20.幼馴染み、看病
学校から帰ってきて、今の時刻は午後六時。
「生きてるか?」
声をかけながら部屋に入ると、中にはうっすらとエアコンが効いていて涼しさを覚える。
カーテンを開けたままの窓の外はまだ明るくて、夕陽に赤く染まっている。
そしてベッドには顔を赤くしたパジャマ姿の空が寝ていた。
水の張った洗面器と荷物を置いて、ベッドの脇に屈んで空の姿を見ると、熱い息を吐きながら微かに布団を上下させる。
「来てくれたんだ」
「まあ一応な」
目を開けた空がこちらを見上げながら呟く。
空は今日風邪で学校を休んでいて、これはそのお見舞い。
「結構辛そうだな」
「んー……、体がダルくて頭がボーッとする……、かな」
と答える空の返事は緩慢で、やはり体調の悪さを感じさせる。
「頭痛とか吐き気は?」
「そっちは、大丈夫」
それならまだマシな方だろうか。
とはいえどれくらい辛いのかは本人じゃないとわからないけど。
「んっ」
体を起こそうとする動作を見て声をかける。
「寝たままでいいぞ」
言うと再び空が体の力を抜いて息を吐いた。
その様子を見てから指で空の前髪を分けて、おでこに絞った濡れタオルをのせる。
その感触に空の表情が少しだけ和らいだ。
「ひんやりして気持ちいい」
「そりゃよかった」
その
それを誤魔化すように、声をかけた。
「他になにかしてほしいことあるか?」
聞いた俺に、空が首を捻ってこちらを見る。
「今日の
なぜだか嬉しそうに微笑む空から、視線を逸らす。
「気のせいだろ」
再び誤魔化したこの感情は、気付かれたくないし自分で気付きたくもないんだけど、今日の空を見てると上手く距離感をコントロールできない。
それに今日はお見舞いに来たんだから、病人相手にそんなことを考えているのもアレなんだけど。
なんて考えを隠しながら、タオルと一緒に持ってきた物からひとつ手に取って見せる。
「ポカリ飲むか?」
「それより、プリン食べたい」
と希望されたプリンも、ポカリと一緒に買ってきたものだ。
「よく見えたな」
買ってきたコンビニの袋は半透明で中身を視認するのは難しい。
「見なくても、翔が買ってきてくれるものくらいわかるよ」
たしかにお見舞いの品はポカリとプリン、あとアイスは冷凍庫に入れて事前にリクエストを聞いていればそれも買う、くらいが俺の手癖だけど、でも最後に俺が空を見舞ったのなんて何時ぶりだったろう。
「起きられるか?」
リクエストのプリンは寝たままの状態だと食べるのは難しいのでそう聞くと、空が布団から腕だけ出してこちらへ伸ばす。
「起こして」
ベッドに腰かけて、言われた通りに手を引くと、空が「んっ」と力を入れて体を起こす。
そして背中を丸めたまま座る空の前髪が、はらりと一房顔の前に垂れた。
やっぱり辛そうだなと思いつつ、プリンの蓋を開けて渡そうとすると、空が目を閉じて、口を開く。
「食べさせて」
「まったく」
普段なら絶対にしないお互いの行動に、ほんの少しだけ、昔に戻ったような錯覚を覚える。
俺はそれを意図的に無視して、スプーンを差し出した。
「あーん」
なんて言いながらそれを咥えた空が、喉を鳴らしてから、美味しい、と微笑む。
「もう一口いるか?」
「うん」
頷いてまた口を開ける空にスプーンを何度か差し出すと、まるで餌付けでもしてる気分になってきた。
「おいしい」
「そりゃよかった」
「翔も食べる」
「俺は遠慮しとく」
「どうして?」
「風邪が移ったら困るだろ?」
「……、そうだね、ごめん」
「別に謝らなくてもいいけどな」
それに断ったのは別の理由もあるし。
「そうだ、おばさんが体温計っとけだって」
思い出して、下の階で空のお母さんに挨拶したときに渡された体温計を差し出す。
するとそれを受け取った空がパジャマの前のボタンを外して胸元から入れた。
あまりにも無防備なその姿に、思わず俺は視線を逸らす。
「どうしたの?」
不思議そうに聞いてくる空は、本気で頭が回ってないんだろう。
それになんだか、俺に対する反応も昔に戻ったような感じがあるし。
「なんでもない」
なんて返した俺に、不思議そうな顔をされてちょっと困る。
無言の時間が流れ、ピピッと体温計が鳴ったのを確認して受けとった。
表示は38.3度。
「病院連れてってもらうか?」
即病院って温度じゃないけど、辛ければ行って診てもらったほうがいい。
「ん……、まだ平気」
と言った空はやっぱりダルそうで、それでもそこまで辛そうではないのが救いだろうか。
「無理はするなよ」
「うん、ありがと」
「それじゃあまた寝るか?」
聞いた俺に、空が首を横に降る。
「それより背中拭いてくれる?」
「それくらい自分で出来るだろ」
というか、異性の背中を拭くなんて体験は遠慮したい。
「翔にしてほしいの」
「…………、わかったよ」
本当は断ろうかと思ったけど、空のねだるような表情に諦めて、タオルを絞る。
空が壁の方を向いて前のボタンを開ける仕草をして、そのまま背中に手を回してからパジャマの裾を持ち上げる。
見えなくても、そこに在ると意識してしまうだけで顔が熱くなる。
それを悟られないようになるべく自然に吹くのを続けると、その背中に指先が触れて、空が声を漏らす。
「んっ……」
「変な声出すなよ」
「だって、くすぐったいんだもん」
「自分で言ったんだから我慢しろ」
速くなる鼓動を抑えて、そのまま肩まで拭きおえて、やっと一息つく。
「前は自分でやれよ」
「うん」
肩越しに空へタオルを渡して、その姿に背中を向けた。
それから少しして、終わったよ、とかけられた声に振り向いてタオルを受けとると、空がそのままパジャマに手をかける。
「ベトベトする……」
「って俺の目の前で脱ぐなよ」
慌てて声をかけた俺に、空が顔だけ振り向いて不思議そうな顔をする。
「どうして?」
「そりゃ、……いろいろまずいだろ」
俺が視線を逸らすと、空は自分の格好をもう一度確認して呟いた。
「そっか……、意識してくれるんだ……」
「当たり前だろ」
「じゃあ、向こう向いててくれる?」
言われて空に背を向けると、ごそごそと服を着替える気配が続く。
「ねえ、翔」
「どうした?」
「着替え取ってもらえる?」
そういうのはせめて脱ぐ前に言ってほしかった。
とはいえ着替えが無いことに気付かなかった俺も俺だけど。
「どこのやつだ?」
「タンスの二段目に入ってるパジャマ」
腰をあげて指示された棚を開けると、パジャマの他にも普段から着ている私服が並んでいて、見てはいけない物を見た気分になる。
それでも、下着の棚じゃなかっただけセーフかな。
なんて思いながら再び空に声をかける。
「それで、どうすればいい?」
ここまで来たのはいいけれど、後ろを向いてそのままベッドまで戻るのは流石に難易度が高い。
「こっち見ても大丈夫だよ」
言われて恐る恐る振り向くと、空は腕を通さずにパジャマの上を羽織っていて、後ろ姿だとしてもそれは見て大丈夫なものなのか正直怪しかった。
大丈夫なのか問われているのは公序良俗ではなく、俺の理性かもしれないけど……。
「ここに置くぞ」
なるべくその姿を意識しないようにして、パジャマをベッドの上に置き、背中を向けて声をかける。
そしてありがと、と空がお礼を言って、俺の背後で人が着替える気配がしばらく続いた。
「終わったよ」
言われて振り向くと、空はちゃんと新しいパジャマに着替えてボタンを閉めてこちらを向いている。
そのまま脱いだパジャマを受け取ろうとすると、手を差し出した拍子に空がこちらによろけて、俺の肩におでこがコツンと触れた。
「大丈夫か?」
「うん」
言ったきり、動かない空を不思議に思って名前を呼ぶ。
「空?」
声をかけた俺に、空が小さく呟く。
「もう少しだけ、こうしてていい?」
「…………、少しだけな」
「ありがと」
触れる肩から伝わる熱と、息づかいに俺まで体が熱くなってくるような錯覚を覚える。
もしかしたらそれは、錯覚じゃなくて本当のことかもしれないけど。
だとしても俺にはなにも出来ることはない。
空は今、どんな表情をしているんだろう。
そんなことを少しだけ思った。
それからゆっくりと空が体を離して、そのまま横になる。
ベッドに腰かけた俺を見上げる顔は、さっきよりも柔らかい表情になっていた。
「今日の学校、どうだった?」
「特に変わったことはなかったぞ。一郎が授業中に居眠りして怒られてたくらいだ」
「そっか」
呟いた空が、なにかを考えるように間を開けてから、口を開く。
「あたしがいなくて、寂しかった?」
その質問に、俺も少しだけ考えて答える。
「まあ少しだけ、張り合いがなかったかな」
別に学校で一緒にいるわけでもないが、それでもふと空が居ないことを思うと不思議な気分になっていたのは事実。
そんな俺の答えに、空が満足そうな顔を浮かべる。
「体調辛くないか?」
「うん、翔のおかげで楽になった」
「俺は何もしてないけどな」
「そんなことないよ」
言った空がこちらに手を差し出す。
「手、握ってくれる?」
「はいよ」
手を握ると、空の熱いくらいの体温が直接伝わってくる。
そして俺は残った方の手で、空の髪を撫でた。
その髪は柔らかくて、昔のことを思い出す。
子供の頃にも、空が風邪を引いたときに、こうして頭を撫でた記憶があった。
「気持ちいい……」
息を吐いて呟いた空の言葉に、胸が震える。
眠そうな瞳をした空は、もしかしたら熱のせいで意識が朦朧としているのかもしれない。
そして安心しきったその声と表情に、俺はどうしていいのかわからない。
「翔の手、おっきいね」
あぁ……、まずいな。
と心の中で警鐘が鳴る。
このままだとまずい、と思った俺が髪を撫でていた手を引く前に、空が片手で俺の頬を撫で、優しく呟く。
「あたし、翔のこと好きよ」
その言葉は愛の告白ではなく、最上級の親愛の表現で。
久しぶりに俺の胸を大きく抉った。
幼馴染みで、一番親しい友人で、家族以上の付き合いで、そんな空が好きだと言ってくれる。
あのとき俺が告白しなければ、今でも空とは昔のように、もっと近い距離で一緒にいられたのに。
空が望む、幼馴染みで、友人で、家族以上の付き合いの、大切な相手でいられたのに。
今は一緒にいても、普段は一歩離れた距離でしか、お互いのことを感じることができない。
それは俺の後悔であり、空の後悔でもある。
だからこそ、関係を壊してしまった後悔に、胸が締め付けられる。
安心した寝顔を見せている空にそっと顔を近付ける。
奇しくもあの時と同じような距離で、空を見下ろす俺の顔は、きっと酷い表情をしていた。
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