第5章 あなたの心のために_その2
〇
任務内容を確認。変更無し。
多少のイレギュラーは生じたものの、まだ想定の範囲内にある。
だが状況は限りなく最悪に近い。「最終手段」の使用も想定に入れ、確実に職務を遂行せよ。
──すべては、破門者の名において。
何度訴えかけても結果は同じだった。本部は、なんとしてでも最悪の事態を避けるべきだというスタンスだ。
さしもの総隊長も事態を重く見ており、表情は険しかった。間に合わなければ災害が全世界に波及するかもしれないのだ。だが、理屈ではわかっていても、「はいそうですか」と
思い悩みながら居住スペースの扉を開けると、アッシュがベッドから出ていた。
「え? ……アッシュ?」
「おはよう、姉さん」
いつも通りのアッシュだ。フィリスは
「もう大丈夫なのですか?」
「うん。何か、嫌な夢を見ていた気がするけどね。もう平気さ」
朝日が入らない地下室の、よそよそしいLED照明に照らされながら、アッシュは笑顔。
「あの。その件なのですが、総隊長と相談を──」
「あれは、天使なんだろう?」
アッシュは
ハイドの手で
武器が収まったアタッシュケースを持ち上げる。首輪がちゃんと
「じゃあ。
こちらを見返す顔に、フィリスはぞっとした。
一切の情動が
「──
「そうだよ。天使は殺さなきゃ。僕はその
アナテマの真の目的は、
任務内容は「天使」の捜索。および発見次第の確保、不可能な場合は──抹殺である。
これは特秘であり、上層部以外にはアッシュとフィリスの間でしか共有されていない。自らの活動圏で「第三の天使」の暴威を許したアナテマは、二度とそのようなことがないよう天使の情報に常にアンテナを張っていた。
天使は滅ぼせない存在ではない。その力を行使される前に先制すれば、可能性はある。
けれど。
「ま……待って、待ってください! もしかして、あれを使うんですか!?」
「使うさ。あれが一番可能性が高い」
「それだけは待って! 考え直してください……!」
「どうして?」
アッシュは心底不思議そうな顔をした。フィリスが──「姉」がどうしてそんなことを言うのか、本気でわかっていないようだ。
「姉さん、言ったよね。正しく在りなさいって。正しくない者を殺して、正しいあなたを生かす。僕はずっとずっとずっとそうしてきた。これはその
フィリスは唐突に、自分の言葉など何一つ届いていないのではないかと恐ろしくなった。
「だけど……!
「殺したんだ」
底冷えするような声。
「街を、僕を、姉さんを、殺した。天使とはそういう存在なんだ。僕は忘れてない。あなたは今でもあの夜にいる」
フィリスはアッシュの実姉がどうなったのかを、その言葉でようやく察した。
彼の行動原理の
「だけど! 最終救済兵装を使えば、あなたも死にます!!」
最終救済兵装。アナテマが保有する最大の火力。
それが命中すれば、ハイドごと天使を
「正しいことを行うんだよ。何も惜しくなんかない」
アッシュはしかし、それすらも当然のことと受け止めて、
「姉さん、僕はね、
彼が言う「あなた」はフィリスではなく、「あの時」もハイドとの戦いのことではない。
アッシュにとって現実とは悪夢の延長線上に過ぎず、姉の唱える正しさだけが真実だ。フィリスは、彼の過去のすべてを知らないまでも、その精神がかなり危うい状況にあることを察した。錯乱状態だった時より静かな、より純度の高い悪夢の中にあると。
だからこそ、このまま死地に向かわせるわけにはいかないと思った。
「……聞いてください、アッシュ」
アッシュは、わずかに小首をかしげる。
「私は、
アッシュは、表情を動かず、じぃっとフィリスを見ている。
「だから──だから、もう少し考えてみませんか!? もっと別の手が浮かぶはずです! 私たちだけで無理でも、
アッシュは、凍り付いたままで、ぽつりと、
「お前、姉さんじゃないな」
覚悟はしていた。
アッシュを制御するためではない、フィリス自身の意見に、弟は決定的な
「
機械的な歩みで
「もう一回話し合いましょう。私たちに何ができるのか、誰も犠牲にならない方法がきっと」
「そんなものは無い」
どすん、と、腹部に衝撃。
痛みを自覚する前に気が遠のいていた。アッシュはぐったりもたれかかるフィリスを引き剥がし、拳を解いた。アタッシュケースを拾う。もうこちらを見てもいない。
フィリスは途切れゆく意識の中で、それでもアッシュを止めようとして、届かなかった。
〇
アッシュは早朝の地上に出る。重い雲が夜明けを遮るせいで、外はまだ夜の色だ。
地下研究所は
最後の仕事をしなくては。
外に出るだけで時間を使ってしまった。アッシュの思考はほとんどまともに機能していないが、体に
「散歩にしちゃずいぶん歩くんだな」
後ろから声。聞き慣れたもの。死神ミソギ。
ミソギは遅れて研究所を
振り向いたアッシュは、迷子のような顔。相手がミソギとちゃんと認識しているようだが、今更どうでもよさそうに思える。
「姉さんを、探してるんだ」
「そっか。見つかりそうか?」
「うん。この仕事が終わったら、やっと姉さんに褒めてもらえる気がする」
それじゃあ、とアッシュは
「最終救済兵装……『
アッシュの足が止まる。
ガレージのソファで爆睡していたミソギは、いきなりフィリスに起こされた。何だこいつと思ったが、
──『
その実態は、軌道上から全長十二メートル・直径五十センチ・重量二〇〇キロ強の金属棒を投射する
単純素朴な質量は、大気圏外からの加速を得て小型核に匹敵する衝撃力を発揮する。熱波も汚染も起こさない代わりに、最低でも半径数キロ圏内は壊滅する計算だ。
「フィリスから全部聞いた。そいつは、お前を狙ってくるってこともな」
アッシュの首輪は、装着者の位置情報とバイタルサインを常に補佐官のデバイスに送信しているが、それはあくまで通常時の機能に過ぎず、本来のスペックの半分も発揮していない。
真の機能は、「最終救済兵装のターゲットマーカー」である。
首輪に仕込まれた超小型最新鋭の発信装置は、衛星軌道上のプラットフォームとリアルタイムでリンクしている。こちらから射出要請を出し、本部からの認可が下りれば、最終救済兵装は
どんな状況のどんな場所からも爆撃可能。装着者が死んでもマーカーは動き続ける。災害級の存在を殺すための切り札であり、確実に目標地点に到達できるエージェントの存在と、その犠牲をも想定したまさに「最後も最後の奥の手」だった。
「……すごいなぁ。よく知ってるんだね」
「だろ? こう見えて勉強熱心でな。現役時代は結構いい大学狙ってたんだぜ」
大学
「……なに? 僕、これから仕事が──」
「悪ぃが、そうさせるわけにはいかねぇもんでな」
──もっと早く言っていればよかった。
──あなたを、アッシュを、もっと心の底から信用していれば。
何度もそう繰り返して、フィリスは泣いていた。こうなるともう放っておけない。フィリスが泣くのも、アッシュが自爆するのも、
これもまた、悪い癖なのかもしれない。
「どうしても、駄目だって言うのかい」
「どうしても、だ。そっちこそ、どうしても行くってんなら、」
アッシュは手元のケースをどすんと落とした。彼はもう切り替わっている。既に蓋は開いており、その右手から銀の銃身が伸びていた。語るに及ばず、というわけだ。
「……そうなるよなぁ。ったく、つくづく──」
アッシュはシリンダーの銃弾を確かめる。安全装置を解除。撃鉄が起こる。
生ぬるく湿った風が吹き、雲の落とした最初の雨滴が、二人の間にぽつりと落ちた。
「邪魔をするな、
「──頭の固ぇ野郎だぜ!」
撃発!
デリンガーが
「
両脚部が爆炎を噴き出し、急加速。
落下速度と爆発的推進力に回転力をもオマケし、ミソギは火の車となって標的へ墜落した。
アッシュは真横に跳んで、アスファルトをぶち砕く爆速
しかしミソギもさるもので、再び
アッシュは右にデリンガーを構えたまま、銀の
雨粒が逆流する。躍動する空気に
ミソギは弾を数えていた。最初の一発、次なる二発、至近距離から危うい一発、二発。また撃発、防御に使った左腕の外側が
(いただき……ッ!)
ミソギに殺意は無い。あくまで気絶させて止めるだけだ。多少の
当然、アッシュは違う。殺す気であり、死ぬ気だった。そこに差が生まれた。
ミソギの手刀が空を裂くに合わせ、アッシュは唐突に全身の力を抜いた。
両手を開き、まるで断頭台の死刑囚のように、雨に
想像だにしなかった無防備さ。この程度なら避けるか防ぐと踏んでいたミソギは、だからこそ動きを鈍らせた。相手の強さを知ればこそ、何手も先までの攻防を前提としていた。
首を折る寸前、手刀が無理やりに止まる。アッシュは生じた隙を見逃さない。
「──僕なら
即座に、足元のものを蹴り上げた。これまでの猛攻で、アッシュは押されるふりをしてある地点へと戻ろうとしていた。攻撃を
「ぐ……ッ!」
蹴り上げられたアタッシュケースを腹にぶち込まれ、ミソギは大きく飛びすさった。
それが、決定的に流れを変えた。アッシュはケースからもう一つの銃器を取り出す。
受けられるか。いや考える暇は無い。ミソギは
「変異・遮断ッ!!」
両腕全体、動ける脚部もすべて動員し、
煙雨に
「天使は殺す。僕が必ず、この手で、殺す!」
「
アッシュは壊れた機械のようにポンプを引き、連射、連射連射連射。散弾が急造の大盾を
「ふざけるな! 天使を助ける意味なんか──、!」
ロガトカのチャンバーから弾が尽きる。ミソギは盾を解除し、ぼろくずのようになったドアを「ばがんっ!」と蹴り飛ばした。アッシュは
「ッ……!?」
捕まえた。ミソギはアッシュの背後に回り、ボロボロになった腕でチョークスリーパーをかけた。このまま眠ってもらう。ロガトカが取り落とされ、雨と泥水にまみれる。
「──意味なんざ知るか。こんなグチャグチャの時代で、んなもん誰にも決められねぇよ」
「だから、自分で決めたことだけはやり通す。何回死んでも、オレが助けると決めた以上、絶対に助けてやる……!」
ふっ──
アッシュの全身から力が抜ける。落ちたか。そっと首にかけた腕を外すと、
ごづんっ!!
金髪の後頭部が、いきなり
起き上がる反動をたっぷり乗せた、全力の頭突きを
「だったらどうしてあの時いなかったんだ!!」
振り返りざまにミソギの胸倉を
「助ける? 自分で決めたから? 何も知らない死人が偉そうな口を
「──こ、の」
「違うと言うなら、僕が殺した連中をその『気分』で選んで生き返らせてみろ!!」
「黙って聞いてりゃ、好き勝手ッ、言いやがってェ!!」
がづんっっ!!
胸倉を
「だいたいお前も
「関係無い! 天使は討伐対象だ! あいつを殺すのが正しい行いだ!!」
「なんでそう頭が硬ぇんだてめぇは!? これだから聖職者ってのは嫌なんだよ!!」
「黙れ
雨が
「死すべきものはみんな殺す!! それでやっと、姉さんに──」
姉さんに?
姉さんに、何だ? アッシュは
姉の言葉が脳裏によぎる。その笑顔が。傾いた十字をバックに笑う哀れな
あの時。
「あなたは、正しかったと。そう、言えるんだよ……!」
少年は悪夢の中で教えをなぞり続けた。正しくない者を殺し、
守るべきものなど、もう残っていないのに。
お互い雨でずぶ
わからないから、正義を行い続けるしか。
もう一発、全身全霊の頭突きをぶち込んだ。さすがにこれはミソギにも効いた。大きくよろけて後ろの廃車にもたれかかり、立っていられなくなる。アッシュは銀の
振り降ろされる寸前、小さな影が二人の間に飛び込んだ。
「……待って!!」
──姉さん?
いや──違う。
金の髪に、緑の
「はぁ、はぁ、は……や、やっと……追いついた……っ」
この子は、なんて名前だったっけ。どうしてこんなに必死なんだろう。
誰かに会いたかったのだろうか。そういえば自分も、いつかどこかで、こんなふうに必死に走った気がするな。きっとこの子が会いたい人も、この子にとって大切な人なんだろう。
「誰だか知らないけど、どいてくれるかな」
「嫌です」
「そいつを殺さなきゃ。──邪魔するあなたは、正しくない人?」
「かもしれません。だけど、それでいいと思っています……!」
フィリスは刃を前に一歩も引かず、むしろ進んで身を
「ッつ……おいバカやめろ、何考えて……!」
「何も考えてませんっ!!」
かなりすごい即答だった。立ち上がれぬままミソギは絶句した。
「難しいことなんて、何も! だって知らないんだもん!
話にならない。アッシュは得体の知れない
この女は命の使いどころを間違っている。正しき者は、
振り降ろそうとした手に、女の手が触れた。寒気がするほど暖かかった。
「──あなたも!」
短い叫びに、
雨音をかき消すほどに、声を枯らして少女は叫ぶ。
「あなたも、
──あなたはどうか、生きていて。
脳裏に
弟に向けられた
アッシュの体から力が抜けた。
二、三歩後ろにふらついて、膝をつく。しばしの沈黙が雨に塗り潰される。
「…………姉さん」
「おいアッシュ、そいつはな……」
「姉さん……どこ? どこにいるの?」
少年は誰とも会話していない。きょとんとして周囲を見渡し、はぐれた姉を探し続ける。
十五歳の顔をした少年を見つめ、フィリスは覚悟を決めた。
「私に任せてください」
「構わねぇが……どうすんだ?」
「少し話をするだけです。……その、助けてくれて、
ここから先は作戦要綱には存在しない。
フィリスは少年と目線の高さを合わせ、
「……あなた、誰? 姉さんに似てる……」
「お姉さんの……友達です。あなたに伝言があるって、アッシュ君」
「お姉さんは大事な用事があって、アッシュ君のもとを離れるそうです。長い間会えなくなるけど、あなたのことを見守ってるって。心配しないでって、言ってました」
「僕はどうすればいいんですか? 姉さんが行っちゃったら、誰の言うことを聞いたら……」
フィリスよりも一回り大きい、幾度もの修羅場を切り抜けてきた体が、今は驚くほど小さく感じられる。少し考えてフィリスは、ただ自分の思うままを言った。
「自分自身に、従ってください」
伝言であるということも、その時だけは忘れて。
「たとえ正しくなくても、あなたの意志で。お姉さんの教えに背くような
少年はしばらく
「…………そっか。そうなんだね」
白く
「わかったよ。なんだ。そんなことだったんだ──」
ぷちんっ──とチェーンを外し、
もしかしたらこいつは、ずっと答えを探していたのかもしれない。
彼の過去に何があったのかは知らない。古傷など誰もが持っている時代だ。だがその
抱かれたまま、アッシュは眠った。やがて安らかな寝息が聞こえ始める。
フィリスは彼の背を
「……お前、泣いてんのか?」
「泣いてますよ。生きてますもの」
やがてフィリスは一度でっかいくしゃみをする。全員びしょ
![](https://discover-images-upload.s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/images/upload/dengekibunko/05_P243s.jpg)
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