第1話 修道院のはねっかえりたち
聖堂の裏手にまわり、細くうねる小道を抜けると、野いちごがたっぷり茂る秘密の場所へとたどりつく。
マーガレットは週に何度か、こっそりミサを抜け出した。しゃがみこんで茂みに隠れると、なんとはなしに実をつまむ。
ぷっくりと赤くいろづいたそれをもぎとって、口に放り込む。甘酸っぱさに加えて味わえるのは、なんともいえぬ甘美な背徳感。今頃他のシスターたちは敬虔に祈りを捧げている。己のことよりも隣人のことを、ちっぽけな私欲よりも世界の平和のために。個を捨てた亡霊のように。
私もそんな風に……全身全霊をかけて、神を信じることができたらいいのに。
そんな気持ちが胸によぎると、修道服が重みを増して、体にまとわりつくような錯覚をおぼえる。まさか脱ぎ捨てるわけにもいかず、かといってそのような葛藤を抱えたままミサにも出られず、一時避難所である野いちごの茂みに身を隠すのだ。
まぁ……つまみ食いは、する必要はないのだけれど。
ぷつり、と新たな野いちごの実をもぎとると、低く呼びかけられた。
「シスター・マーガレット」
マーガレットはびくりと肩をふるわせた。そして声の主をたしかめると、ため息をつく。
「脅かさないでよ。マザー・グレイスかと思ったじゃない」
「マザー・グレイスには先週の水曜日、とっくにこの場所が見つかっているでしょう。懲りないんだから。また仲良く反省室に入る?」
「アリス。あなたも抜けだしたの? 困るわよ、小さい修道院でふたりも抜けたら目立つじゃないの」
揃いの修道服に身を包んだふたり。アリスは鳶色の瞳を細めてはにかむ。くちびるをいたずらっぽくゆがめて、マーガレットの悪事を面白がっている。とくべつに美人というわけではないが、ぱっちりと大きな瞳は子鹿のようにうるんでいて、憎めないかわいらしさを持つ少女だ。
「だっておなかがすいたんだもの。お祈りにしたって、朝早くたたき起こされて朝食の前にするなんて、どうかしてるわよ。空腹で集中できないもの」
悪びれずにそう言って、彼女もぷちん、と実をつまんだ。
シスター・アリスはマーガレットの悪友だ。共に自ら望んで修道院に入ったわけではない。マーガレットは混乱を極めるお家騒動から逃れるため、アリスはまだ十歳のときに三十も年上の男と結婚させられそうになったため、身ひとつでこの修道院に逃げこんできたのだ。
修道院になんとなくなじめないマーガレット。修道女らしかぬ不良娘のアリス。ふたりはたちまち意気投合したのだった。
それからあっという間の五年。アリスには期限が近づいている。
「十六歳になったら修道院を出るようにってお父さまにも言われてるしなー。あなたとここで悪さするのも、あと少しなんだなって思うと、さみしくてね。だから、私も抜け出しちゃった」
修道院に入ったからといって、たちきえになることはなかったアリスの結婚。マーガレットはため息をつく。
「あなたと結婚したら、旦那さんは苦労すると思うんだけどねぇ」
「どういう意味よ。私もこの五年ですっかり成長したんだから。十歳のちんちくりんのときよりはマシになったはずよ」
アリスよりもおりこうな十歳児は存在する、と言いかけたが胸にしまった。
昨年の誕生日には実家から大量の焼き菓子を届けさせてシスターたちに大盤振る舞い。修道院を抜け出してあちこち散歩に向かい、迷い犬を拾って帰る。薬草園の花を勝手にむしりとってリースを作り、自室に飾るなどなど、アリスの悪事は枚挙に暇がない。
そのたびに反省室へ連行されているのである。そしてその行動のすべてに、マーガレットは強引に付き合わされた。犬なんて、絶対町外れの農家のおじさんの飼い犬だったのに。
「あなたがどこかの奥さんになるなんて想像できない。親戚と喧嘩したり晩餐会で大食いしたり舞踏会でパートナー全員の足を踏んづけたりしそうじゃない」
「ふん、いまに見てなさいよ。芸術的なダンス見せてやるんだから。もちろん、ダンスレッスンは年老いた夫にお付き合いいただくわよ。当時十歳の私との結婚を所望する、血も涙もない旦那の足なら、いくら踏んだってかまわないでしょ」
アリスは頬をふくらませてみせる。
「あなたこそ、追い風がふけば王女さまじゃないの。こんなところでつまみ食いなんてして、『はるか遠くの御父様」が卒倒するわよ」
マーガレットは苦笑する。
彼女はリカー王国の公爵家、ヴィア家に生を受けた。
マーガレットの母は彼女を生んですぐに亡くなった。産褥熱であった。
それ以来、父シーガンは家には寄りつかなくなった。「奥さまの思い出がたくさん詰まったお屋敷で、過ごされるのがお辛いのでしょう」とわけ知り顔で話す使用人の言葉を、マーガレットはとりあえずそのまま信じておくことにした。
シーガンは乳母や使用人、家庭教師にマーガレットの世話を任せっぱなしで、ろくに顔を見せたことはない。必要なものは買い与えられるし、衣食住に不自由することもない。でも……どこか、ぽっかりと穴があいたようなむなしさ。
父は、一人娘よりも王冠に夢中だった。
「戦争が好きなのよ、お父さまは。戦争に女はお荷物だもの。厄介払いして、娘がいたことなんてすっかり忘れているんじゃない」
今は内乱のまっただ中。世俗から切り離された女子修道院は嘘のようにのどかだが、リカー王国のあちこちで血で血を洗うような争いが繰り広げられている。
マーガレットが、田舎町の修道院に身を隠さなければならないほどに。
(親戚同士で争っているなんて……不毛な戦いだわ)
リカー王国の健国者、偉大なるケネス国王が残した三人の息子たち。長男の家系が絶え、臣籍降下した次男のヴィア家、三男のグレイ家がそれぞれ派閥を組んで王冠を争うようになったのは、マーガレットが生まれるずっと前のこと。同時にふたりの国王が戴冠し、戦い、互いの王冠を奪い合って……似たような事を繰り返し、それからもう二十年も無政府状態が続いている。
本来ならば次男の家系であるヴィア家が当然のごとく玉座に座るところであろうが、ヴィア家は元をたどれば国王の愛人が生んだ子の家系であり、歴史上王位継承権を持っていなかった時期が存在したのだった。
リカー王国では、正妻が生んだ子どもだけが継承権を手にできた。後の政治的思惑で先代国王がヴィア家に王位の継承を認めたことから、現在の泥沼継承戦争につながってゆく。
ケネス国王の血を引く子どもたち。偉大な建国の王ケネス・ウッドの血を薄めぬよう、ヴィア家とグレイ家は定期的に国王の生家ウッド家の血を混ぜた。だが、ヴィア家とグレイ家の血を混ぜることはけしてなかった。長らくいがみあってきた両家は、どの時代でも折り合いをつけることができなかったのである。互いを斬りつけ合う男たち。敵も味方も似たような面差し。鏡と戦っているかのよう。血しぶきをあげているのは、己か、それとも……。
内乱は長引き、リカー王国全体を悪夢に引きずり込んでいた。
マーガレットも、その血を受け継いでいる。金色の髪だけは母に似たが、青い瞳と高い頬骨、抜けるような白い肌は肖像画で見たケネス国王とそっくり同じだった。
王は神の代理人。リカーという国をおさめるため、神が選んだ代表者。
ならば……なぜ長らく王が不在なの?
王がいないなら、神は本当に存在しているの?
ある程度成長すれば、自分の立場もわかってくる。父シーガンがなんのために戦っているのかを。そして父が勝利したとき、次に王冠を継ぐのは自分になるということも。父が負ければマーガレットはこのまま修道院で生涯を過ごすことになるだろう。神の存在を疑問視したまま。それはぞっとするほどおそろしい。心のよすがが、なにもないのだ。
前に進むことも、後退することも、マーガレットにとっては恐怖であった。
アリスはちらりとマーガレットに視線をよこす。
「私が結婚する……っていう、子爵さまのことだけれど。あの人、もしかしたら……もしかしたらだけど、グレイ家につくかも、って……」
アリスは、思い切ったように言ってから、マーガレットの顔色をうかがった。
野いちごは口実。わざわざミサを抜けてきたのはこのためか。
マーガレットはなだめるようにして言った。
「あなたが気にする必要はないわよ」
「でも、私は……マーガレット、ヴィア家のあなたが友達だから……ここは税収もイマイチでとくにうまみもない土地だったし、父は戦も強くなくて、野心もなかった。だから内乱にあんまりかかわらなくてすんでて……私、ほっとしてたのに」
アリスの父親はこの修道院の建つ町、ファウルの領主である。とはいっても大金持ちというわけではない。税収はかつかつ、住民たちの知恵と工夫でどうにか持っている状態であった。頼みの綱はアリスの結婚。相手の子爵は貿易事業でひと財産を経て、貧しいリカー王国にはめずらしい財産持ちであった。かわいい一人娘を手放しても、ファウルを再建したいという気持ちがあったのだろう。
「元々親戚同士で争っているのよ。朝は仲良くしていた仲間が、夜にはグレイ家に寝返っていたなんてよくある話。兄弟で別の派閥に属している者もいる。めちゃくちゃなのよ、この戦い自体が。たとえ敵同士になっても、心は友達でいましょうよ」
マーガレットの言葉に、アリスは瞳に涙をこんもりとためこんでいる。
「内乱さえ終わってくれればいいのに」
アリスがぽつりと漏らす。
この戦いが終わるようなことがあるとすれば。
どちらかの一族が根絶やしになってしまうか、もしくはヴィア家とグレイ家がひとつにまとまること――そのような声は、そこかしこから聞こえてくるようになった。
マーガレットの父でヴィア家の当主であるシーガン・ヴィアと、グレイ家の当主オリヴァー・グレイにはそれぞれマーガレット、ライオネルという年頃の娘、息子がいる。
ふたりが結婚し、縁がつながれば万事解決ではないかと。
だが、そうなったとしても王冠はひとつしかない。結局この案はたちきえとなってしまい、今にいたるのだ。
「私も毎日、熱心にお祈りしているのにね……神はなかなか願いを聞き届けてくださらない」
「どんなお祈り? 打倒グレイ家とか?」
「いいえ」
遠い修道院にいるとはいえ、親戚たちの訃報は次々と届く。どんな気持ちで戦場で果てたのだろうか。彼らの祈りは届かなかったのだろうか。そもそも……。
――神様、本当にいらっしゃるならそのお姿を私にお見せください。
私に信じさせて。王の存在を、あなたの存在を。
二十年も国中の人を苦しめて、希薄な存在になってしまわないで。
私に生きる理由を、お与えください。
ロザリオをにぎりしめる。
マーガレットはくちびるをかんで、立ち上がった。
「ほら、そろそろ行くわよ。本当にマザーに見つかっちゃ……」
「シスター・マーガレット。シスター・アリス」
地を這うような低い声で名を呼ばれ、ふたりはため息をついた。
どうやら、遅かったようである。
「ミサはとっくに終わっています。いったい抜け出すのは何度目ですか。本当に懲りない人たちですこと。反省室がそんなお好きだというのなら、あなたがたのベッドを運ばせますよ。もっとも、物置小屋より狭い反省室には入りきらないでしょうけどね」
「「……申し訳ありませんでした、マザー・グレイス」」
修道服の裾をはたいて立ち上がると、ふたりはしおらしく頭を下げてみせる。
「まったく、いっつも口だけでしょう。他のシスターの働きぶりをごらんなさい。あなたがたがいると、修道院の規律がゆるみます。だいたいあなたがたは……」
反省室への道のりをたどりながら内心嘆息する。かたわらのアリスに目をやると、彼女は脳天気に片目をつむってみせたのだった。
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