13.本気の勝負

終業式が終わり、全校生徒の帰宅時間からしばらく経った校庭には誰も居ない。


「今日野球部は?」


グラウンドの脇に立って、隣に並ぶ一郎へ聞く。


「今日は休み。その代わり明日からはずっと部活だけどな」


「そりゃ凄いな」


夏休みずっと部活に費やすという、その熱量が少し眩しい。


「それで、用事は?」


俺にこの場所に呼び出された一郎が、確認をするように聞いてくる。


バット持参って言っておいたから、だいたい見当はついているだろうけど。


「俺と一打席勝負してくれ」


「本気か?」


一郎が疑問に思うのも当然のこと。


普通の一打席勝負なら投げる方が有利だとしても、現役高校球児と普通の帰宅部じゃ勝負になるわけがない。


「冗談でわざわざこんな所に呼び出したりしねえよ」


だけど俺はここに立っている。


「ということは、それなりに準備はしてきたんだな」


「ああ」


覚悟を決めたのは直前だったけれど、その前から少しずつ準備はしていた。


「一打席でヒットを打てればお前の勝ち、打たれなければ俺の勝ち」


至極簡単なルール。


俺が自分を信じるための勝負に嘘をつく意味がないから、審判も必要ない。


「俺が勝ったら……、空に告白する」


あえて宣言したのは覚悟を決めるのと、逃げ道を塞ぐため。


「俺が勝ったら?」


「一郎、野球部に誘ってくれてたよな」


最後まで続けなくても俺の言いたいことは伝わって、一郎の表情が一段階引き締まる。


「……本気なんだな」


その確認に俺が頷くと、一郎が唇の端をつり上げて笑った。


「そういうことなら、手加減はできねえぞ」


「元からそれが望みだ」


それはまるで二年より前のあの頃のように、競争心を剥き出しにした笑い顔をお互いに向ける。


チームメイトであり、相棒であり、ライバルでもあった懐かしい感覚だ。




二年前の告白と、試合の負けで失った自信を取り戻さないと、空とも他の誰とも本気で向き合えない。


だから、考えて一番に思い浮かんだのがこの一郎との勝負。


正直勝てる自信なんてまったく無いけれど、だからこそ、挑戦する意味があるんだと思う。


これは俺の心の問題で。


勝ってもただの自己満足。


だけれど、だからこそ、俺にとっては大切な勝負。


視界の端に映る校舎の窓。


俺の教室で一ヶ所だけ、いつか校庭を見つめた時に覗いた窓が開いている。




ストレッチを終えて、マウンドに上がった俺がバッターボックスに入る一郎を見据える。


「それじゃあ始めるぞ」


「いつでもいいぞ」


他の場所より少しだけ高くなっているこの場所に、懐かしさを覚え、胸に生まれたわずかな昂りを抑えて顔を引き締める。


ボールを握る。


プレートに足を乗せ、振りかぶり、身体を捻って大きく一歩踏み込む。


この一ヶ月で練習していた通りの動きで腕を振り抜き、勢いよく放たれた白球はホームベースの上を通過した。


ストライク。


ちゃんと投げられるか不安だったけれど、大丈夫みたいだ。


「ちゃんと練習してきたんだな」


構えを解いて軽くバットを揺らしながら、一郎が感心したように言う。


「本気だって言っただろ」


バットを振らずにストライクを見送った一郎は手が出なかったのではなく、俺の投げる球を見るためにわざと振らなかったのはわかっている。


だから二球目からが本番。


再びバッターボックスに入った一郎を見据え、振りかぶって、投げる。


内角高め、ボール。


三球目、外角低め、ボール。


その二球とも、一郎はまるで打つ気が全く無いように落ち着いて構えている。


配球はお見通しか。


あの頃ずっとバッテリーを組んでたときも、配球を考えてたのはお前だったもんな……。


今度は三球目より内側に投げて、外角低めのストライクを取りたかったんだけど、今の様子だときっと読まれている。


そして、一郎はどこに投げられるかわかっている球を空振りしてくれるほど甘くはない。


本当は2ストライクまでとっておきたかったんだけどな……。


覚悟を決めて、プレートから左足を引く。


振りかぶり、全力で腕を振るう。


投げる球はスライダー。


手から離れた球は、内角を抉るようにストライクゾーンに滑り込んでいく。


練習の通り、理想の軌道で曲がる球に、しかし一郎はしっかりと視線を固定してバットを振った。


甲高く響く金属音。


遥か後方まで飛ばされたボールは、ファウルラインを越えてグラウンドの脇の茂みに落ちた。


マジかよ……。


「あの頃より曲がるようになったな、スライダー」


一郎の台詞は、あの頃と同じ球ならホームランにできていたと言っているようで、実際にその通りなんだろうと実感する。


そして決め球を打たれた俺は、完全に手詰まりだった。


中学時代の持ち玉にはカーブもあったけれど、この勝負に向けてはほとんど練習はしていないし、配球を読まれている状態で一郎を打ち取れるようなものじゃない。


配球を読まれ、決め球を打たれ、万策が尽きてその場に立ち尽くす。


やっぱり俺の付け焼き刃じゃ通用しないのか……。


「お前は考えすぎなんだよ」


不意にいつか聞いた言葉と同じ声が聞こえて、打席を見るが、一郎は口を閉じたままバッターボックスで構えている。


空耳か。


でも、そうだよな。


きっと、一郎がキャッチャーとしてここにいて、立ち尽くす俺に声をかけたら、きっとそう言ってくれただろう。


あいつが俺の相棒だったように、俺も中学三年間あいつの相棒だったんだから。


あの三年間が確かに不本意な結果に終わったのは事実だけど、だからといって無意味でも無価値でもなかった。


ありがとな。


心の中で呟いて、投球フォームに入る。


ストライクゾーンの向こう、いつか居た相棒に向けて、俺は全力で白球を投げた。


俺の渾身の一球に一郎がバットを振る。


甲高い金属音。


真っ直ぐに打ち返された球は、高く、高く打ち上げられた。


その球を視線で追う。


打ち返された球はそれでもほとんど前には飛ばず、真っ直ぐに見上げた視界に収まる。


予測落下点はマウンドの近く。


少し風があるけど問題ない。


上昇をやめて落ちてくるボールに落下地点を修正。


一歩後ろに下がろうとして、踵が地面に引っ掛かかった。


嘘だろ……。


傾くマウンドに足をとられてバランスを崩した俺は倒れ込む体を支えられない。


さっきよりもずいぶん大きく見える白球はもう間もなく地面に落ちるだろう。


また俺は失敗するのか。


あのときと同じように、大事なところで、上手くいかない。


やっぱり俺はそういうやつなのかもしれない。


もしこの球を落としたら、一郎との約束の通り野球部に入って、もう一度全国大会を目指す。


結果として自分が何かを成せるか試すなら、その時でもいいんじゃないか。


だからこのボールと落としたとしても……。


そんな言い訳が頭に浮かんで、自分でも納得しかけたところで、声が響く。


「翔っ!!!」


それは遥か遠く、校舎から響いた叫び声。


あの時には聞こえなかった、幼馴染みの泣きそうな叫び。


この勝負に負けても良いなんて、俺は何を考えているんだ。


あの時覚えた後悔を。


空と話して笑い合うとき、二人きりで心地良い空気に包まれるとき、同時に感じる後悔と胸の痛みを終わらせるためにここに来たのに。


自分には何もできないと諦めて、空を傷付け続けた二年間を、終わらせるためにここに来たはずなのに。


そうやって諦めた胸の痛みを、空を傷付けた過去の記憶を、後悔を抱き続けた二年間を、そして背中を押してくれた人の想いを。


空と正面から向き合って、自分の想いを伝えるためにここにいるんだ。


最後まで諦めるなっ。


倒れ込む中で受け身も考えずに、俺は必死に白球へ、腕を伸ばした。




「ナイスキャッチ」


一郎に声をかけられてその姿を見上げる。


あらためて確認して、グローブにはたしかにボールが収まっていた。


「お前の勝ちだな」


差し出された手を取って立ち上がると、倒れた拍子に打った背中が若干痛い。


まあそれでも、今の喜びに比べたら些細な問題だ。


パンパンと尻の砂を落とすと、バットを肩に担いで一郎が聞く。


「佐久穂に告白したらどうするんだ?」


「わかんねえ」


今日のことに精一杯すぎて先のことなんて考えている余裕もなかった。


でも、


「また野球やるのもいいかもな」


「えっ、まじで?」


あの頃のように真剣に打ち込むのもいいかもしれない。


今ならそんな風に思える。


「まあどっちにしろ、あとのことだけど」


今は先に、やるべきことがある。


「翔っ!」


校舎の中、俺の教室に居たはずの空が、いつの間にかグラウンドの脇に立っている。


肩で息をする空を見ると履いているのが上履きのままで、きっとそんなのことを気にする暇もないくらい走ってきたんだろう。


その様子に、俺の胸の中の気持ちが溢れだした。


息を吸って、限界まで声を張ってその想いを伝える。


「空っ、好きだっ!」


自分の気持ちに胸を張って、何にも憚ることなく、空に言えた。


「あたしもっ!」


叫んだ空が表情を崩す。


そのまま駆け寄った空に飛ぶように抱き付かれて、勢いを受け止めきれずに後ろに倒れた。


体が重なりあって、いつかとは逆の体勢で、空が俺の目を真っ直ぐに見下ろす。


「翔……」


「空、勝ったぞ」


「うん……」


勝負のことは事前に伝えてあって、教室から空が見ていたのもそれが理由。


そして今の勝負と結果とそれが意味することも伝わっている。


「待たせてごめんな」


「あたしこそ、翔にずっと謝りたくて……」


それはきっと、二年前から続く空の後悔。


普段の様子からは想像できないくらいボロボロと流す空の涙が俺の頬に落ちる。


「ちゃんと声が聞こえたよ」


「うん……」


頷きながら俺の胸に頭を押し付けて泣く空の頭を撫でる。


空気を読んだのか、いつの間にか一郎の姿はなくなっていた。


見上げる青空は雲ひとつない快晴で、今の俺の気持ちみたいに清々しい。


随分遠回りしたけど、やっとここに戻ってこれた。


泣き止んだ空が顔を上げて、涙で赤くなった目元を見つめる。




「好きだ」




俺の二度目の告白に空の顔が再び崩れる。


「うん、うんっ。あたしも、ずっと好きだった……っ」


二年も待たせたその言葉に、密かに胸が痛む。


だけど俺は謝るかわりに、空の頬を撫でた。


それを察して、空が目を閉じる。


唇が触れる。


柔らかい感触は過去の記憶を伴って、痛みを洗い流してくれる。


これは二年前のやり直し。


今度はあのときと違って一方的ではなくて、お互いがお互いを求めて、重なった唇はずっと離れなかった。

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