第3章 俺は俺にしか従わない_その4
〇
次の夜、骨の満月がわずかに欠け、赤い月が顔を見せる。
だが
実のところ、
騒がしさを取り戻しつつある街の中を、ハイドはたった一人、歩いている。
ルートは複雑怪奇で一見無軌道だが、すべて時間と歩数に至るまで規定されている。そうしてふらりとホテルに戻り、懐中時計の秒針が予定時刻を指すのを見るまでがルーチンだ。
「な、なああんた、頼むよ。お願いだよ……薬、薬を、分けてくれよぉ……」
歩くハイドの足に男がすがりつく。
見れば路地裏の暗がりに何人もの中毒者が転がっている。男も女も、子どももいた。中には完全
予定を数秒オーバー。だが構わずその場にしゃがみ込み、中毒者の男の顔を間近に見る。
「お前たちは正しい」
言って、
白くゆらめく濃密な霊気が立ち上る。中毒者たちは砂漠に水滴を見つけたように群がった。
「じきに迎えが来る。もうしばらく待っていろ」
告げ、立ち上がる。マスクの奥の表情を
しばらく歩くと路肩に赤いマイバッハが
「──困りますぜ、あんなことされちゃ。市場にゃ相場ってモンがあるんでさ」
「ついてくる必要は無いと言ったはずだが」
「つれないこと言わんでください。なんせ心配でしてね」
一人で街を
「……なんでまた、何もしないので?」
積み荷が奪われたと知りながら、ハイドは目立ったアクションを起こそうとしなかった。やることといえば
「あんま言いたかないんですが、組織にイラつきだした連中がいましてね。
「お前は
はい? ──としか返せない。ハイドはこちらを見てもいない。前を向いたまま足だけを止めているのに、
「己の
「まさか」
「ならそうしろ。文句は言わせておけ」
今度は制止も聞くことなく、ネオンまたたく闇の向こうへと歩み去っていく。
「……いっくらなんでもマイペースすぎらぁな……」
個人的な感情としては、
生死の境が曖昧になったこの街では「金」という数値化された価値こそが絶対だ。その観点から見れば、
それに、痛快でもあった。組織に一切おもねることなく、ただ自分の考えによってのみ行動する孤高のスタンスは、ヤードセールを束ねる
「まあ、待ちますがね。鬼が出るか蛇が出るか、と……」
帰途を運転手に丸投げし、
突然、
車がひっくり返る。何があったとも口にできない。とにかく本能的に身を縮め、二転三転して逆さまになった車のドアを蹴り開けた。シートベルトを外して、命からがら脱出する。
直後、額に銃口を突き付けられた。
ブギーマンだ。車はすっかり取り囲まれている。
動けないでいると、ブギーマンの隊列がさっと左右に割れる。その奥から歩み出てきた初老の男を見返し、
「……これはこれは、支配人じゃございませんか」
ホテル・ブギーの支配人はボーラーハットのつばを指で上げ、
目隠しを取られた時、
どこかの冷蔵倉庫のようだった。おそらく密入国者や密輸入物を一時隠しておくための場所だろう。あるいは「それ以外」の用途もあるようで、床には丁寧に洗ってなお流しきれないどす黒い血痕が残っていた。
「……そろそろ聞いときましょ。こいつは一体、どういうおつもりで?」
「こちらの
ステッキに両手を置き、支配人は余裕たっぷりに返す。紳士ぶっているがリズミカルに持ち手を
「当ホテルは貴重なスタッフを何人も失っているのに、君ときたら何のフォローも無しだ。今回の一件では悪手ばかり打っているね。積み荷を奪われ、雇った小娘も役に立たず、おまけにハイド氏の手綱も握れんとは」
「ご安心を、神父と死神のデータは順調に集まってます。もう少しお待ちくださいや。
「いいや、時間切れだ。もう君には任せておけん」
ヤードセールは一枚岩ではない。一癖も二癖もある犯罪組織が利害の一致で寄り合った関係に過ぎず、隙あらば連合の主導権を握ってやろうと
だから、一連の
「……だったら、どうするおつもりで?」
「君を『絵』にしようと思う」
ホテル・ブギーの支配人は奇妙な絵の収集を趣味としている。
素材は人体。逆らった者を丸ごと一人、一枚の大きなキャンバスに「広げる」のだ。血色をバックに幾何学的に配置された肉や骨や血管のアートが、何枚も彼のオフィスを飾っている。
これは
当然、人間である
「そ~れはそれは、光栄千万ですなぁ……」
「安心したまえ、ハイド氏のバックには私がつく。あれは所詮ただの根無し草だ。餌をちらつかせればすぐに尻尾を振るだろう」
ただの根無し草。餌で尻尾を振る──。
「……何がおかしいのかね?」
「いや、失敬失敬。あんまり自信たっぷりなもんですから……あれを見て、そう思うとは」
ギブアンドテイクは基本中の基本。社会的に
だが、ハイドが歩んだ十年はおそらくそれとは真逆にある。
味方を持たず、徹底して一人だけで立ち続けてきた男の「論理」は商売人のそれとは違い過ぎるほど違う。彼が
「強がりはよせ。君は敗北し、今日この瞬間をもってヤードセールは私のものとなる。手ぬるい若造のやり方よりもよほど効率よく組織を成長させてみせる」
「やってみやがれ!!」
突然の
椅子に縛られたまま、
「ヤードセールがあたしのもんだと言う気はねェ。こちとらてめェの商売をやり抜いたまでだ! おたくらの商売がそれ以上だってんなら見してみな! あの男を乗りこなして、もっとでけぇカネを生めるかどうか、楽しみに待っててやらァ!」
支配人が顔を
壁の一点が、いきなり
冷蔵倉庫の壁は断熱パネルを敷き詰めたきわめて強固なもので、車が激突しても平気な分厚さを誇る。それが突然、厚紙か何かのように、いとも
見られた。
厚いブーツが床を踏む。彼が入ってきた瞬間、場の全員が、
「……ああ、やあ、ハイド君。
「お前は
開口一番、質問が投げられる。
支配人は一瞬意味を理解しかねたが、すぐさま相好を崩し、ハイドに取り入ろうとした。
「当然、君のサポートをする
その時、ハイドの中で何かの「判定」が下される。
いつの間にか、彼は剣を抜いていた。
周囲の刺客が一斉に反応する。無数の銃口を向けられ、ハイドはこゆるぎもしない。手に持つのは長さほんの六〇センチほどの直剣、ただ一振りだった。
「……よしたまえ、ハイド君。私に従え。この人数を相手に勝てるつもりかね?」
ハイドの声色は、波紋ひとつも起こすことなく、
「俺は俺にしか従わない」
銃が一気に火を噴く。
だがハイドはもうそこにはいなかった。
わずかに揺らいだ風の流れだけを残し、
「五十一人──二十秒」
ハイドは空中にいた。人数と秒数を設定。直剣をくるりと回し、「それ」の鍵を開く。
「
そして、「風」が吹いた。
風が収まる時、刺客は皆、消えていた。
純白のコートには返り血の一滴も付着しておらず、ハイドはただ、最初から最後まで秒数だけを数えていた。死すらも欺くこの世では、今や刻一刻と進む時だけが平等だから。
「まさか、こんな、こんな……ッ!」
すべてを
「……弱すぎる。おかげで六秒も余った」
「よ、よせ! わかった! 私は手を引」
頭の中で正確なカウントを進め、定刻きっかりに斬る。
直剣を一振りした瞬間、また風が吹き、支配人の肉体がたちまち細切れに切り裂かれる。
「俺がお前たちを利用しているのは、
「……承知の上ですとも」
「ヤードセールの組織図に興味は無い。
直剣は今、
「お好きに。おたくが結論したことなら、あたしはどう
「……」
「きっと誰がどうなろうが、おたくはやることをやるんでしょうや。だから冥途の土産にじゃございませんが、最後にひとつ教えてくれやせんか。──一体、何を狙ってるんで?」
沈黙は短かった。ハイドは今も秒数をカウントしているのだろう。その時の流れに
それを、告げた。
簡潔だった。だが誰も考えない、思いつきすらしない「狙い」。
笑いが込み上げてきた。
止めようとて止められない。腹の底からふつふつと沸き上がり、口に出る頃には倉庫中に響く大笑いになっていた。こんなに快く笑ったのは何年ぶりだろう。
「──傑作だ、こいつは最高だ! ご勘弁くださいハイド、やっぱりあたしはまだ死ぬわけにいかねェ! そんな話を聞かされちゃあね!」
「……」
「考えがありやす。どうせヤードセールはいっぺん整理しなくちゃならん。ホテルの連中と似たようなこと考えてる連中は実際多くてね、時間があるうちに悪因を片っ端から掃除してやりましょうや。まあ組織はだいぶ縮みますが、後を考えりゃ動きやすい方がいいですわ」
「つまり俺を全力で支持すると。──何の
ハイドは初めて「興味」のようなものを示す。
「んなもん商売に決まってまさぁ。おたくの計画が実現すれば、見込める利益は今までの比じゃァない。これほどでかいチャンスを前に奮い立たねぇ商人はいねェ、そうでしょう!?」
風が吹き、だが
「……なるほど。俗物だな」
「そりゃあ、人間なものでね」
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