エピローグ 今宵また、地獄に祈りを

『──もしもしお兄ちゃん? ねえ、大丈夫なの? なんかそっちの方で、空から光線? みたいなのが落ちてきたとか、変な風? みたいなのが吹いたとかニュースで見たんだけど……ほんと? なんともないのね? うん。──うん。え? あの子? うん、私は大丈夫だよ。だけどそっちは平気なの? うん、……そう。

 わかった。その子、くくりちゃんっていうのね? うん。楽しみにしてるね。それじゃ!』


 血の満月が明けるとほぼ同時に、とうきようではまた異常事態が起こった。

 白く光る風が街中を覆い尽くしたのだ。

 暖かく、やわらかな風だった。風は大きな流れとなり、広く乱雑な大通りを、街角を、裏路地を、はいきよを、荒野を駆け抜けてそこにあるすべてを優しくでる。

 すると、眠っていた人々が目を覚ました。Asエースの中毒者たちだ。軽度のこんすい者や依存を発症した者、少しでも幽体麻薬に魂を汚染された人々が、風を受けてたちまちのうちに快気した。

 更に、ちりになった夢遊病者までもが魂を取り戻し、こつぜんとそこに現れた。誰もがついさっきまで夢を見ていたというような顔で、不思議そうにあたりを見回していた。

 風の発生源は不明だった。目撃例として「ド派手なワーゲンバスに、翼の生えた少女が乗っていた」とか「高い建物の上に翼の少女がいた」などあるが、関連性は不明である。

 光る風は二週間ずっと吹き続け、骨の満月を境にふっつりんだ。

 とうきようだけでない。風はほのかに金色に光りながら、街の外へ、海の外へ、はるか空の果てへと流れていく。そうして世界中をゆっくりとで、風が吸い取った魂を戻していくのだろう。


    〇


 仕上げはでんどう跡地の向かいの雑居ビル屋上で行われた。

 骨の満月が過ぎた、夜明け。

 大して大きくもないビルだが、朝焼けの商店街がそこそこの高さから見下ろせた。静かな街から工事の音が聞こえてくる。建物の修復がようやく始まっているのである。

「──────ふぅっ」

 くくりは息を吐き終える。

 第六の天使の能力は「呼吸」にある。吸気で生命を吸い取り、翼に吸収する。逆を言えばありったけの力を込めて息を吐けば、それは生命を与える風になる。

 最初聞いた時は「ほんとかよ」と思ったミソギだが、実際にやられると文句も出ない。ラジオでは例のDJが興奮状態でなにやらわめき散らしており、ニュースに事欠かないとうきようの騒がしさをつくづく実感させられる。

「さて、ではざっと調べさせてもらおうか」

 機材を持ち込んでいたフランケンシュタイン博士がくくりを手招きする。改造ではない。

 検査は、存外に早く終わった。博士は断言する。

「やはり、人間だ。不思議な部分はどこにも無い」

 くくりの翼は、消えている。フィリスがあんのあまりその場にへたり込む。ウェイトレスが飛びついて、くくりは苦しそうにあぷあぷもがいた。

 天使は吸い取った魂を返し、人間に戻った。

 ──状況を考えるとそうなりそうだが、実際どうなのだろう。ミソギは博士を肘でつつく。

「……結局天使ってなんなんだ? もうじやとは違うのか?」

「わからん。サンプルケースが少なすぎる。えん氏に聞いたことはあるのかね?」

「知らねぇっつってたよ。見たこともねぇって」

「ならば、少なくとも冥界由来の存在ではないのだろう」

 博士はカルテに色々書き込みながら、後半は独り言のように、

「……だが、幽界化を境に現れたことは確かだ。私はこのところ思うのだがね、幽界が天使を生んだのか、それとも天使が幽界を生んだのか──卵が先か、鶏が先か、と。ククリ君が起こしかけたことを考えれば、あるいは、後者が正しいのやもしれん」

 ハイドは十年前から、それに気付いていたのだろうか。

 くくりはいつから「天使」だったのだろうか。生まれた頃からか。それとも幽界化を機に変わり、ハイドの手によって進化を促進させられたのだろうか──今となってはわからない。

「──天使とはもしかすれば、人間が何かの進化を果たした姿なのかもしれんなぁ」

 しみじみと、博士。ミソギにはさっぱりわからない話だ。

 ただ確かなのは、少なくとも今のくくりに天使の力は無いらしいこと。Asエース関連のことに決着をつけ、そしてもう命を吸うことは二度とないだろうということのみ。

 それでいいとミソギは思う。このまま普通に生きていられるのなら、そうすればいいと。

 と、ミソギのスマホが鳴った。待っていた。秒で出る。

えん様!?」

『うむ、わしじゃ。ミソギ、今回の仕事に関する査定が済んだぞ』

「で、で、いくらになるんすか……!?」

 こほん。えんはやたらもったいぶって、おごそかに告げる。

『やはり幽界化の阻止、その際にあふもうじやどもの送還がはくじゃな。まさに大手柄じゃ。これだけでも、総額ざっと一二〇億ってところかの』

「ひゃくにじゅうおく!!!」

 両目をカッ! と開いた。とんでもない額だ。借金を完済して余りある。頭の中が一瞬でバラ色になる。借金返済、完全復活、とうきよう脱出一生安泰あとは余生!

『が、おぬしが次元をつないでぶち込んでくれた、あのホレ、棒。あれがくせものでなぁ』

「は?」

『就労中の獄卒やら償い中のもうじややら、あと事務処理をしておるわしの部下やオフィスやもろもろの施設と地獄資源がまとめて巻き添えをらってしもうた。おかげで被害地区の操業は向こう十数年ストップ、にんが運び込まれて病院は大わらわじゃ。まさに大災害よな。して、その被害総額と今回の報酬を差し引き計算してみたが……』

「待て、おい待てやめろ、それ以上言うな」

『しめてマイナス五十四億二一〇〇万とんで一〇八円。ハイドの賞金も勘定に入れ、思いっきりオマケしてようやくプラマイゼロじゃ。わし、これでもかなり融通をかせたのじゃぞ』

「ま」

『というわけで、今後も引き続き頼むでな。それから二度とあんなことをしようなどと思うでないぞ! 次やったら借金どころの騒ぎでは』

 通話を切った。

「みそぎ、なんの話してるの?」

「なんでもない。悪い夢でも見てんだオレはきっとそうだ」

 寄ってきたくくりに答える。まあ別にどうでもいい。聞かなかったことにしよう。断じて。

 それはそれとして、くくりのことだ。アッシュが彼女に向き直り、ずっと聞きたかったであろうことを今聞いた。

「──くくり。天使だった君に、どうしても確かめておきたいことがある」

「うん」

「姉さんは、幸せになれたと思うかい」

 実の姉、アイリス・デリックのさいについて、アッシュはことさらに説明しようとはしなかった。ただ、簡潔に、まっさらな状態でそれだけを確認しようとした。

「アッシュは、透明な、やさしいにおいがする。ずっとそうだったよ」

「……笑えない冗談だな」

「これは……アッシュだけじゃなくて、たぶんもうひとりのにおいが混ざってる。女のひとだと思う。今は、前よりほんのちょっと、そのにおいが強いんだ」

 アッシュの表情は、外から見た感じでは、変わらなかった。

 くくりの顔をじっと見たまま、意外なほどに長い時間をかけて「そうか」とだけつぶやいた。

「全部はわからない。けどアッシュが生きてるかぎり、そのひとはしあわせだと思う」

 くくりにしかわからない。証拠も何も無い。そのくせ自信たっぷりな物言いには不思議な説得力があったし、アッシュはそれ以上何も言わなかった。こんな時代でも、いなくなってしまった者はやはり戻らず、その結末にどう折り合いを付けるかはいつだって生きている人間だけだ。

「いいのかよ。お前んとこ、天使の確保とやらが任務なんだろ」

「今の彼女はどう調べても人間だ。人間の子どもを引っ張って『天使です』とも言えない」

「まぁたもっともらしい理屈こねやがって。やりたくないって言やいいんだ素直に」

 アッシュは目を細めた。やるか、と構えるミソギだったが、大した反発も見せることなく、

「……かもしれないな」

 言って、くくりに手を差し伸べた。

「さあ、行こうか。そろそろ迎えが来る」

 がわくくりは、とうきようを去る。

 アッシュとフィリスが乗るアナテマの輸送機に同乗するのだ。パイロットには総隊長の息がかかっており、今回のことはすべて織り込み済み。イギリスへ帰る途中に寄り道をして、そこでくくりを降ろすはずだった。

 行き先は、妹の──そぎろくのもとだった。

 既に電話で話をつけている。身寄りのない人間の女の子を拾ったと説明すれば二つ返事だった。くくりは妹のもとで、もう犯罪も麻薬も、もうじやも天使も関係ない普通の生活を送るのだ。

「ねえ、ミソギ」

「ん? どうした、くくり?」

 くくりはとてとて寄ってきて、すぅっと鼻で呼吸した。

「──うん、いいにおい。色々ありがとう。あたし、このにおいを忘れないから」

「いいんだよ、忘れちまえ。悪い思い出ばかりじゃねえか」

「そんなことない。あたし、楽しかった」

 この日々を「楽しかった」とのたまうのも相当な図太さだった。だが満面の笑みでそう言われるとなんだかそんな感じもして、ミソギは思わず気の抜けたような笑みを返す。

 三人は、アッシュの武器以外には大した荷物も持っていない。バッグひとつを抱えたフィリスは、ミソギたちを順番に見て、思い切って日本式のお辞儀を見せた。

「ありがとうございましたっ! 色々と、お世話になりましてっ!」

「なんだおい改まって」

「だって本当のことですし、一度ちゃんと言っておかないとって……。私たちだけでは無理でした。ミソギやすいさん、博士にマスターにウェイトレスさん……皆さんのおかげです」

「実に興味深い体験だった。諸君の旅の無事を祈るぞ」

「またお会いしましょう──とも言えませんなぁ。どうかお達者に暮らしてくださいませ」

「うっ、うっぐ、ずす、ぐぐりぢゃん……みなざん……ずび、ふぐぅ、おげんぎで……」

 マスターの横でウェイトレスがガチ泣きしている。それでフィリスまでもらきしそうになった。ずびっと鼻をすすり、耐える、耐える──やっぱり耐えられなさそうだ。

 なんだかんだで素直なやつだ。湿っぽい空気になりそうなので、ミソギは肩をすくめて笑う。

「世話になったと思うならそのうち返せよ。現ナマならうれしいんだがな」

「う。それは、難しいかもしれませんが……あ! もしまたとうきようでの任務があったら、私たちが向かいますから──」

「……いや、またオレらが組むレベルの事態になってうれしいか? 冷静に考えて」

「二度とごめんだな」

 アッシュも同意見のようだ。えぇえ、と弱りきったフィリスをなだめ、アッシュは改めてミソギを見た。この涼やかな美貌だけは最初から変わらないが、最初よりは何を考えているのかわかりやすくなった気がする。

「そういうことだ」

「おう」

 交わす言葉はそれくらいで十分だった。名残惜し気に何度も振り返るフィリスを促し、アッシュはこちらに背を向ける。二度と振り返ろうとしない。


 くくりが思い出すのは、楽しかったこと、悲しかったこと、たくさん。

「ミソギ。アッシュ。フィリス。スイカ。はかせ。ウェイトレスさん。マスターさん」

 関わった人々の名を順番に呼んで、くくりは最後にひとつ、宝物のように彼を呼んだ。

「    」

 ハイドと呼ばれた男は、一度だけ、がわくくりに名乗ったことがある。

 ──どうせ捨てる名だ。お前の夢の道連れにでもしろ。

 くくりにそう言ったのは、ハイドがマスクを着けた最初の夜。家族を失い、泣いてばかりだった少女は、そのマスクを見て「鳥みたい」と初めて笑った。それを今になって思い出した。

 彼の目指す場所が正しかったかはわからない。何度地獄へ落ちても足りない罪かもしれない。

 だが、生きるも死ぬもペテンの世界で、正しいことなどあるだろうか。

 誰もが自分の決めたことを、自分のやるべきことをやっているだけだろう。死にながら生きて、生きて、生き抜くのだろう。そうしてつむがれた今に立ち、くくりは単純素朴な、自分自身の気持ちだけを口にした。

「……ずっと一緒にいてくれて、ありがとう」

 つぶやき、きびすかえす。自らの行くべき場所へ。


 そういう風にして、いつものとうきようが戻る。

 死神ミソギの目下の課題は、店の再建と車の修理。愛車だったレイスは特別仕様なので爆発四散しようとも貴重なパーツが山ほどある。死ぬ思いで拾い集めたそれはフランケンシュタイン博士に託しているので、なんとか元通りになることを祈るしかない。

 アッシュとフィリスはイギリスに戻る。今回の件で色々とやらかしたので、その件に関しての審議は避けられまい。──ということもとっくに承知の上なので、アッシュは帰るフリをしてほとぼりが冷めるまで行方をくらますつもりでいる。故郷のスコットランドに戻るのもいいかもしれない。フィリスを連れて行くかどうかは、その時に聞く。

 Asエースは消滅し、犠牲者もみんな戻った。一連の事件でヤードセールは大幅に弱体化した。街の勢力図は大きく変わり、ぶちるいはお尋ね者となっていた。今回の件で失脚し、残っていた組織の幹部からついに切り捨てられたのだ。今や街頭モニタには彼の顔と賞金額がでかでかと映し出されている。

 だがまだとうきように残っているらしい。身一つの逃亡者に身をやつしながら、残ったはした金を元手に新たな商売をたくらんでいるのだとか。ミソギはそれを、すいからの連絡で知った。ご丁寧に悪巧み現場の自撮り風写真を添えて。懲りない連中だ。

 老いも若きも男も女も、バカもアホもクズも犯罪者も、生きたり死んだり殺したり殺されたりして、冥界の時代は続いていく。おそらくは、いつまでも。

 ミソギは屋上の欄干に寄りかかり、朝焼けに染め上げられた街を見下ろす。生きてこの夜明けを迎えられたのだから、苦労をしたはあったのかもしれない──とガラにもなくセンチメンタルなことを思った。

 とにかく今は休息しよう。なんとかなったが、聖職者と組むのはもうごめんこうむる──


 電話が鳴った。


 えんからだ。まだ棒落としの件でお叱りがあるかと内心うんざりしながら応答し、

「…………は?」

 とつに振り返ると、屋上の扉に手をかけたままのアッシュと目が合う。

 あちらも、どうやら今しがた来たばかりの緊急通信に応答しているようだった。遅れてフィリスが恐る恐る振り返る。

 マスターとウェイトレスが慌てて撤収し始める。何かが起こる匂いを嗅ぎ取って、くくりが思わず「にまーっ」と笑う。遠くから銃声。振動。爆音。何か巨大なものの影。

「……そういうことだ。神様はどうも、休みをくれる気は無いらしい」

「いねぇよそんなもん! あぁクソ、地獄かここは!?」

 救済兵装が滑り出て、えんこうが「ぎりッ」ときしむ。

 新たな狂騒。選択の余地ゼロ。祈りのひとつでもささげて、またもちゆうに飛び込むしかない。

 幽界現象後、れい十一年、日本、とうきよう。無限に続く、にぎやかな地獄の街で。

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