? お前がその気ならいくつかの病院にコネがある、紹介してやろうか」
「いや、しばらく医療機関で働く気はないんだ。それより不動産関係の仕事をしているって言ったよね、もし良かったら私にもどこか安い物件を紹介してくれないかな」
「宿暮らしにも飽きたって?」
「出費を抑えたいだけさ。それに新しく仕事をするにしてももっと新首都に近いところが良いし、何より確かな住所があるのとないのじゃ就職の成功率が大違いなんだ」
「大学じゃ教えてくれない知識だなぁ」
「ハローワークで習った」
私が言うと、皆藤君は今度はわっはっはと大きく笑った。そして私を元気づけるように肩をポンと叩くと立ち上がった。
「よし分かった、何軒か見積もりを立ててやるよ」
「ありがとう、すごく助かるよ」
「なに、旨い酒が呑めた礼だ」
その後は高校時代の昔話に花を咲かせ、日付が変わるころに私たちは別れた。
翌日、皆藤君にもらった名刺を頼りに、私は今の住居から少し離れた新首都へと足を運んだ。
新首都――旧神奈川県を私が復員してから訪問したのは初めてであったが、そこは首都の名に相応しく、目覚ましい発展を遂げていた。いくつもの企業集合体がビルを建て、かつての東京と同じ、否、それ以上の経済的成長が明らかである。ビル群などは別に珍しくもなかったが、しかし東京のあり様と比較して私はやはり驚愕を隠せなかった。
新首都の最も特徴的な点は各駅や路線の在り方だと、新首都駅で合流した皆藤君はそう説明した。
「昔の東京の駅ってのはどこもかしこも複雑極まりなかっただろ。あれは旧戦後の発展と共に駅や路線が無秩序的に増えていったからなんだ。つまり当初の予想を上回るほどの発展だったわけだから、そもそも分かりやすくなんてなるはずがなかったってわけだ」
私は皆藤君の運転する車の窓から外のビル群を見上げていた。かつての東京にもここまで高いビルがあっただろうか。技術の発展なのか、あるいは私が戦場にいる間にあの高さを忘れてしまっただけなのだろうか。
「それに対して新首都はだな、過去の東京近郊の駅のデータをもとに完璧に計算された建築なんだ」
「完璧な計算って?」
「分かりやすさ第一。無駄を極力なくしたシンプルな造りさ」
「さっきから随分自慢げだけれど、もしかして君の事業も」
「ああ、一枚噛んでる。交通網やインフラが戦後復興でまず大切なところだからな、当たり前だが儲かる」
「君は成功者なんだな」
「まだまだこれからさ」
しかしなんでそんな成功者様が、昨日はあの安い居酒屋で呑んでいたのだろう。
「土地や物件を探している奴ってのはどこにいると思う?」
「さあ、見当もつかない」
「旧首都さ」
「ああ、私みたいに」
「その通り! まあ、俺も居酒屋で新しい顧客と出会えるとは思ってなかったけどな。昨日はあの近くで打ち合わせがあったんだ」
皆藤君はハンドルを握りながら、空いている左手で携帯端末を取り出し、私に差し出した。
「今日紹介する物件だ。もっと安いのもあるにはあるが、友達としておすすめはできないね、何かしらの問題を抱えていることがあるから」
薄い板のようなその携帯端末の液晶には、皆藤君の言う通りいくつかの物件の情報があった。その多くは一人暮らしご用達といった感じのアパートやマンションだ。
「マンションになると新しい都庁や中心街に近くなるけど、その分家賃は高い。どこかの企業に属するってんなら良いだろうけど、お前はそういうタイプじゃないだろう? まあ、俺のおすすめはアパートの方だな。価格も手ごろだし、昔から住宅街だったところにできたアパートばかりだから住みやすい。近くに店も多いしな」
確かにマンションは購入するにせよ賃貸にせよなかなか手が出しにくい価格だ。対してアパートの方は都心からは離れるが家賃と言い立地と言い、住みやすそうな印象を受けた。
「一軒家もいくつかあるようだけれど」
「念のためだよ。お前が何か家で仕事をしたいって思ってるならそっちの方が良いかと思ってな」
「随分気を遣ってくれるんだな」
「ビジネスの基本さ。ところでお前、新しい家を探すのは良いが、実家とか両親に頼るってのは考えなかったのか」
「考えたさ。ただ元々親子仲は良くなくてね。できるなら頼りたくはない」
「なるほどね、まあそういうこともあるわな」
「分かってくれて嬉しいよ。……ん? この家は?」
私の目に一軒の物件が留まった。
それはとても大きな洋館だった。過去にどれだけの富豪が住んだのか分からないが、造りもかなり手が込んでいる。しかし不思議なことにその絢爛さに対して家賃は破格のものであり(とは言え私としては手を出すのを躊躇する価格なのだが)、私は訝しんだ。
「この洋館は何だい?」
「ん? 洋館?」
その質問は皆藤君にとっても意外だったようで、助手席の私の端末をチラリの覗き込んだ。
「あちゃあ、すまん、それは間違いだ。他の顧客に紹介したデータだった」
私はその「他の顧客」というのに随分と知的好奇心を抱いていしまった。果たしてどんな人物がこの絢爛極まりない屋敷に住むというのだろう。
「家賃が随分と安いんだね。どうしてだい?」
「写真こそ立派だが、古い建物なんだよ。今年で築百年って言ったかな。リフォームなり清掃なりすればもう少し見栄えも良くなるんだろうけどな。それに……」
「それに?」
「ああ、いや」
皆藤君は誤魔化すように視線を泳がせたが、やがて無駄だと判断したのだろう、あるいは私に対して一定の信頼を置いてくれているのかもしれない、言い淀んだ言葉の続きを話してくれた。
「事故物件なんだよ。その屋敷は三年前までとある大会社の社長が住んでいたんだがな、そいつが戦争ビジネスでしくじった。会社を畳んだは良いものの手元に残ったのは多額の借金のみ、女房子供にも逃げられたそうだ。そんで首が回らなくなったそいつは、屋敷の一角で首を吊ったとさ」
「こういう風に言うのは良くないかもしれないけれど、よくある話だね」
「お前の言う通りさ。俺みたいに戦争で成功した人間もいれば、失敗する奴もいる。ビジネスに一番必要なのは運なのかもしれんな、いつの時代でも」
いわゆる
屋敷はその後、自殺した社長の遠い親戚に相続されたらしいが、すぐに売り払われてしまったということだった。私はそこまで聞いたタイミングで、当初の疑問――どのような顧客がこの物件を求めているのかということを尋ねてみることにした。
「こういうのは個人情報だからな、本当は言っちゃあいけないんだが……」
皆藤君がチラリと私を見た。そして了承したのだろう、肩をすくませてみせると話を続けてくれた。
「まあ、話の流れってやつだな。
「
「猫目石芽衣子――変人さ」
その日は皆藤君が用意してくれた物件を一通り回ることに費やされた。どの住居も住みやすさという点においては甲乙つけがたいほどに優れていたが、逆に言えばどうしてもここに住みたいと思えるような点は、どうにも見出すことできなかった。
「まあ、普通は職場との兼ね合いなんかも考えながら選ぶもんだからなあ」
既に日が暮れかかっている。市営施設の駐車場に車を停め、私たちは缶コーヒーを飲みながら話していた。
「悪いね、面倒な案件になっているみたいで」
「気にするな。これも仕事だし、友人の頼みを無下にはできん」
「そういえばあのお屋敷」
「あの幽霊屋敷がどうしたって?」
「結局、猫目石さんはそこに決めたのかい?」
「いいや、やっぱり家賃が少し高すぎたようでな、よほど気に入っていたのか珍しく残念そうな顔をしていたよ」
「そうなんだ」
確かに復員者が退役年金で支払うには少々躊躇する値段だ。せめて何人かでルームシェアでもできれば話は別だろうけれど。
「なんだ、随分気にするじゃないか」
「幽霊屋敷が? それとも猫目石さんのことが?」
「両方さ。そんなに気になるなら行ってみるか?」
「行くってどこに」
「幽霊屋敷さ。猫目石に会えるかどうかは知らんがな」
皆藤君の好意に甘えることにした私は、件の幽霊屋敷を訪れてみることにした。そのころにはすでに完全に日は沈み、夜の帳が下りていた。月明りはほとんどなく、また街灯からも離れているから、その屋敷は文字通り幽霊屋敷と呼ぶに相応しい様相を呈していた。
門から玄関への距離も五、六メートルはあり、脇には手入れこそされてはいないものの広々とした庭がある。隣の芝生は青く見えるとは言うけれど、青すぎるほどにまで生い茂った雑草は、とてもではないが魅力的には見えない。
「屋敷全体に言えることだと思うが、手入れさえすれば立派なもんだぜ」
「事故物件っていう欠点はあるけれどね」
「人の噂も七十五日、いずれ気にならなくなるさ」
言いながら皆藤君は錆びだらけの門の鍵穴に鍵を差し込んだ。その鍵もまた屋敷同様年季の入ったものであり、それだけでも一種のレトロアンティークとして通用しそうなものだった。
幸いなことに鍵穴自体は錆びついていることもなく、鍵はすんなりと回った。その代わり皆藤君が門を引くとキィと不気味な金属音を立てた。些か入るのを躊躇われる状況ではあったが、それ以上に私の好奇心が、私を屋敷の内部へとかき立てていた。
「お化け屋敷に入る気分だよ」
「ビビってんのか?」
「ワクワクしているのさ」
そんな軽口をたたきながら私たちを歩を進め、屋敷の中へと入っていった。
埃のせいで息もできないのではないかと思われた屋敷の内部は、存外に綺麗なままであった。皆藤君の話によれば定期的に清掃業者を呼んでいるらしい。それでいてなぜ屋敷の外見や庭が荒れ放題なのかというと、単にそれぞれの業者を呼ぶほどの金がないということだった。
「規模に対して家賃が低いから利益も少ない。だから手をかけるだけ無駄なのさ。お前みたいなもの好きがいるから、一応中は綺麗にしているけど」
ガスや水道は通っていないが、電気は来ているという話だったので、私は部屋の照明をつけてみた。良く言えば雰囲気に合っていると表現できなくもないが、照明は淡いオレンジ色の光を放ち、しかしその光量は少ないので部屋は薄暗いままであり、不気味な印象を払拭するまではいかなかった。
屋敷は一体何部屋あるのか分からないほど広い。玄関から入ってすぐのところに古い見取り図があったけれど、ざっと数えただけでも二十部屋はありそうだった。中でも壮観だったのは応接間であり、大きな暖炉があるだけでなく、その上の壁には鹿の頭の標本まで飾られていた。まるで映画の中の世界だ。
次に驚いたのは書斎だった。書斎にあったのは立派な机だけでなく、書架とそこにある蔵書まで手付かずの状態だったのだ。驚くべきはその内容で、絶版になった本がこれでもかと並べられていた。
「本来ならそういった私物は処分するんだが……俺も結構本を読むから分かるんだが、貴重なものばかりだろ? 部屋の雰囲気にも合っているし、そのままにしておくことにしたんだ」
「読書好きにはたまらないね」
「猫目石も同じことを言っていたよ」
本を読むといっても皆藤君はその書架にはさほどの関心はないようだった。あくまでビジネスの一環――洋館の雰囲気を演出する舞台装置としか期待していないようだ。
私はここまでの会話で、猫目石芽衣子という会ったことも見たこともない女性に対し、奇妙なまでのシンパシーを感じていた。蔵書の件もそうだが、この幽霊屋敷を気に入っている点もそうだ。一瞬、彼女とならば上手くルームシェアできるのではないかという考えが過ったが、相手は女性で私は男性だ、恋人でもないのに同棲するのは変な話だと気が付いた。
私は再度書架に目を戻したのだが、そこで奇妙なことに気が付いた。
「あれ? この本……」
皆藤君が私の指さしている方を覗き込む。
「『悲劇の山荘』か、ドラマで見たことはあるが、原作は読んだことないなぁ」
皆藤君が言う『悲劇の山荘』というのは戦前から連作を重ねているミステリーの人気シリーズのことだ。毎回個性豊かな山荘が舞台となる作品で、何度もドラマや映画になっている有名作である。
「おかしいと思わない?」
「何が」
「他の本はどれも絶版になっていたり作者のサインが入っていたりするものばかりなのに、『悲劇の山荘』はあまりにもありふれている。何と言うか……」
「この本棚には相応しくないって?」
「そう! 他の蔵書に比べて新しいみたいだし」
私は言いながらその一冊を手に取ってみた。
それは『悲劇の山荘』シリーズの十七作目にあたる作品だった。舞台は北海道の山荘で、確か密室トリックが登場する話だったはずだ。
「見たところ初版本でもないし、作者のサインが入っているわけでもなさそうだな、当然、絶版にもなっていないんだろう?」
横から覗き込んでいた皆藤君の言葉に、私は頷いてみせる。
「ますます分からないな、どうしてこの本がここに?」
疑問を抱きながら顔を上げる。するとそこに――書架の本が抜かれた空間に、一片の紙切れを見つけた。私はその隙間に手を差し入れ、紙切れを取り出してみた。
紙切れには五つの数字が書き込まれていた。12、42、27、54、3――この数字が一体どんな意味を持つのか。
「ホイッテカー年鑑かな」
それは私の呟きにも似た発言だった。
皆藤君が聞き返す。
「何年鑑だって?」
「ホイッテカー年鑑。シャーロック・ホームズの、『死を呼ぶ暗号』という作品に登場する年鑑だよ。朝日年鑑や読売年鑑みたいなもの」
「そいつがどうかしたのか?」
「ホームズにもこの紙みたいな暗号が登場するんだ。ネタバレになるんだけど……」
良いから続けろよ――皆藤君が視線でそう促す。
「この紙みたいに数字が書いてあって、一つ目の数字がページ数を、二つ目の数字が行数を、そして三つ目の数字が文字数を表していて、ホイッテカー年鑑を元に変換していくと、数字の羅列が意味を持った文章になったんだ」
「するとこいつも……」
皆藤君は私から半ば無理やり紙片と『悲劇の山荘』を毟り取ると、ホイッテカー年鑑よろしく数字を文字に変換し始めた。が、その結果は目に見えていたものだった。
「まったく訳の分からん文字列になったぞ」
「まあ、そうだろうね。何かを表現するには数字が少なすぎるし」
紙片にある数字は五つ――仮に文字に変換するとしても、数字が一つ余ってしまう。何か他に変換方法があるのだろうか。いや、しかしそもそもの数字が五つしかないのだから、それほど複雑な変換方式ではないはずだ。まったく、復員してからこっちの読書生活は役に立たなかったようだ。
「間抜けが何人いても無駄だという良い見本だね」
唐突に背後から声がして、私と皆藤君は驚いて振り返った。
そこにいたのは一人の美少年だった――否、声を聞く限り、相手は女性だろうか。美少女と表現できなくもない。
年齢は分からない。子供のようにも、成熟した大人の女性にも見える。年齢や性別について私が困惑したのにはもちろん理由があり、その人物が男子用の学生服を身にまとっていたからだ。詰襟をしっかりと上まで停め、学生帽まで被っているため、私は初めそれが学生服ではなく軍服か何かと思ってしまった。軍服ならば男女問わず着ていてもおかしくはないが、しかしそれがよく見ると学生服なのだから、年齢や性別を推察できなくともおかしくはないだろう。
顔つきはかなり整っている。服装如何によっては男にも女にも人気が出そうである。最も印象に残ったのはその眼差しで、一目で鋭い知性を持っている人物だと察するような独特の雰囲気があった。
その人物はつかつかと私たちの元に詰め寄ると、皆藤君から謎の数字が書かれた紙片を取り上げた。
「いきなり現れて人を間抜け呼ばわりとは、良いご身分だな、猫目石」
猫目石――皆藤君は確かにそう言った。その名前の人物について、私が思い当たるのはたった一人である。そうありふれた名前ではない。それじゃあ、この人が……? 私の視線の意味に気付いたのか、皆藤君は首肯した。
「こいつが例の
「変人――どうせそんな風に紹介しているんだろう?」
「ああ、その通りだよ」
皆藤君はまったく忌々しそうに顔をしかめながら肩をすくめた。どうやら思考を読まれたのが相当気に入らないらしい。
私が自分の名前と、それから皆藤君とは高校の同期であるということ、安い物件を探しているということを説明すると、ようやく猫目石はその端整な顔をこちらに向けた。
「インドか? それとも中国?」
「……何?」
思わず素っ頓狂な声を上げていた。インド? 中国?
「どっちだ、君が軍医として派兵されていたのは」
「インドだけれど……」
僕はチラリと脇の皆藤君を見た。彼は何も知らないと言わんばかりに首を横に振っている。第一、私は大陸方面での戦闘に参加したとしか彼には説明していない。確かに先の戦争の主な戦場はインドと中国であったが、そもそもどうして私が軍人として戦争に参加していたと分かったのだろう。
「インドといえば、僕は自分の死を予言したという男に非常に興味がある。何か情報を持っていたら教えてもらいたいのだが」
「いや、それよりも、どうして私がインドでの戦闘に参加していたと?」
私は素直な疑問をぶつけてみたのだが、反応は芳しくなかった。猫目石芽衣子は、やれやれ、こんなことも分からないのかと大きな溜め息をついた。
「姿勢や話し方から軍人の雰囲気が出ている。日焼けはしているが手首から先は焼けていないことから、意図的に焼いたものではない。しかも手先だけが白いままということは屋外で頻繁に手袋をしている証拠だ。足を引きずり、そのことに苛立ちを覚えているところを見ると、どうやら怪我は比較的最近のものらしい。ところが杖をついている素振りがないということは、おそらく怪我自体は既に完治しており、足を引きずるのはむしろ心的外傷が理由だろう。トラウマができるほど激しい戦闘があったとするとおそらく中国かインドだ。それに安い賃貸を探しているということも軍人であることの大きな根拠になった。退役軍人向けの保証金はもうすぐ期限が切れる」
「そうなのか?」
皆藤君が聞き返し、猫目石が当然のことのように頷く。
「退役してから約半年が期限だからね」
「なるほど。それじゃあ、こいつが軍医だってのはどうやって知ったんだ?」
猫目石と同じく推理しようということなのか、皆藤君がこちらに視線を向けながら尋ねた。
「軍人であることは分かったが、海兵隊って雰囲気じゃない。身体つきを見てもそうだ。手袋の跡があるってのが一番大きな手掛かりになったけれど、皆藤先輩の同期ということは、少なくとも高校時代はなかなか偏差値の高い学校に通っていたということになる。頭の良い人間で尚且つ前線に立つことがあるとすれば――」
「軍医か!」
皆藤君が納得したように手を打った。対して猫目石は自身の推理のオチを先に言われてしまったことにやや不服のようだった。しかし猫目石の推理は本当に見事であり、彼女が私に対して言ったことは、全て事実であった。
「すごい、見事だ!」
「お世辞は結構」
「お世辞じゃないよ、本心さ」
「……まあ、いい。それで、情報は?」
「情報?」
「自分の死を予言した男の話だ! 何か知っているのか?」
ああ、その話か。
自分の死を予言した男――戦場のど真ん中の話だから、自らの死を予言するのは容易い。しかしその男は、自分がどこを何発撃たれて死ぬのかということまで予言してみせたらしい。
「
「ただの噂話かと。戦場でよくある都市伝説さ。もしかしたら他の部隊に実在したのかもしれないけれど、少なくとも私は知らないよ」
私がそう答えると、猫目石は心底残念そうに息を吐いた。
「君は何のために遥々戦場に行ったんだ」
「少なくとも予言者を探すためじゃないけれど」
「じゃあ人を救うためか? 救えたか? いいや、答えは聞くまでもない。君は救えなかった。それが心に傷を与え、未だに医療現場に戻れないでいる。違うかね?」
「……」
目の前で人が死んでいくのを見た。何人も。私は軍医として、医者として全力を尽くしたが、救えたのはごく少数の人間だけだった。私の腕が悪いのか? いいや、戦場じゃあ、誰がやっても結果は変わらなかっただろう。誰かが悪いわけじゃない――頭では分かっていても、しかし心から納得することはできなかった。
「今でも夢に見るよ。怪我を負って私の元に運び込まれる兵は、皆私に懇願するように名前を呼ぶんだ。まるで神様にすがるように。でも私は神じゃない。救えなかった。そしてある時気が付いたんだ」
「何にだ?」
「私の名前を呼び続けていた兵たちが、息を引き取る瞬間はとても幸せそうな顔をするんだ。痛みや苦しみから解放されたからかな。けれどね、私にしてみればそれは辛かったよ。人を救おうと努力しても、実はそれは本人のためにならないんじゃないかって、いっそのこと楽にしてやった方が良いんじゃないかって」
「お前、それは……」
皆藤君が何かを言いたそうに口をもごもごと動かした。彼が何と言おうとしたのか、私には分かる。あの時の私の考えは――そして今も頭の中にこびりついているこの思考の方向は明らかに間違っている。怪我人や病人を治療するのが、医者として正しい行動であり、そこには本来疑問の余地などないはずなのだ。
この苦しみを、誰かに理解してもらえるとは思っていない。
「そうか、良かった。こっちは理解するつもりは毛頭ないから」
猫目石が実に良い笑顔でそう言い放った。安心したようだった。掴みかかろうとする皆藤君を、私は何とか思い留ませる。
「何をペラペラ話したかと思えば……君はここまで来てまだ本心を隠すのかい?」
「……」
本心?
「本心って何だよ、猫目石」
皆藤君が聞き返す。当然の反応だ。
私の本心。そんなものは、とうに理解している。
「まったく皆藤先輩も人を見る目がない。これでは商売も先行き不安ではないですか?」
「俺に人を見る目があるのかないのかはともかく、お前には分かるのか、こいつの本心が」
「簡単じゃないか。そこにいるあなたのご友人が、全部自分で話していましたよ」
「どういうことだ? こいつが話したことなんて、戦場での後悔くらいしか……」
「後悔? はっ、あれが?」
くっくっく、と猫目石が笑い声を漏らす。実に愉快そうだ。彼女は本当に私の本心に気が付いている――私はそう確信した。私と彼女は似ているのだ。
猫目石は笑顔のままこちらに視線を向ける。
「あなたが苦悩していた理由は、あなたが本当は瀕死の兵を助けたくはなかったからだ。戦場で負傷した人間は助からない確率の方がはるかに高い。冷静に考えれば治療などというのは実に無駄な行為だ」
皆藤君は黙ってこちらを見ている。
「しかし、良心がまったくないというわけでもない。目の前で怪我を負った人間がいれば、それを救ってやりたいと思ったのもまた事実だろう。君は頭の良い人間だ――僕ほどじゃないが――だから理性と感情の板挟みになった。そしてその二律背反に自己嫌悪した、それが君のトラウマの根本さ」
これはきっと皆藤君には理解できない話だ。いや、彼に限らず日本に留まり続けた人々には、理解できない。戦場を経験した人間でなければ分からない話だ。
私は平和に暮らす人々を恨んでいる。
「君は平和に暮らす人々を恨んでいる」
もちろん、それが逆恨みであることは理解している。しかし、頭で理解していることが感情でも受け入れられるとは限らないのだ。
「そして君は望んでいる。この国の人々が一人でも多く、恐怖と混沌に飲み込まれることを」
「私はテロリストか何かかな?」
「もっと性質が悪いかも」
「だが、性質が悪いことは別に罪じゃない。そうだろう?」
「しかし君はいつか必ず罪を犯すよ。それもとんでもなく大きな。心の中ではそう望んでいるから」
どうかな。私は肩をすくませてみせた。本当のところを言うと、そんな予感はひしひしと感じている。このままいけば、きっと彼女の予言通りになるだろう。
「君はこの世界に退屈しているのさ。だからこの屋敷に来た。暗号を見つけ、それを解こうとした。少しでも退屈を紛らわせるように」
「君はどうなんだい?」
私は猫目石にそう聞き返した。私と彼女は似ている。それならば彼女もまた、退屈を晴らすためにここに来たのではないだろうか。
「僕がどうかって? くっく……君と同じに決まっているじゃないか!」
猫目石は唐突に書架の方を振り返り、手を伸ばした。書架内のいくつかの本に順番に触れていく。触れた回数は五回――私は暗号の意味を、ようやく理解した。
「ドイルというよりルブランの作品にありそうな仕掛けさ。紙片に書かれた数字はスイッチの位置を示すものだった」
ギギギ……と鈍い音がして、本棚が横にスライドした。そこには扉があり、扉は地下へと続く階段に繋がっていた。
ようやく警察の事情聴取から解放された。時刻はもう二十一時を回っている。私たち三人は警察が去り、立ち入り禁止のテープが貼られた館を見上げていた。
「一体、いつから気が付いていたんだい?」
私は猫目石に尋ねた。
幽霊屋敷の地下に降りた私たちが見つけたのは、壁に埋められ白骨化した女性の死体だった。詳しく調べてみなければ分からないが、死後十年ほどのものらしい。
「本棚の先に地下へと続く階段があるというのは前回の内見の時には気づいていたよ。入口のところに館の見取り図があったのは覚えているかい?」
二十まで部屋の数を数えて止めてしまったあの見取り図か。
「それと内見前に皆藤先輩に見せられた見取り図が微妙に異なっていたからね。おそらく時代の流れと共に改竄されてしまったのだろう。位置的にはあの本棚に何かあるのは明らかだったが、前回の内見の際にはそこまで暴く時間がなかった。結果的には君がそれを見つけたわけだが」
「でも謎を解いたのは猫目石さんじゃないか」
「ふん、当たり前だろう。まあ、蓋を開けてみれば、ドイルでもルブランでもなく、ポーの作品だったわけだけれど」
「黒猫はいなかったけどな」
横から皆藤君が口を挟んだ。
「しかし、あの屋敷の嫁さんは逃げたと聞いていたんだがな……猫目石、お前、本当は地下に何があるのか勘付いていたんじゃないか?」
「当然じゃないか。家を改造してまで隠したかったものは何か――大抵はお宝か死体だ。けれど宝があるのならそもそもあの一家は崩壊することはなかったはずさ。一度目の内見の後調べてみたら、案の定、あの屋敷の奥さんが行方不明になっていることが分かった。逃げられたのなら捜索届くらいは出ているはずだが、それもないようだし、それに時期が変だ」
「時期?」
「あの遺体の検死からも分かるように、あれは十年以上前のものだ。奥さんが行方不明になったのもそのくらい。戦争なんてなかった時期さ。そんな時に戦争ビジネスに手を出して失敗する――なんてのはあり得ない話だよ。戦場で自分の死を予言した男ってわけじゃあないが、よくある都市伝説だよ」
「宝以外の何かを、つまりは彼女の死体を隠しているのは明らかだったわけだ」
私は改めて猫目石芽衣子に対し非常な感心をした。彼女の推理能力はさながらミステリー小説に登場する名探偵そのものだった。確かに皆藤君の言う通り、非常に変わった人物ではあるものの、もしかしたら彼女はこの戦後の混迷に光明をもたらす存在なのかもしれない。
「ところで君、新しく住む場所を探していたようだったが、良い物件はあったかい?」
「どこも悪くなかったけれど、どうにも性に合わなくてね、決めかねている」
「それじゃあ僕が皆藤先輩に代わって一つ良い物件を紹介してあげよう」
「へぇ。どんなところ」
「とても広くて豪華な造りをしているが、築年数はかなり経っている。事故物件なんて噂もあり、近所からは恐れられているところだ」
「おまけに蔵書はピカ一?」
「それだけじゃない。そこにはこれから奇妙極まりない謎が次々に転がり込んでくるぞ。とある人物が探偵事務所を開設することが決まっている」
「それじゃあもう住人は決まっているようなものじゃないか」
「ところがその名探偵をもってしても家賃が少々高いらしい。ついては家賃を折半する住み込みの探偵助手を探しているそうなんだが、君、興味があるのなら応募してみると良い。両親や兄弟とは折り合いが悪く、行く当てはないのだろう? なぜそれをって顔だが、実に簡単なことだ。普通なら君のような戦争の英雄は両親や兄弟がしばらくは面倒をみてくれるものさ。それをしないってことは両親や兄弟がいないか、もしくは君自身にその意思がないかだ」
「やはり見事な推理だ! ちなみに君の言う名探偵の元で働くにあたって、何か条件はあるのかな」
猫目石がにやりと笑みを浮かべる。
「僕と同じく、人生に退屈していること!」
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