11.お嬢様、放課後の教室でふたりきり

「翔さん」


優しい呼び掛けに、枕にしていた腕から顔をあげつつゆっくりとまぶたを開ける。


「おはようございます、翔さん」


「ほのか……?」


なぜか視線の先にいるほのかに疑問をもって、辺りに視線を向けるとそこは誰もいなくなった教室だった。


日が傾いて、いつかと同じく教室の中がオレンジ色に染まっている。


ホームルームの最中に自分の机で寝て、誰もいなくなるまでそのままだったのか……。


状況を把握して、まだ鈍い頭の動きが正常に戻ってくると、目の前の席に座るほのかと顔の距離がいつもよりずっと近いことに気づいて動きが止まる。


「ほのかはずっと待っててくれたの?」


「はい」


綺麗な笑顔で答えるほのかは、いつもよりも更にかわいく見えて、密かに胸が跳ねた。


「起こしてくれればよかったのに」


待たせておいて言う台詞じゃないかもしれないけれど、声をかけるなら誰もいなくなるような時間まで待つ必要はなかったんじゃないかと思う。


そもそもなにか約束しているわけでもないし、先に帰ってもよかったわけだし。


なんて俺の考えをよそに、ほのかが楽しそうに答える。


「翔さんの寝顔を見ていたら、退屈じゃありませんでしたよ」


それはそれでちょっと恥ずかしい。


そんな内心を悟られないようにゆっくり息を吐いて、んっと体をほぐす。


しかし、寝すぎたな。


最近疲れることやら考えることやらがあっていくら寝ても足りない気分ではあるのだけど、それにしてもこう何度も繰り返していると、ホームルーム中に寝てるのをいい加減気付いた担任にとがめられそうだ。


まあしばらくは今の状況から脱却も出来ないだろうけど。


俺が黙っていると、ほのかが優しい表情をする。


「なにか悩み事ですか?」


「よくわかったね」


「考え事をしている表情でしたから」


「マジか」


確かめるように自分の頬を触ってみてもよくわからない。


そんな俺の様子を見て、ほのかがクスクスと笑う。


ともすれば馬鹿にしているように見えそうな反応も、彼女がすると上品に映るから不思議だ。




優しい表情で、向かい合うほのかとお互いに黙ったまま、少しの時間が流れる。


誰も居ない教室にふたりきり。


窓の外に聞こえる部活の音もずっと遠く、自然と意識から外れていく。


ここには他に誰も居なくて、だけれど二人きりの世界でもない。


なぜほのかは俺を待っていたんだろうか。


その答えはわからないけれど、優しく、でも少しだけ寂しそうに微笑むほのかは俺を促しているように見えて、ゆっくりと口を開いた。


「大切な、人がいるんだ」


この話を誰かにするのは初めてで、ゆっくりと言葉を選んで語っていく。


「その相手はずっと昔から一緒にいて、家族のような存在で、だけどいつの間にか好きになっていて、告白して、振られて、俺はなにもやる気が起きなくて、それでもあいつはずっと一緒に居て、つらくて、苦しくて、だけど楽しくて、やっぱり一緒に居たくて……」


そこで切った言葉を、ほのかが繋ぐ。


「その人のことが、好きなんですね」


「うん」


彼女の言葉に頷いて、やっと俺は自分の気持ちを自覚できた。


一緒にいて胸が痛んでも、過去に負い目があっても、俺は空が好きなんだ。


そしてできるなら、空にはずっと笑っていてほしい。


だからどうすればいいのか、考えて、それでも最後の一歩を踏み出す勇気がない。


それは俺が、自分自身が何かを成せるなんて思えないから。


俺は、空の献身に応えることをせずに、二年も時間を無駄にしたんだから。




「そんなことないです」




「ほのか?」


彼女の否定の言葉に疑問の声を上げる俺を無視して言葉を続ける。


「翔さんのお陰で、私は一歩踏み出すことができました」


「翔さんは素敵な人です」


「だから貴方も、自信を持ってください」


優しく語るその言葉は、力強くて、勇気付けられる。


だからそれは、きっと彼女の本心なんだろう。


「ありがと、ほのか」


感謝の言葉と、心の中で謝罪を抱く。


「翔さんの、お力になれたなら嬉しいです」


嬉しそうに微笑む彼女の笑顔は、今まで見た中で一番綺麗だったかもしれない。


「それじゃあ帰ろうか」


「はいっ」


それ以上この話について語る言葉はなく、俺とほのかは並んで教室を出た。






あの時、初めてお話ししたあの場所で、私は何度も立ち往生して、中に入ることが出来ずに帰っていました。


貴方は偶然と言いましたけど、私はあの時一度の偶然ではなかったんです。


それくらいのこと、と他の方に話したら言われるかもしれません。


だけど私には、ひとりでの外食で初めてのお店に入ることは、とても難しいことでした。


ですから、翔さんに出会えたことは奇跡のような出来事で、声をかけていただいたことは本当に嬉しかったんです。




翔さんと一緒入ったラーメン屋さんはとても美味しくて、回転寿司を食べながら交わしたお話はとても楽しかったです。


LINEの連絡先を自分から聞くのは初めての経験で凄く緊張しました。


卓球が下手な私に呆れることもなく教えてくれたことがとても嬉しくて、下着が壊れてしまっても一緒に買いに行くと言ってくださった時はとても心強かったです。


あの時は恥ずかしくて顔から火が出そうでしたけど、今思い返してみれば、きっと貴方の方が私よりもずっと恥ずかしかったですよね。


電話越しに聞こえる声は、胸の奥が暖かくなって、ずっと聞いていたくて、叶うならずっとこのまま話していたいと思ってしまいました。




お互いの呼び方が変って、『ほのか』と響く貴方の声を聞いて、自分の気持ちに気付いたんです。


もっと早く、自分の気持ちに気付けていたら、そしてこの気持ちを伝えられていたなら。


そう考えても、私の想いは過去に戻ってくれない。


「翔さんの、お力になれたなら嬉しいです」


そう伝えた言葉は私の本当の気持ちで、だけれど同じくらい大切な伝えていない気持ちもあって。




ふたりで電話したあの日のように、ベッドの上に正座して、スマートフォンの画面を見る。


LINEにはあの人とのやり取りが残っていて、そのひとつひとつが大切な思い出だった。


それを更に遡って、送信した画像が目に留まる。


その画像の私はとても嬉しそうな表情で写っていて、今も髪に付けているシュシュに手を当てる。


それは翔さんからのプレゼント。


大切な、大切な、あの人への私の想い。


その想いを自覚して、スマートフォンの画面に水滴が落ちた。


それは私の目から溢れて、頬を伝い落ちた涙。


「うっ…………」


嗚咽が漏れる。


涙が溢れだす。


息が上手く吸えなくて呼吸が乱れる。


私はあの人が好き。


優しくて、親切で、新しい世界へと手を引いてくれたあの人が好き。


ずっと一緒にいて、私だけを見て、語りかけてほしい。


こんなに、こんなにも、あの人が好きなのに。


そう自覚しても、彼の好意の相手が私じゃない事実が胸を絞めつける。


彼を応援する言葉を今更に後悔して、だけどきっとまた同じ状況になっても、同じ言葉を伝えるであろう自分が嫌だった。


もしあの時、私がこの想いを伝えていたら、あの人は気持ちに応えてくれただろうか。


その答えは自分でもわかっている。


「うっ……、あぁ……」


だから私は、この部屋の中で、泣き続けることしかできなかった。

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