第3章 俺は俺にしか従わない_その4


    〇


 次の夜、骨の満月がわずかに欠け、赤い月が顔を見せる。

 だがさくの月はいかにも心細く、多くのもうじやはまだ本調子になれなかった。

 実のところ、Asエースはこういう時こそ飛ぶように売れる。麻薬がもたらす高揚感は腐敗のけんたいを塗り潰し、だからこそ一時の救いを求めるもうじやが後を絶たない。

 騒がしさを取り戻しつつある街の中を、ハイドはたった一人、歩いている。

 ルートは複雑怪奇で一見無軌道だが、すべて時間と歩数に至るまで規定されている。そうしてふらりとホテルに戻り、懐中時計の秒針が予定時刻を指すのを見るまでがルーチンだ。

「な、なああんた、頼むよ。お願いだよ……薬、薬を、分けてくれよぉ……」

 歩くハイドの足に男がすがりつく。Asエースの重度中毒者だ。

 こんすいと覚醒を繰り返し、今が夢か現実かもわからなくなると、もう二度と目覚めなくなるまで麻薬の接種をやめることはできない。中毒者にとってAsエースはもはや酸素に近かった。

 見れば路地裏の暗がりに何人もの中毒者が転がっている。男も女も、子どももいた。中には完全こんすい状態に陥った者もいる。無限に眠る者の顔は、少なくとも安らかだった。

 予定を数秒オーバー。だが構わずその場にしゃがみ込み、中毒者の男の顔を間近に見る。

「お前たちは正しい」

 言って、ふところから小さな密閉容器を取り出す。濃縮されたAsエースの素だ。いかなる素材から生まれたものかハイド以外にはわからず、彼はそれをためらいなく砕いてのけた。

 白くゆらめく濃密な霊気が立ち上る。中毒者たちは砂漠に水滴を見つけたように群がった。

「じきにが来る。もうしばらく待っていろ」

 告げ、立ち上がる。マスクの奥の表情をうかがい知ることは誰にもできない。

 しばらく歩くと路肩に赤いマイバッハがまっており、後部座席の窓が開いた。

「──困りますぜ、あんなことされちゃ。市場にゃ相場ってモンがあるんでさ」

「ついてくる必要は無いと言ったはずだが」

「つれないこと言わんでください。なんせ心配でしてね」

 一人で街をはいかいするハイドの足跡をつかむのに、ぶちはそれなりの苦労をした。伝えておきたいことも、確認しておかなければならないこともあった。

「……なんでまた、何もしないので?」

 積み荷が奪われたと知りながら、ハイドは目立ったアクションを起こそうとしなかった。やることといえばとうきようの散策と、さっきのような気まぐれめいた施しくらいのものだ。

「あんま言いたかないんですが、組織にイラつきだした連中がいましてね。Asエースの開発者はどこで道草食ってるんだ、と。ここはいっちょ直々に今後の指針を……」

「お前はここにいる」

 はい? ──としか返せない。ハイドはこちらを見てもいない。前を向いたまま足だけを止めているのに、ぶちはまるで体中を観察されるような錯覚を覚えた。

「己のためか。それとも、その組織とやらの機嫌を取るためなのか?」

「まさか」ぶちは心外とばかりに、「商売ですよ。自分の商売だ。そりゃ組織はでかくなりましたがね、あくまであたしはあたしの商売を……」

「ならそうしろ。文句は言わせておけ」

 今度は制止も聞くことなく、ネオンまたたく闇の向こうへと歩み去っていく。

 ぶちはため息をついてシートに身を埋め、運転手に発車を命じた。

「……いっくらなんでもマイペースすぎらぁな……」

 個人的な感情としては、ぶちはハイドのことを信用している。

 生死の境が曖昧になったこの街では「金」という数値化された価値こそが絶対だ。その観点から見れば、Asエースを開発したハイドこそ最も評価されるべき存在だとぶちは本心から思う。天才には天才にしか理解できない行動原理があり、あの偏執的なまでにちようめんな性格上、無駄なことは絶対にするまい。どう転ぶにしても「何か」があるとぶちは踏んでいる。

 それに、痛快でもあった。組織に一切おもねることなく、ただ自分の考えによってのみ行動する孤高のスタンスは、ヤードセールを束ねるぶちにはできないものだ。

「まあ、待ちますがね。鬼が出るか蛇が出るか、と……」

 帰途を運転手に丸投げし、ぶちは数分の仮眠を取る。多忙ゆえ隙間時間の休息が肝だ──

 突然、ものすごい衝撃が全身を襲った。

 車がひっくり返る。何があったとも口にできない。とにかく本能的に身を縮め、二転三転して逆さまになった車のドアを蹴り開けた。シートベルトを外して、命からがら脱出する。

 直後、額に銃口を突き付けられた。

 ブギーマンだ。車はすっかり取り囲まれている。

 みみざわりな金属音を立て、脚部を機械化した改造もうじやが立ち上がる。こいつが横から車を蹴り飛ばしたのだ。確か「」──犯罪者の密入国を手引きする組織の刺客だ。はホテル・ブギーと蜜月の関係にある。

 動けないでいると、ブギーマンの隊列がさっと左右に割れる。その奥から歩み出てきた初老の男を見返し、ぶちは納得した。無軌道な襲撃よりよほどに落ちる相手だ。

「……これはこれは、支配人じゃございませんか」

 ホテル・ブギーの支配人はボーラーハットのつばを指で上げ、ぶちを見下した。ヤードセールの若き長に向けられた目には、失望と静かな怒りが燃えている。


 目隠しを取られた時、ぶちは照明の思わぬ強さに目をしばたかせる。

 どこかの冷蔵倉庫のようだった。おそらく密入国者や密輸入物を一時隠しておくための場所だろう。あるいは「それ以外」の用途もあるようで、床には丁寧に洗ってなお流しきれないどす黒い血痕が残っていた。

「……そろそろ聞いときましょ。こいつは一体、どういうおつもりで?」

「こちらの台詞せりふだ、ぶち君。我々をどれだけ待たせるつもりなのかね?」

 ステッキに両手を置き、支配人は余裕たっぷりに返す。紳士ぶっているがリズミカルに持ち手をたたく人差し指を見るに、内心は相当いらっているだろう。

「当ホテルは貴重なスタッフを何人も失っているのに、君ときたら何のフォローも無しだ。今回の一件では悪手ばかり打っているね。積み荷を奪われ、雇った小娘も役に立たず、おまけにハイド氏の手綱も握れんとは」

「ご安心を、神父と死神のデータは順調に集まってます。もう少しお待ちくださいや。もうじやなら老い先短いなんてこともないでしょう?」

「いいや、時間切れだ。もう君には任せておけん」

 ヤードセールは一枚岩ではない。一癖も二癖もある犯罪組織が利害の一致で寄り合った関係に過ぎず、隙あらば連合の主導権を握ってやろうとたくらむ勢力は少なくない。それを封殺してきたのはひとえにぶちの手腕であり、確固たる実績だった。

 だから、一連のぎわぶちの信頼がかげったのをチャンスと見るのは当然だ。Asエースが生み出すばくだいな利益は、とうきようで生きる者なら喉から手が出るほど欲しいに違いない。

「……だったら、どうするおつもりで?」

「君を『絵』にしようと思う」

 ホテル・ブギーの支配人は奇妙な絵の収集を趣味としている。

 素材は人体。逆らった者を丸ごと一人、一枚の大きなキャンバスに「広げる」のだ。血色をバックに幾何学的に配置された肉や骨や血管のアートが、何枚も彼のオフィスを飾っている。

 これはとうきよう流の最大級の制裁である。不死のもうじやは、食われたり焼かれたりして肉体が完全に原型を失うと、魂だけ抜けて幽霊となる。しかしはんに体が残った状態で固定されると、幽霊にもなれずにずっとそこに縛り付けられるのだ。いっそ本当に死んだ方がマシな苦しみと屈辱にさらされ、死体のアートは弱々しくうめき、うごめく。

 当然、人間であるぶちがそれをされたら、生きていられるわけがない。

「そ~れはそれは、光栄千万ですなぁ……」

「安心したまえ、ハイド氏のバックには私がつく。あれは所詮ただの根無し草だ。餌をちらつかせればすぐに尻尾を振るだろう」

 ただの根無し草。餌で尻尾を振る──。ぶちは、つい失笑を漏らしてしまった。

「……何がおかしいのかね?」

「いや、失敬失敬。あんまり自信たっぷりなもんですから……を見て、そう思うとは」

 ギブアンドテイクは基本中の基本。社会的にって立つものを持たぬもうじやにとっては物理的報酬が最重要で、命をも担保にした金銭の駆け引きこそぶちとヤードセールの十年間だった。

 だが、ハイドが歩んだ十年はおそらくそれとは真逆にある。

 味方を持たず、徹底して一人だけで立ち続けてきた男の「論理」は商売人のそれとは違い過ぎるほど違う。彼がAsエースを生んだ理由は利益のためではない──直感がそう告げていた。

「強がりはよせ。君は敗北し、今日この瞬間をもってヤードセールは私のものとなる。手ぬるい若造のやり方よりもよほど効率よく組織を成長させてみせる」

「やってみやがれ!!」

 突然のたんに、支配人がたじろく。

 椅子に縛られたまま、ぶちは笑みさえ浮かべていた。

「ヤードセールがあたしのもんだと言う気はねェ。こちとらてめェの商売をやり抜いたまでだ! おたくらの商売がそれ以上だってんなら見してみな! あの男を乗りこなして、もっとでけぇカネを生めるかどうか、楽しみに待っててやらァ!」

 支配人が顔をゆがめ、自ら銃を取り出す。ぶちは命乞いなどしようともしない。こいつは商売の話だ。しくじった時のツケ払いは覚悟の上。

 壁の一点が、いきなりはじけた。

 冷蔵倉庫の壁は断熱パネルを敷き詰めたきわめて強固なもので、車が激突しても平気な分厚さを誇る。それが突然、厚紙か何かのように、いとも容易たやすくぶち崩された。

 

 厚いブーツが床を踏む。彼が入ってきた瞬間、場の全員が、か同時にそう思った。

「……ああ、やあ、ハイド君。うわさはかねがね聞いているよ。我がホテルの居心地はどうかね?」

「お前は、ここにいる」

 開口一番、質問が投げられる。

 支配人は一瞬意味を理解しかねたが、すぐさま相好を崩し、ハイドに取り入ろうとした。

「当然、君のサポートをするためだ。君の作る薬は素晴らしい! その頭脳と探求心に敬意を表し、Asエースとうきようじゅうに普及するよう尽力するのさ。いいかね、私は味方なのだよ」

 その時、ハイドの中で何かの「判定」が下される。

 いつの間にか、彼は剣を抜いていた。

 周囲の刺客が一斉に反応する。無数の銃口を向けられ、ハイドはこゆるぎもしない。手に持つのは長さほんの六〇センチほどの直剣、ただ一振りだった。

「……よしたまえ、ハイド君。私に従え。この人数を相手に勝てるつもりかね?」

 ハイドの声色は、波紋ひとつも起こすことなく、

「俺は俺にしか従わない」

 銃が一気に火を噴く。

 だがハイドはもうそこには

 わずかに揺らいだ風の流れだけを残し、くうと静寂が銃火に圧殺される。

「五十一人──二十秒」

 ハイドは空中にいた。人数と秒数を設定。直剣をくるりと回し、「それ」の鍵を開く。


解放ひらけ、『けつほうじん』」

 そして、「風」が吹いた。


 風が収まる時、刺客は皆、消えていた。

 純白のコートには返り血の一滴も付着しておらず、ハイドはただ、最初から最後まで秒数だけを数えていた。死すらも欺くこの世では、今や刻一刻と進む時だけが平等だから。

「まさか、こんな、こんな……ッ!」

 すべてをたりにした支配人は、一歩も動くことができなかった。直剣の先端を向けたまま、ハイドは小さくつぶやく。

「……弱すぎる。おかげで六秒も余った」

「よ、よせ! わかった! 私は手を引」

 頭の中で正確なカウントを進め、定刻きっかりに斬る。

 直剣を一振りした瞬間、また風が吹き、支配人の肉体がたちまち細切れに切り裂かれる。

 ぶちは椅子に縛られたまま動くに動けず、最初の位置でただただぼうぜんとしていた。

「俺がお前たちを利用しているのは、Asエースを街に流す上で効率がいいからだ」

「……承知の上ですとも」

「ヤードセールの組織図に興味は無い。うちめは勝手だが、これ以上くだらん勢力争いで俺の足を引っ張るくらいなら、お前も始末し、あとは自分でやる」

 ぶちの目には今、ハイドが何か、他の一切から隔絶した絶対的な存在に見えていた。事実その通りなのだろう。とうきようの風に慣れ過ぎた者たちには理解すら及ばぬ領域に在り、孤高のままに己の目的だけを遂行する。その遠さが、ひどくまぶしい。

 直剣は今、ぶちを向いている。

「お好きに。おたくが結論したことなら、あたしはどう足掻あがいても助からんでしょう」

「……」

 ぶちの返答はハイドにも少なからず意外だったらしく、マスクのくちばしがぴくりと動く。

「きっと誰がどうなろうが、おたくはやることをやるんでしょうや。だから冥途の土産にじゃございませんが、最後にひとつ教えてくれやせんか。──一体、何を狙ってるんで?」

 沈黙は短かった。ハイドは今も秒数をカウントしているのだろう。その時の流れにぶちがどのようにからんだのか、ぶちいさぎよさを物珍しくでも思ったか、ともあれ一言、

 それを、告げた。

 簡潔だった。だが誰も考えない、思いつきすらしない「狙い」。

 ぶちは眼前に浮かぶ凶器すら忘れ、ロングコートの白い影にくぎけになる。

 笑いが込み上げてきた。

 止めようとて止められない。腹の底からふつふつと沸き上がり、口に出る頃には倉庫中に響く大笑いになっていた。こんなに快く笑ったのは何年ぶりだろう。

「──傑作だ、こいつは最高だ! ご勘弁くださいハイド、やっぱりあたしはまだ死ぬわけにいかねェ! そんな話を聞かされちゃあね!」

「……」

「考えがありやす。どうせヤードセールはいっぺん整理しなくちゃならん。ホテルの連中と似たようなこと考えてる連中は実際多くてね、時間があるうちに悪因を片っ端から掃除してやりましょうや。まあ組織はだいぶ縮みますが、後を考えりゃ動きやすい方がいいですわ」

「つまり俺を全力で支持すると。──何のためだ?」

 ハイドは初めて「興味」のようなものを示す。くちばしのマスクがすいと動き、こちらに向いた。

「んなもん商売に決まってまさぁ。が実現すれば、見込める利益は今までの比じゃァない。これほどでかいチャンスを前に奮い立たねぇ商人はいねェ、そうでしょう!?」

 風が吹き、だがぶちは殺されなかった。いつの間にか彼を縛り付けていたロープがばらばらに切断される。そればかりか、椅子までも細切れだった。

「……なるほど。俗物だな」

「そりゃあ、人間なものでね」

 ぶちはにんまりと笑った。地獄の沙汰も金次第とは、けだし名言である。

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