第3話 嵐を告げる客人
偽王のしらせは、ファウル女子修道院にももたらされた。マザー・グレイスがマーガレットを書斎室に呼び出し、経緯を説明した。
「修道院の壁の内にいるうちは安心です。あなたの安全のため。くれぐれも、修道院を抜け出すことはしないように」
いつものお小言ではなく、本気でマーガレットを案じての言葉だった。
目尻に刻まれた深い皺。マザーはもう四十年もこの小さな女子修道院の長をつとめている。
マーガレットやアリスのような問題児を抱え込んでも、自信を失うことはない。
シスターたちが日々祈りと奉仕の日々に身を投じることができるのは、ひとえに彼女の心くばりのおかげであった。
今回ばかりは迷惑はかけられないと、マーガレットは殊勝に頭を下げた。
「はい、マザー・グレイス」
偽王を倒すために立ち上がったのはシーガン・ヴィア、マーガレットの父である。この偽王を倒した者が事実上の国王になるだろう――という噂は、リカー国中に飛び交っていた。彼の唯一の子であるマーガレットの身の安全は、なんとしてでも守られなくてはならなかった。
「なにか心配ごとはありますか? シスター・マーガレット」
「……はい、マザー」
マザー・グレイスとふたりきりでゆっくりと話をするのは、あまりないことである。
マーガレットは、思い切って口をひらいた。
「正直に言うと、不安です。修道院の中にいたとしても。自分の……心が、不安なのです」
王の不在が。
神を信じられないことが。
ふたしかなもののために、運命ががらりと変わってしまうことが。
マザー・グレイスは目を細めた。
「ヴィア家のご息女であるあなたのことを、特別扱いはしませんでした。シスター・マーガレット、あなたは問題行動が多かった。ですがそれは一時の享楽のためではけしてなかったと、私は思っています」
「マザー・グレイス……」
低く、しわがれた声でマザーは続けた。
「あなたの迷いを、いつも感じていました。慈善活動は一生懸命こなすのに、お祈りや説教のときは己の思考に沈んでしまう。考え込んでしまうのですね、あなたは」
よく見ている。マーガレットは口をひらこうとしたが、やめておいた。
「誰かのために手を動かしていれば迷いからは一時的に解放されるかもしれない。自分の思考から逃げようとするあなたは、誰よりも一生懸命にヒツジの世話をし、薬草園で薬を作り、炊き出しの料理を作りました。そうじゃないかしら?」
片めがねの奥からのぞきこまれて、マーガレットはしおしおとうなずいた。
「その通りです、マザー。申し訳ありません……」
「謝ることではないのよ。迷いが生まれているということは、あなたが自分の課題を見つけた証拠です。それ自体は、むしろ喜ばしいことなのよ。でもこの戦争のゆくえ次第では、あなたは自分自身から逃げることは許されなくなる」
マーガレットは首にさげたロザリオに一度視線をやった。
「この修道院に身を置いて、長いときが過ぎました。それでも心は迷ってばかり、答えが見つからないのです」
祈っても祈っても、結局終わることのない継承戦争。兵士によって焼かれた土地に作物が実ることはなく、リカー国中が飢えに苦しんでいる。
(次の戦争で内乱は終わるかもしれない。でも、必ずそうなるという保証はないわ)
たとえ父が王位を勝ち取っても、すぐさまリカーが平和になることはないだろう。国が安定するまでに、長い年月がかかる。
いつまでこんな時代が続くのだろう。
奉仕活動で旅に出た修道女たちは、国の荒れように心を病んで帰ってくる。その日の食べ物も手に入らず、貧しい人たちのためにと持っていったパンやチーズ、エールはまたたくまになくなってしまう。
チーズは女子修道院で飼っている羊の乳から少しずつ作るもので、大量に生産することはできない。女子修道院の力では、すべての人々に救いの手を差し伸べることは叶わないのだ。
修道女が手を振り払ってしまえば、人々は神に見捨てられたとなげく。空っぽの食糧袋を申し訳なさそうにロバにたれさげ、せめてこれだけでもと、ただひたすら祈りを捧げる彼女たちは、敬虔な修道女から無力な女性にたちもどってしまう。
希望のない世の中であった。そう考えるたびに、胸がきしんだ。
神はいないのではないか。
神がもしいないのなら、「神に選ばれた国王」なんて……ヴィア家もグレイ家も、その存在に意味なんてなくて……。
偽王。たとえ偽物でも、この国を救えるなら誰だって構わないではないか。だって神なんて――。
マザーは、マーガレットの悩みを見透かしているかのようだった。
「私はいつでもあなたのために祈ります、シスター・マーガレット。あなたがいずれ、シスターでなくなったときにも。お祈りがうまくいかなくても、悩むことはありません。この地に生きるすべての者のために、私たちは祈っているのです」
マザー・グレイスはまなじりを下げた。
「行ってよろしいですよ。あなたの友人が心配しています」
「……ありがとうございます、マザー・グレイス」
書斎室を辞すると、すかさずアリスが駆け寄ってきた。心配でいても立ってもいられなかったのだろう。
「アリス。あなたの足踏みがマザーのお部屋までつつぬけだったわよ」
「ごめんなさい。私って落ち着かなくなるとついつい体が動いちゃうのよ。戦争のことは心配だけれど、これであなたのお父さまがもし、戦に勝ったらと思うと……いよいよ内乱が終わるじゃない」
そしてマーガレットは還俗することになるだろう。
もともと女子修道院はただの避難所であった。
いくらヴィア家を目の敵にしているグレイ家の者たちでも、修道院まで押しかけてくることはできない。修道士や修道女を殺めるのは大罪であり、教会は暴力とは無縁の避難所となっていた。
還俗した後は、まったく違った人生が待っている。暗闇の中を進むようで、めまいがしそうになる。
「マーガレット?」
心配そうに顔をのぞき込むアリス。大丈夫?という彼女の言葉に、はっと我に返る。
「顔色が悪いわよ」
「なんでもないのよ。今日は野いちごを食べていないせいかしらね」
わざと茶化して言うと、アリスは「マザーに聞こえちゃう」と含み笑いをした。
「でも、しばらくあなたを市場に誘うなんて無理そうね。木彫りの人形に、あなたそっくりの絵つけをしたものを見つけたのに。まぁ、人形を見逃すことよりも、マーガレットが誘拐されるほうが大変だものね。いいわ、こっそり買ってきてあげる」
「がらくたばっかり増やして……持ち物検査の日はどうするつもりなの」
「また例の場所に放り込んでおくわよ」
例の場所、とは食堂のすみに置いてある小さな食器棚の裏側である。用途は不明なのだが真四角にくぼみが開いている。棚と壁の隙間に手を差し込めば、くぼみの中に物をしまっておくことが可能なのだ。
まじめなシスターたちはきれい好きであるものの、棚をどかして掃除をするのは年に数える程度だ。頻繁にやってくる持ち物検査の日になると、アリスは嗜好品をすべてこの食器棚の裏のくぼみに放り込んでしまうのであった。
――というより、自分そっくりの人形を、埃っぽい場所に転がしておくのはやめてもらいたいのだが。
「シスター・マーガレット」
ふたりはぴたりと口とつぐんだ。大先輩の修道女、シスター・アンだった。年老いたマザー・グレイスの補佐をつとめ、そしてマーガレットとアリスの言動のひとつひとつに気を配り、脱走の日をぴたりと当ててみせるのが特技である。
実にいやな特技であるので、シスター・アンの姿が見えるだけで、やたらと背筋が伸びる。
(このぶんだと、人形のくだりは聞かれていたのかしら)
マーガレットは「はい」と何食わぬ顔で返事をする。アリスは体を縮こめてマーガレットの後ろに隠れてしまった。
「お客さまです」
「……私に?」
マーガレットがここに隠れていることは、父やごく親しい側近の者たち以外に誰も知らない。外からの客人がやってくるなんて――。
アリスがわくわくした様子で続ける。
「白馬の王子様かしら」
「偽物の?」
いくらなんでも早すぎる。それに修道院に直接たずねてくるなんて――。
「軽口もいい加減になさい」
言いつつ、シスター・アンはそわそわと落ち着かない。
「若い、男性のお客さまですよ。あなたには心当たりはないのですか、シスター・マーガレット」
その言葉には、まさか外で悪さをしたのではないでしょうね、という含みがあった。たしかにアリスと修道院を抜け出すことはあったが、もっぱら手を染めていたのは買い食いと旅芸人による演劇鑑賞であり、異性と交友したことはただの一度もない。
「いいえ、おそらく私の存じ上げない方だと」」
「とにかく、男性のお客さまを女子修道院の内部に入れるわけにはまいりません。薬草園に行きなさい。もちろん、ふたりきりなどにはさせません。私もついてまいりますよ」
「シスター・アン、私も行きたいです」
好奇心が勝ったのか、アリスは苦手なシスター・アンにもめげずに口を挟んだ。親友をたずねて外からやってきた男、これは何を置いても見ておかなくてはなるまい、という強い意志を感じる。
シスター・アンはアリスをひとにらみした。
「よろしいでしょう。道すがらお人形の話も聞いておかなくてはね」
アリスはあからさまにげんなりした顔をしている。
男性の客人。父親ならシスター・アンはそう言うはずだ。それに若い男……父の側近たちは中年の男性ばかりだし、マーガレットに兄弟はいない。
どう考えをめぐらせても、心当たりはない。
マーガレットは薬草園へと歩を進めた。アリスの父より寄進された薬草園はハーブの爽やかな香りが満ちている。
育ちきった薬花を刈りとり、石けんや塗り薬を精製したり、花を目当てに集まってきた蜂から蜂蜜をとるのもシスターたちの勤めである。
薬草園の片隅に、男がひとり立っていた。すらりと背が高く、銀色の髪に紫色の瞳をしている。顔立ちは整いすぎていて、どこか現実味がない。妖しく咲いたジギタリスの花からにおいたつ、まやかしのような男であった。
(知らない男だわ……でもこの人は王冠を狙う者ではない)
いつのまにか、瞳の色を見てほっとする癖がついている。
シスター・アンが落ち着かなくなるのもうなずける。年の頃は二十代半ばといったところか。顔だけは女のように整っていたが、体つきはたくましく、武装した姿は不思議とさまになっている。彼の居所が戦場であることがいやでも理解できた。
「私にご用であるとか……」
マーガレットは覚悟を決めて、口をひらいた。男は恭しく礼をした。
「お初にお目にかかります、マーガレット殿下」
「殿下? 私はただのシスター・マーガレットです」
「じきにそうではなくなるでしょう」
断定的な物言いであった。マーガレットは挑戦的に続けた。
「あなたはどなた?」
男は愉快そうに笑った。その整った顔立ちからは意外なほどにくしゃりと、くずした笑みだ。
「失礼。エドマンド・ラドクリフと申します。今はお父君のもとで働いている――。偽王のことはお耳に入りましたか?」
「たった今、修道院長からお聞きしたところです」
「偽王の狙いが万が一、マーガレット殿下にあってはただならぬことであると、お父君はたいそう心配しておいでです。僭越ながら私が殿下の護衛を務めることと相成りました」
「護衛なんて……修道院の中にいれば安全だと……」
「国王の名を騙るなど、神をも恐れぬ所業をやってのける人間には、畏れも知性もありません。修道院でもそこらの路地裏でも、成すことは変わらない。女所帯は好都合。あなたを殺めることなどたやすいこと」
エドマンドはそう言って、マーガレットに一歩近づいた。指先で彼女の鎖骨の間をトン、と押す。軽く小突かれただけなのに、嘘のようによろけた。
彼の指先から、毒が入り込んだかのような錯覚にとらわれる。
おそるおそるエドマンドを見上げると、彼はまたあのくずした笑みを浮かべている。そのだらしなさが、にくたらしいくらい魅力に見える。
美しい男はなにをやっても様になるらしい。
本当に、この男は味方なのか? まさか偽王やグレイ家の手先であるなんてこと……。
しかし、男の胸にはジギタリスの花の勲章が輝いている。父は信頼がおける部下にしかこの花を渡さない。
「――失礼。怖がらせてしまいましたか?}
「おあいにくさま、マザー・グレイスの雷の方がよほど怖いわよ」
虚勢を張ったが、はねた心臓を心の内で必死になだめていた。
「ジギタリスですか」
急に話題をふられ、マーガレットは「え」と呆けた声をあげてしまった。
彼のそばで咲くジギタリスについて話しているのだとわかった。ヴィア家の家紋にもなっているこの花を、アリスが苗を取り寄せて植えたのである。マザー・グレイス無断で行いしかられたのだが、便利な効能があるのもたしかなので、そのままになっている。
「ああ……切り傷や打ち身に使う薬ですよ」
「別名、「魔女の指ぬき」。修道院で育てるにはふさわしくない」
「怪我をしている人には必要なものです」
ジギタリスはベル型の花をみっしりと咲かせ、その重さで下を向いている。その花の形が指ぬきを連想させること、また毒を持っていることもあり、魔女の指ぬきと呼ばれている。中毒はおそろしいが、正しく使えば薬になる。
エドマンドは、マーガレットを射貫くようにして見つめた。
「人を救うためならば、聖女はときとして魔女に姿を変えなければならなくなる」
なにかの謎かけだろうか。
マーガレットは否定した。
「逆です。たとえ魔女であっても、神の教えのもとで聖女に変わることもできる」
「ほう。面白い」
なにがおかしいのかはわからないが、エドマンドはくつくつと笑ってジギタリスに触れた。
「さすがに女子修道院に泊まり込みはできませんからね。町の入り口に見張りをおき、近くの民家を借りて兵たちを待機させます。私はマーガレット殿下のご様子をこまめに確認しにまいりますので、そのおつもりで」
エドマンドは立ち上がってそう言い残すと、さっそうと薬草園を去った。聞き耳をたてていたアリスとシスター・アンに「失礼」と声をかけ、彼女たちを骨抜きにすることも怠らなかった。
「な、なに、めちゃくちゃいい男じゃないの、マーガレット。私、十年分の生命力を補充したわよ」
マーガレットは険しい顔をしていた。
「あの男を戦線から外したのね」
少しでも人員が必要なはずだ。いくらマーガレットに護衛が必要であるとはいえ、彼でなくても良かったはずだ。
ラドクリフ家……。
ヴィア家に昔から仕える家だったはずだが、あの男は見たことがない。
修道院に来る前に、会っていてもおかしくなかったはずだが。
「あなたの護衛ってやつ?」
先ほどのジギタリスの質問は、王位継承者となる自分にたいする問いかけか。
偽王との戦いがあけたら、私に魔女になれというのか。
「ああ、あなたのお父さまがうらやましい。私も自分が王さまだったら、あんなイイ男侍らせちゃうなー」
アリスののんきな声を聞いていたら、興奮した頭が冷えてきた。
「まあ、シスター・アリス。ふしだらな発言はお控えなさい」
エドマンドの毒気がようやく抜けて我に返ったシスター・アンは、少し遅れてアリスを叱咤した。
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