断章 正しい悪夢
眠っている間、アッシュは夢を見た。
夢は断続的な光景を見せる。彼自身が無意識に封じ込めたところまで。
たとえば家。海と船。ベッドと、絵本。たとえば、学校──母の笑顔、父の無骨な手──優しい語り──銀の破片、将来の夢、潮の匂い──銃声、血臭、姉の笑顔、
赤い赤い道、
消えてなくなった故郷──
あの日、自分の手を引いて走る姉は、前を見ながら泣いていた。
「大丈夫」
四つ上の姉、アイリス・デリックは泣き声で何度も繰り返す。
「大丈夫よアッシュ。父さんと母さんの代わりに、私が……あなたを、守るから……」
父と母はもういない。スコットランド北部の静かな港町は、今や赤い絵の具で塗り潰された出来損ないの絵画だ。行き場所なんてもうどこにも無かった。
気が付けば、目の前に一人の
十歳のアッシュは、その時、初めて「殺し」を行った。
考える前に動いた。姉の前に出て、全身のバネをうまく使い、右手に握り込んだものを突き上げる。鋭く理想的な動き。
「アッシュ、あなた……」
後ろで姉が
「行こう、姉さん。──僕も、姉さんを守るよ」
街はどこも
だけど、姉さんさえ
それから、どれほど歩いたか知れない。壊滅したグラスゴーを通過し、エディンバラに差し掛かったところ、粗末な封鎖線で自警団を名乗る男たちに止められた。
「お前たちは人間か?」
「人間です。お願いです、ここを通してください」
「信じられん。北側は地獄の
「襲ってくる
アッシュが一歩前に出ると、男たちは一斉に警戒して銃を向けてきた。それでも動じることなく、ナイフの刃の方をつまみ持ってみせる。
「あいつらはこれで刺すと、体が塩みたいになります。たぶん、これが銀でできてることに関係があると思います」
相手は半信半疑の状態にある。「
姉はそこに目を付けた。
情報。誰も事態を正確に理解できていない混乱状態で、値千金の交渉材料となりえるもの。
「──私たちは、アバディーンから来ました。街で何が起こったのかすべて見ています」
はきはきした姉の
「エディンバラの中はどうなっていますか? もし北と同じようなことが起こってるなら、私たちの情報が役に立つかもしれません。──助け合いましょう」
連日の移動で薄汚れた顔のまま、それでも彼女は慈母の笑みを浮かべた。
二人は「協力者」として迎え入れられ、混迷のエディンバラに身を寄せる。そこはまだ人の方が多く、だが日々襲い来る死の波と
姉弟はそこで抜群の働きを見せた。片や風のように素早く正確に
姉は、交渉と人心掌握の。弟は殺人の。それぞれが、輝くばかりの天才だった。
混迷の五年間が、嵐より激しく過ぎ去っていった。
「正しく在りなさい、アッシュ」
ある日、崩壊した礼拝堂。傾いて×となった十字架を前に、姉は言う。誓約のように。
「こんな世界でも、自分を見失っちゃだめ。父さんと母さんも言っていたわ。希望を捨てないで……生きてさえいれば、きっと希望は見つかるから……って」
「うん。わかってるよ、姉さん」
両親の
二人は、押し寄せる死の波から姉弟を
「──何があっても、生きるの。そうよ。絶対に
神に誓って、姉に悪意は無かったと言える。
彼女は
道を違えた人間を殺せ。
正しくないものは、すべて息の根を止めろ。
姉の扇動は巧みだった。彼女はカリスマとなり、誰が決めるでもなく自然と人々の中心に立つようになった。やがて彼らが「危険な武装勢力」と見られるようになっても、姉が掲げる正義のために
しかしそれは、ある日突然
ある秋の日、まったく唐突に、見たことのない「何か」が現れた。
人でも
都市ひとつを覆い尽くすその翼からは、ある特異な羽毛が
触れる端から、人間を
アッシュはその時、敵対組織への「正義」の執行のためアジトを離れていた。仕事を終えた後で異変を察知し、胸騒ぎに駆り立てられる。邪魔者は全員始末した。空から伸びる羽毛を必死でやり過ごし、一路、アジトへ。
やっとの思いで
「……姉さん、僕だよ」
「……アッシュ? ねえ、私どうなってる? なんだか寒いの。指の感覚も、薄くて……」
正しく在りなさい──姉の声が、脳裏にこだまする。
生きなさい。父さんと母さんが
「逃げよう、姉さん」
頭の中を埋め尽くす雑音を、無理やりに封殺した。
「姉さんは大丈夫。それより生き残った他のみんなが帰ってくる。あいつらに見つかったら面倒なことになるかもしれない、ほら急ごう、ね?」
姉は、弟の態度ですべてを察した。
青ざめた肌。冷たい血肉。とうに命を失ってなお動き続ける物体は、故郷を失ったあの日から絶えず見続けていたものだ。そうしたモノを、姉の束ねる生存者たちがどうしてきたかも。
「ああ。……そうなのね」
「行こう。また二人きりに戻るだけだよ、大丈夫、言ったろ、僕が守るから──」
「……いいえ。駄目よ、もう」
「そんなことない!!」
何が正しいとか、何が間違っているとか、そんなもの本当はどうだって良かった。
ただ姉を守るため、姉の望みを
「姉さん、お願いだよ。僕と逃げよう。あなたさえいれば、僕はそれだけでいいから……!」
「……ええ」
姉の優しい抱擁を受け止め、アッシュは決意した。このままどこまでも逃げよう。最初と同じだ。行く先が地の果てであっても構うものか。
また何か声をかける前に、姉は
手に銀のナイフを握っていた。
元は姉自身の、最初に
「あなたはどうか、生きていて」
声を上げる間も無かった。
銀の刃が突き込むのは一瞬。姉だったものが、
〇
「姉さんは、どこですか。僕の姉さんを探してるんです」
アッシュがアナテマの前に姿を現したのは、それからほんの一月後のことだった。
近頃、生者と
「僕、正しいことをしたから。姉さん、きっと褒めてくれるから──」
少年の才能に目を付けたのは、自ら彼と
スコットランドの首都エディンバラを壊滅させた「翼の生き物」が、世界で三番目に確認された「天使」であることを、アッシュは遅れて知ることとなる。
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